幻術師の泡沫花嫁

 恋を自覚した翌朝には、雨が降っていた。美しい桜の花びらの名残をさらうように、ざあざあと雨粒が音を立てている。

 温室で流した涙は、ひとつ残らずあの小箱に仕舞われていた。きっと、彼が拾ってくれたのだろうと思う。

 ……これはもう、わたしのものなのね。

 幻術に精通しているわけではないわたしでも、この人魚の涙は下手に使っていいものではないとわかっていた。一粒で帝都の灯りを一晩補えるほどの代物なのだ。それこそ、彼のような幻術師がある程度の数をまとめて用いれば、この街ひとつ焼き払えるかもしれない。扱いには責任が伴う代物だ。

 ……換金するなら、彼に頼むべきね。

 幻術に疎いわたしでは、おそらく相手を見極めきれない。彼の手を煩わせることになるが、お願いするしかないだろう。

 ……自分のためだけには、使わないわ。

 彼が、幻術の才能でこの街に灯りを灯したように、わたしも何か人のためになることができたらいい。醜い恋心を隠して彼の隣にいようとする以上、行いだけは彼につりあうような人間でありたかった。

 実は昨日の彼の話を聞いて、ひとつ考えていることがある。まだぼんやりとしていて計画とも呼べないような考えだ。具体的な形にするためには、まず、あの場所について知らなければならないだろう。

「千花さま、おはようございます。今日はあいにくの天気でございますね」

 りんさんが、柔らかな微笑みを浮かべて紫陽花柄の着物を運んできた。このところは、彼女も笑みを見せてくれることが多くなった。打ち解けてきた証だろう。

 そんな彼女にならば、頼めるだろうか。話を、聞いてくれるだろうか。

「千花さま? どうかなさいましたか?」

 数秒の迷いののち、意を決してりんさんを見つめる。

「りんさん……あのね、わたしを帝都の裏路地に連れていってほしいの」



「よろしいですか、千花さま。決してわたしたちから離れてはいけませんよ」

 温室で彼と過ごした夜から一週間ほどしたある日、わたしはいつもより質素な着物を纏い、月雲邸に使える四人の使用人たちとともに街へ出ていた。

 中心街からすこし離れると、大きな運河がある。そこにも彼が設計した街灯がたくさん並んでいて、夜には有名な観光地となるらしいが、その運河からひとつ細い路地に入ると「帝都の裏路地」と呼ばれる場所に繋がるそうだ。まれに観光客が知らずに立ち入っては、身ぐるみ剥がされて出てくるらしい。

 分厚い灰色の雲が張り詰めた空の下、今日、ついにわたしは帝都の裏路地に足を踏み入れることにしたのだ。それもこれも、人魚の涙を売ったお金で裏路地の環境整備を援助できないかと考えたためだった。

 りんさんたちには人魚の涙には触れずに「個人資産を裏路地の整備に充てたいと考えている」とだけ告げてこうしてついてきてもらっている。どうして、とは聞かれなかった。何も言わずに「お力になれることがあれば」とだけ言ってくれたのだ。

 環境整備の専門家や、警備隊に寄付すればそれで済む話なのかもしれないが、ひと目だけでも現状を確認しておきたかった。彼が、幼いころを過ごした過酷な環境を見てみぬふりをしたくない。

 そんなことを彼に伝えれば反対されることはわかりきっているので、今日は内緒で出かけてきた。四人もわたしと共犯になってくれるようだ。

「参りますよ、千花さま。決して長居はできません」

「ええ……」

 四人に四方を囲われるようにして、細い路地を進む。平日の正午を過ぎたこの時間は、裏路地の治安がもっともいい時刻なのだという。裏路地の治安を悪化させている人々が眠っている時間なのだそうだ。

 そのため、この時間であれば、近道のために裏路地を抜ける表の人間も少なくないという。子どもたちや物乞いはこの時間を狙って施しをねだりにくるのだとりんさんは教えてくれた。

 ろくに舗装もされていない道には、ごみや泥があふれていた。表通りでは決してしない異臭がする。かびのような、何かが腐っているような匂いだった。

 道端には老人や、子どもや、下着のような服を纏った女もいた。りんさんが言った通り、裏路地の治安を左右する大柄な男や荒くれ者の姿は見当たらない。今ここにいるのは裏路地の弱者なのだろう。

 彼らは、品定めするようにこちらをじいっと見つめていた。りんさんたちに言われて服装や振る舞いには気をつけているつもりだが、裏路地にとって異質な人間であることはひと目でわかってしまうらしい。

 わたしの目の前では水野さんと瀬戸さんが、まるで用心棒のように目を光らせていた。いつもはきっちりとした黒い洋装だが、今日は柄物の着物を着崩している。考えていたよりもふたりは体格がよいようで、彼らを見て下手にわたしたちに近づいてくる者はいなかった。

「おねえちゃん……何か、めぐんで……?」

 痩せさらばえた少女が、路地の端から手を伸ばした。体の大きさは五歳ほどに見えるが、顔立ちは十歳にも見えるようなちぐはぐな姿をしていた。おそらく栄養が足りていないのだ。

「ええ」

 わたしの返事を合図に、りんさんが持っていた風呂敷の中からお菓子の包みを取り出す。何かをあげるのなら自由に必要なものが買えるように幾らかの小銭を渡そうと考えていたのだが、それでは夜になったら大人に奪われるだけだから意味がないとりんさんに言われてしまった。そもそも裏路地にいるような粗末な身なりをした子どもには、商人たちは物を売ってくれないのだとも。つくづく、自分の考えの甘さを思い知らされてばかりだ。

 気づけばりんさんのもとには、十人は超える子どもが集まっていた。どこにこれだけ隠れていたのだろう。包みを受け取るなり、子どもたちはやってきたときと同様に蜘蛛の子を散らすようにさっていく。

「ありがと、おねえちゃん」

 少女は抜けた歯を見せて笑う。答えるように頬を緩め、その小さな頭を撫でようとしたところで、少女はびくりと肩を跳ねさせて後ろに引いた。

 その姿に、ぐ、と息が詰まる。明らかに、日常的に暴力を受けている子の振る舞いだ。わたしも一時期、父の暴力のせいで兄が頭を撫でる手に怯えていたことがあるからわかってしまった。

「参りましょう、千花さま。そろそろ路地を抜けませんと」

 滞在時間は、ものの五分も経っていない。きっと、わたしが目にしたのは裏路地の闇の片鱗にも満たないだろう。本当の地獄は夕暮れ以降にやってくるのだ。

「わかったわ……」

 ここで、決して問題を起こしてはいけないことはよくわかっていた。裏路地の現状を確認したいというわたしのわがままに快く応えてくれた彼らに、迷惑はかけられない。彼らが引かなければならないと判断したときにはすみやかに従う約束でここまできた。

 表の人間たちが足早に抜けるという小道を、五人で一塊になって抜ける。建物の影になったその小道には、ごみを漁る子どもたちの姿が点在していた。

 あれは、十年前の彼の姿だ。ここにいる、りんさんたちの幼いころの姿だ。この状況から、彼やりんさんたちのように陽の光の中で生きていける人間はどれだけいるだろう。

 昼間だというのに、この場所はとても暗い。夜になれば、どれほど深い闇が訪れるのだろう。

 ……そういえば、街灯も見かけないわ。

 意識してみると、先ほど通った太い通りにもこの小道にも、街灯はひとつも設置されていなかった。これでは歩くのもひと苦労だろう。

「……裏路地の人々は、夜はどうやって過ごしているの? きっと、すごく暗くなるわよね」

 足早に歩きながら、隣にぴたりとくっつくりんさんに問いかけてみる。彼女は長いまつ毛を伏せて淡々と答えた。

「一部の有力者たちはランタンを持っていますが、闇を照らす術がない者は朝が来るまでじっと身を潜めているほかありません。下手に動けば荒くれ者たちの餌食になりますし、街の灯りに引き寄せられて出て行ったところで、表の人間に殴られるだけですから」

「っ……」

 幼い彼やりんさんたちが、暗闇の中で膝を抱える姿を想像して、息が詰まった。どれほど、恐ろしい思いをしただろう。

 ……この場所には、灯りが足りないのね。

 視界を、心を、明日を照らす光がない。暗がりの中でも外で、何かに照らされる暖かさを知らぬままに息絶えていく人が、どれだけいるだろう。

 根本的な解決策ではないかもしれないが、ひとつ、人魚の涙を使ってしたいことができた。ここに足を踏み入れなければ、きっと思いつきもしなかったことだ。

 ……ここに連れてきてくれたみんなのおかげだわ。

 お礼を言おうと口を開きかけたそのとき、ふと、二、三人の男たちがふらふらとりんさんとすずさんに近づいてきた。

「おいおい、こんな路地に似合わぬきれいなお嬢ちゃんたちだな」

「こんなところに何しにきたんだ?」

 すかさず水野さんと瀬戸さんがりんさんとすずさんに手を伸ばそうとした男たちの手を払う。男たちはぐ、と喚きながらも水野さんと瀬戸さんをぎらついた目で睨み返した。

「野郎……」

 男は、ぼろ布同然の上着から、短刀を取り出した。錆び付いていて切れ味は悪そうだが、じゅうぶんな脅威だ。

「千花さま、お下がりを」

 息をあわせてりんさんとすずさんがわたしを庇うように体で挟める。水野さんと瀬戸さんは、怯まずに男たちに対峙していた。彼らも護身用の短刀を懐にしまっているはずだが、取り出す気配はない。ことを大きくしないために、素手で解決する気でいるのだろう。

 りんさんたちが、苦しいほどにわたしに身を寄せてくる。目いっぱい庇おうとしてくれているのだ。息を潜めてことの成り行きを見守ることしかできないのがもどかしい。もしも水野さんたちが危なくなったら、迷わず人を呼びに行こう。

 そう決意を固めたとき、ふいに小道の傍からひとりの女性が姿を現した。

「やめな、あんたたち。あたしの客だよ」

 女性にしては低く、圧のある声だった。男たちはその女性の姿を認めるなり、舌打ちをして裏路地の中心部のほうへ逃げていく。手慣れている様子だった。

 女性は他の者たちよりも、幾らか質の良い着物を着ていた。生地は薄汚れているが、落ちぶれた様子はない。

「あの……どなたか存じませんが、ありがとうございました」

 おかげで、大事にならずに済んだ。りんさんとすずさんたちの間から礼を述べれば、くつくつと含み笑いが聞こえてきた。

「どなたか存じませんが、ね。夫婦揃ってずいぶん他人行儀じゃないか」

 女性が、ゆっくりと距離を詰めてくる。建物の影から出て初めて、彼女の顔がしっかりと見えた。

「お久しぶりだね、奥さま」

「八重、さん……?」

 りんさんたちも、息を呑むのがわかった。実に、ひと月ぶりの再会だ。




 八重さんの導きで速やかに裏路地を抜けたわたしたちは、運河のほとりまでやってきていた。観光名所となるのは灯りが灯る夜だからか、昼間は人がまばらなようだ。

「なんたってあんたたちがあんなところにいたんだい? あの坊ちゃんにまとめて捨てられたのかい?」

 冗談めかして笑う八重さんの顔は、屋敷にいたころよりどこか吹っきれているように見えた。清々しい顔だ。わたしが知っている使用人の「八重さん」とはまるで違うけれど、今の彼女のほうが無理をしていないように見える。

「わたしのわがままで、みんなに裏路地に連れてきてもらったの」

「観光気分か。生粋のお嬢さまはやることが違うねえ」

「そうね……そう言われても仕方がないわ」

 りんさんたちだって、快くついてきてくれたが、きっと八重さんと同じようなことを思った瞬間はあったはずだ。それを表にも出さずにわたしの目的のために連れ添ってくれた彼らには、心からの感謝しかない。

「八重さんは……ここで何を?」

 先ほどは客、と言っていたが、何か商売でも始めたのだろうか。

「あたしは、今は運河の清掃作業でなんとかやってんだよ。割がいい仕事ってわけじゃないけどまあ、仕方ないね」

 確かに、着物の袖口や裾ばかり汚れている。懸命に掃除をしていた証なのだろう。どうやら裏路地の稼業ではないらしいことに、勝手に安堵してしまう。

「……お掃除のかたわら、ああやってわたしたちみたいな人を助けてくれているの?」

「この辺りで刃傷沙汰でも起こされたらあたしの仕事が増えるから、ってだけさ。血や肉片を片付けるのは大変なんだよ」

 けらけらと笑い飛ばしながらも、彼女はわたしを横目で一瞥し、それからふい、と顔を背けた。

「あとは……あんたのいう償いの意味も込めてる。あたしは昔のことがあるから、この辺では顔がきくんだ。ああやってひと睨みすれば、大抵ことは丸く収まる。すくなくとも日中はね。……あたしが昔盗みをした相手なんてもうわからないし、あんたたちはあたしを見逃しやがったから……盗人として罪を償うのは難しいんだよ」

 八重さんは、苦々しく笑いながら運河を眺めていた。彼に暴言を吐いて屋敷を出て行ったときとは違う、葛藤を秘めた瞳をしている。

「あ……それ」

 ふと、八重さんの首もとにきらりと光るものを見つけた。あの日、わたしが手渡した人魚の涙のうちのひと粒が、紐に括り付けられて首に掛けられている。

「ああ、こんな着物には似合わないけどね、あたしがこれ以上悪さしないよう、この子に見張ってもらってんのさ」

 八重さんは紐を摘んで、真珠ににいっと笑いかけた。

「あたし馬鹿だからさ、後先考えずにあんたの持ち物に目が眩んで手出しちまっただけで……あの屋敷のことは気に入ってたんだ。……せっかく旦那さまに拾ってもらって、まっとうに生きる機会をもらったのに、本当に馬鹿だよ」

 八重さんは真珠を握りしめながら、弱々しく唇を歪めた。種類は違えどのこのひとは、どんなときでも笑みを崩さないようだ。

「今だって、まっとうに生きているわ。なんなら働いて、自分で生活して、お仕事のかたわら人助けもしている。人並み以上よ」

 今の八重さんは、わたしなどよりもよほど立派だ。八重さんは、気恥ずかしそうにはっと笑った。

「やめておくれよ、甘やかしたらまた悪さするかもしれないよ」

「もうしないと思うわ。その子もいるし」

 八重さんの首もとの真珠を見つめ、頬を緩める。憎らしいばかりだった虹色の光を、初めて誇らしく思えた。

 彼女は静かに微笑むと、いちどだけ頷いた。そうして、気恥ずかしさを誤魔化そうとでもするように、張り詰めた雲を見上げる。

「……なんだか雨でも降りそうだね。あんたたち、そろそろ帰んなよ」

 確かに、八重さんの言う通り先ほどまでよりもいっそう暗くなったように思う。今すぐに降り出してもおかしくなかった。

「そうするわね。体には気をつけてね、八重さん」

「ああ、旦那さまにもよろしく。……このあいだ見かけたときには、知らんぷりされちゃったからさ。どちらさまかな? だってさ。……許されるように頑張るよ」

 八重さんは頬を掻きながらへへっと笑う。

 ……彼が、知らないふりをするかしら。

 怒っていたとしても、無視するのではなく鮮烈な怒りを向けてくるような類のひとだと思っていた。いまだに八重さんから水と塩をもらったことを忘れていない彼が、そんなふうに彼女をあしらうだろうか。

「それ……本当に彼だったのかしら」

「そういや、出かけてるにしては珍しく着物を着ていたね。見慣れない眼鏡もしていたし、人違いだったのかも。そりゃ、どちらさま? ってなるのも当然か」

 どくり、と胸の奥で心臓が揺れ動く。けらけらと笑う八重さんの笑い声が、ずいぶん遠く聞こえた。

 ――俺も何度か会ったことがあるけど、朔と瓜ふたつで、まるで兄弟のようだった。

 いつかの桜木さまの言葉が蘇る。和装を好むのか、眼鏡をかけているのかは定かではないが、八重さんが見間違えるほど彼に似ている人物なんて心当たりはひとつしかない。

 ……朧さん、なのかしら。

 あまりに確証はないが、彼に伝えてみるべきだろう。彼はずっと、唯一の血族である叔父を探しているはずなのだから。

「……ありがとう、八重さん。また会いにくるわ」

「あんまり近づくんじゃないよ、こんな場所。あんたみたいな若い娘さんの遺体なんか、ごまんと見るんだからね」

 わたしたちを追い払うように八重さんは手を振った。りんさんたちも口々に別れを告げて、運河から離れる。

 雨の匂いが、濃くなっていた。今すぐにでも降り出しそうだ。

「雨宿りも兼ねて、甘いものでも食べて帰りましょう。みんなに今日のお礼がしたいの」

 歩きながら四人に語りかける。いちばんはじめに反応したのはすずさんだった。

「よろしいのですか? わたしはあんみつがいいです!」

「わかったわ。そうしましょうか」

 くすりと笑いながら街へ向かって歩く。

 裏路地のこと、八重さんのこと、そして――朧さんのこと。

 ぐるぐると渦巻く頭の中を、整理しなければならなかった。考えごとのおともには、とびきり甘いあんみつはぴったりかもしれない。