支店の裏口を出た瞬間、夜の空気が肺の奥に刺さった。
寒い。
それなのに、頭だけ熱い。
昼間に先輩に言われた声が、まだ残っている。
危ないよ。集中できてない。
私は笑って、うなずいて、すみませんを置いた。
置いたはずなのに、胸の内側が整わない。
駅まで歩く間、スマホを握っていた。
画面を点けて、消して。
点けて、消して。
通知がないことが当たり前なのに、当たり前が冷たい。
改札を抜けたところで、私は足を止めた。
家へ向かう矢印が、体の中で消えている。
帰ったら、またごはんが入らない。
また眠れない。
明日も、同じようなミスをする。
そう思った瞬間、喉の奥がひりついた。
整えないと、崩れる。
その整え方を、私はもう知ってしまっている。
知ってしまっていることが、いちばんまずいのに。
気づけば、繁華街の光の方へ歩いていた。
自分の足が勝手に覚えている道。
ネオンが増える。
人の声が増える。
匂いが混ざる。
甘い香水と、揚げ物と、煙草と、アルコール。
その奥に、あの乾いた石けんみたいな匂いを探している自分がいた。
嫌だ。
でも、止まれない。
看板が見えた。
私は一瞬で息が浅くなった。
帰ろう、って思う。
帰れない、って体が言う。
ドアノブに触れる指が、冷たくて震えた。
私は、自分に小さく言い訳をする。
座って、落ち着いて、帰るだけ。
それだけ。
扉を押すと、甘い匂いと音が一気に押し寄せた。
ライトが目に刺さる。
笑い声が波みたいに重なる。
受付の人が笑って、名前を聞いてきた。
喉が乾いた。
この瞬間が、いちばん恥ずかしい。
私は息を吸って、小さく言う。
「……朔さん、指名で」
言えた。
言えたのに、胸の奥がきゅっと縮む。
受付は慣れた顔で頷いて、席へ案内した。
通路を抜けて、奥の方。
音が少し柔らかい場所。
私は椅子に座って、膝の上で指を絡めた。
すぐ来る。
そう思っていた。
でも、来ない。
水のグラスだけが置かれた。
コースターが音を吸い込む。
静か。
静かなのに、心臓だけが忙しい。
少しして、男の人が二人、こちらへ来た。
片方は明るい。笑顔が軽いのに、どこか真面目な顔つき。
もう片方は、いかにもチャラい。髪も服も、鏡みたいに光っている。
明るい方が、先に口を開いた。
「こんばんはー。今日は俺らヘルプね。……朔さん指名?おっけー」
言い方が軽いのに、段取りはきちんとしている。
チャラい方が、椅子に腰を落としながら笑った。
「ゆいちゃん、だっけ?いいね、名前かわいー。今日テンション上げてこ」
私は反射で背筋を正した。
「……すみません。あの、朔さん……」
自分で言っておいて、言葉が続かない。
忙しいですか、と聞くのが正しい。
でも、聞いたところで、私は何なんだろう。
客だ。
指名した客。
そのはずなのに、手が冷たい。
明るい方が、にこっと笑って、曖昧に頷いた。
「今日はね、ちょい混んでる。たぶん、すぐ来れると思うよ。だからさ、とりあえず楽しくしよ?」
チャラい方も合わせるみたいに身を乗り出す。
「そうそう。待ってる時間って損じゃん?俺らとしゃべってたら秒で時間経つって」
損。
その言葉が、なぜか刺さった。
私は損得でここに来たわけじゃない。
でも、私の時間が軽く扱われた気がして、喉が詰まる。
私は水を一口飲んだ。
冷たい。
落ち着かない。
「……指名って、初めてで。こういう時って、待ってたら……」
言いかけた私の声は、思ったより小さかった。
明るい方が、すぐ答えない。
笑顔は崩さないまま、視線だけを通路の向こうへ滑らせた。
「うん。待ってて。来れる時に来るから。大丈夫」
大丈夫。
その言葉が、私の中で勝手に形を作る。
大丈夫じゃないのに。
私は頷いてしまう。
頷いた自分が、また恥ずかしい。
チャラい方が、メニューをパタンと開いた。
「とりあえず飲も。何がいい?甘いの?軽いやつ?」
私は首を振る。
「私、飲めなくて……」
「えー。じゃ、ちょい薄めで。今日寒いし、あったまるよ?」
薄め、という言葉が優しさに見える。
優しさに見えるから、断りづらい。
私は唇を噛んだ。
「……ジンジャーエールで」
明るい方が、すぐに手を上げた。
「了解。ジンジャーね」
段取りが早い。
それだけで、場が整う。
整うのに、私だけ整わない。
その時、通路の向こうに、朔が見えた。
一瞬だけ。
影が近づくみたいに空気が落ち着く。
派手じゃないのに、目が吸い寄せられる。
私が見ているのに気づいたのか、朔の視線がこちらへ来た。
目が合った気がして、胸が熱くなる。
朔がこちらへ歩いてくる。
心臓が跳ねた。
助かった、って思ってしまう。
椅子の背に手を置いて、朔が少し身をかがめた。
「……来てたんだ」
低い声。
それだけで、呼吸が戻る。
私は言葉を探す。
すみません、じゃない。
何か、ちゃんとしたことを。
でも、喉が乾いて声にならない。
朔は私を責めない。
責めないまま、短く言った。
「ごめん。今日……」
その続きが出る前に、別の席から声が飛んだ。
「朔さーん!こっち!」
笑い声が混ざった、当然みたいな呼び方。
朔の目がそっちへ向く。
迷いがない。
私は、その迷いのなさに息を止めた。
朔は私を見て、一言だけ置いた。
「あとで、ちゃんと」
ちゃんと。
その言葉が、救いみたいに聞こえるのに、形がない。
朔は立った。
「すぐ戻る」
そして、行ってしまう。
指名したのに。
私は客なのに。
私は膝の上で指を絡め直した。
逃げないように。
逃げたいのに。
ジンジャーエールが運ばれてきた。
泡が立つ。
私は「ありがとうございます」と言った。
いつもの癖。
癖が私を守ってくれる気がする。
でも今日は、守りが薄い。
通路の向こうが、よく見える。
朔が別の席で、何かを言っている。
相手の女の人が笑う。
笑い声が私の耳に刺さる。
私は目を逸らした。
逸らしたのに、耳が勝手に拾う。
その瞬間、店内の空気が一段上がった。
ぽん、と軽い音。
次に、歓声。
シャンパンが開いた音だと分かったのは、周りの手拍子のせいだった。
氷の音が増える。
グラスが触れる。
拍手が波みたいに広がる。
明るいヘルプが、ジンジャーを飲む私の横で小さく笑った。
「あー……開いたね」
チャラい方が肩をすくめる。
「今日やば。景気いいわ」
明るい方が、通路の向こうを顎で示した。
「あれ、三本目だよ」
私は、意味が分からなかった。
三本目。
たくさん飲んでるってこと?
酔ってるの?
だから来ない?
それなら、さっきの一瞬は何だったの。
私の頭の中で疑問が渦を巻く。
でも、口から出るのはいつもの言葉だけだった。
「……そうなんですね」
明るいヘルプが、私の顔を見て、少しだけ声の温度を落とした。
「ゆいちゃん、ホスト初めてだっけ。えーとね、今日は……席が強い日」
席が強い。
また分からない言葉。
分からないのに、胸が冷える。
チャラい方が、タイミングよくメニューをこちらに寄せた。
「こういう日はさ、これ。これのボトル入れたら、朔さんこっち来れると思うよ」
開かれたページの数字が、目に刺さった。
桁が違う。
私の所持金じゃ、無理。
息が止まった。
明るい方も、笑顔のまま頷く。
「うん。たぶん、動ける。今日みたいに開いてると、正直……呼ばれてる席から離れづらいから」
離れづらい。
つまり、離れない。
つまり、私の席は弱い。
私は、喉がからからになった。
頭の中で必死に計算する。
無理だ。
払えない。
払えないのに、今さら恥ずかしくて立ち上がれない。
私は小さく首を振った。
「……こんな高いお酒……私では、とても」
言った瞬間、胸の奥がズンと沈んだ。
私は自分で、自分の価値に値札を貼ったみたいだった。
チャラい方が、残念そうな顔を作って口を尖らせる。
「そっかー。まぁ、しょうがないね」
明るい方は、笑顔を保つ。
保っているのに、言葉が少しだけ薄くなる。
「無理はさせないよ。全然。……でも今日は、たぶん厳しいかも」
厳しい。
私はジンジャーエールを握った。
冷たい。
指先が冷たい。
さっき朔が来た時だけ、息が戻ったのに。
その戻った息が、今は余計に苦しい。
チャラい方が、無理にテンションを上げる。
「じゃあさ、俺らと楽しも!ほらほら、笑って。今日来たんだから、損したくないじゃん?」
損。
またその言葉。
私は笑おうとして、笑えなかった。
笑えない自分が面倒な客に見えそうで、急に怖くなる。
「……すみません。私、ちょっと……」
言い訳が出そうになる。
長く説明して、納得してもらって、場を丸くしたい。
でも、ここは私の職場じゃない。
丸くしても、私が救われない。
私は黙って頷いた。
時間が過ぎる。
笑い声が増えて、拍手が何度か起きて。
朔の席の方は、何度もグラスが上がる。
私は、ちらっと見るたびに心臓が跳ねて、すぐ目を逸らす。
見ない。
見ないのに、耳が拾う。
ぽん、という音がもう一度して、周りがまた沸いた。
明るいヘルプが小さく言う。
「……ほら。今日、強い日だ」
私は水を飲んだ。
喉が痛い。
私はここに何しに来たんだろう。
整えるため。
崩れないため。
なのに、今が一番崩れそうだ。
途中で、朔がもう一度だけこちらへ来た。
私の席の近くに立って、ほんの一瞬、目を合わせた。
それだけで、胸がほどけそうになる。
でも、ほどけない。
朔は短く言った。
「ごめん。……後で」
後で、が増えるたびに、形がなくなる。
朔はまた呼ばれて、迷わず戻っていく。
私は、取り残される。
指名したのに。
客なのに。
だからこそ、縛れない。
その現実が、じわじわと私の中に沈んだ。
終電の時間が近づいて、私は立ち上がった。
会計の場所へ向かう足が、重い。
ここで帰ったら、また渇くだけ。
でも、ここにいても、渇くだけ。
私の渇きは、どこに置けばいいんだろう。
扉の近くで待っていると、朔が見送りに来た。
さっきまでの喧騒から少し離れたところで、朔の声は低く落ち着いていた。
「待たせてごめん」
謝りすぎない。
でも、謝る。
そのバランスが、ずるいくらいちょうどいい。
私は反射で頭を下げた。
「いえ……私こそ、すみません」
違う。
謝るのは違うのに。
朔は私の言葉を止めるみたいに、短く続けた。
「理由、あとで説明するから……」
朔はポケットから名刺を出した。
ペンで何かを書いて、裏返して、私の前に差し出す。
指で挟むだけ。
触れない。
触れないのに、そこに視線だけが残る。
私は受け取った。
名刺の裏に、LINEのIDが書かれていた。
それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
熱くなって、怖くなった。
これが欲しかったんだ、と認めたくなくて。
朔は淡い声で言う。
「今は……ここで話せない」
私は頷いた。
頷くしかない。
朔はそれ以上何も言わない。
言わないまま、私を帰す。
「気をつけて」
最後の一言。
短くて、淡いのに、体の芯に残る。
私は「ありがとうございました」と言った。
言いながら、名刺を強く握りしめていた。
扉を出ると、外の空気が冷たくて、肺が痛い。
ネオンの光が現実に貼りつく。
私は歩き出した。
スマホを取り出す。
画面を点ける。
名刺の裏の文字を、もう一度確かめる。
送っていいのか分からない。
送ったら、私はどこへ行くのか分からない。
でも、送らなかったら、またあの渇きが育つ。
私は駅へ向かう足を止めずに、名刺を握り直した。
紙は薄いのに、重かった。
たった一枚で、私の中の整え方が、変わってしまいそうで。
寒い。
それなのに、頭だけ熱い。
昼間に先輩に言われた声が、まだ残っている。
危ないよ。集中できてない。
私は笑って、うなずいて、すみませんを置いた。
置いたはずなのに、胸の内側が整わない。
駅まで歩く間、スマホを握っていた。
画面を点けて、消して。
点けて、消して。
通知がないことが当たり前なのに、当たり前が冷たい。
改札を抜けたところで、私は足を止めた。
家へ向かう矢印が、体の中で消えている。
帰ったら、またごはんが入らない。
また眠れない。
明日も、同じようなミスをする。
そう思った瞬間、喉の奥がひりついた。
整えないと、崩れる。
その整え方を、私はもう知ってしまっている。
知ってしまっていることが、いちばんまずいのに。
気づけば、繁華街の光の方へ歩いていた。
自分の足が勝手に覚えている道。
ネオンが増える。
人の声が増える。
匂いが混ざる。
甘い香水と、揚げ物と、煙草と、アルコール。
その奥に、あの乾いた石けんみたいな匂いを探している自分がいた。
嫌だ。
でも、止まれない。
看板が見えた。
私は一瞬で息が浅くなった。
帰ろう、って思う。
帰れない、って体が言う。
ドアノブに触れる指が、冷たくて震えた。
私は、自分に小さく言い訳をする。
座って、落ち着いて、帰るだけ。
それだけ。
扉を押すと、甘い匂いと音が一気に押し寄せた。
ライトが目に刺さる。
笑い声が波みたいに重なる。
受付の人が笑って、名前を聞いてきた。
喉が乾いた。
この瞬間が、いちばん恥ずかしい。
私は息を吸って、小さく言う。
「……朔さん、指名で」
言えた。
言えたのに、胸の奥がきゅっと縮む。
受付は慣れた顔で頷いて、席へ案内した。
通路を抜けて、奥の方。
音が少し柔らかい場所。
私は椅子に座って、膝の上で指を絡めた。
すぐ来る。
そう思っていた。
でも、来ない。
水のグラスだけが置かれた。
コースターが音を吸い込む。
静か。
静かなのに、心臓だけが忙しい。
少しして、男の人が二人、こちらへ来た。
片方は明るい。笑顔が軽いのに、どこか真面目な顔つき。
もう片方は、いかにもチャラい。髪も服も、鏡みたいに光っている。
明るい方が、先に口を開いた。
「こんばんはー。今日は俺らヘルプね。……朔さん指名?おっけー」
言い方が軽いのに、段取りはきちんとしている。
チャラい方が、椅子に腰を落としながら笑った。
「ゆいちゃん、だっけ?いいね、名前かわいー。今日テンション上げてこ」
私は反射で背筋を正した。
「……すみません。あの、朔さん……」
自分で言っておいて、言葉が続かない。
忙しいですか、と聞くのが正しい。
でも、聞いたところで、私は何なんだろう。
客だ。
指名した客。
そのはずなのに、手が冷たい。
明るい方が、にこっと笑って、曖昧に頷いた。
「今日はね、ちょい混んでる。たぶん、すぐ来れると思うよ。だからさ、とりあえず楽しくしよ?」
チャラい方も合わせるみたいに身を乗り出す。
「そうそう。待ってる時間って損じゃん?俺らとしゃべってたら秒で時間経つって」
損。
その言葉が、なぜか刺さった。
私は損得でここに来たわけじゃない。
でも、私の時間が軽く扱われた気がして、喉が詰まる。
私は水を一口飲んだ。
冷たい。
落ち着かない。
「……指名って、初めてで。こういう時って、待ってたら……」
言いかけた私の声は、思ったより小さかった。
明るい方が、すぐ答えない。
笑顔は崩さないまま、視線だけを通路の向こうへ滑らせた。
「うん。待ってて。来れる時に来るから。大丈夫」
大丈夫。
その言葉が、私の中で勝手に形を作る。
大丈夫じゃないのに。
私は頷いてしまう。
頷いた自分が、また恥ずかしい。
チャラい方が、メニューをパタンと開いた。
「とりあえず飲も。何がいい?甘いの?軽いやつ?」
私は首を振る。
「私、飲めなくて……」
「えー。じゃ、ちょい薄めで。今日寒いし、あったまるよ?」
薄め、という言葉が優しさに見える。
優しさに見えるから、断りづらい。
私は唇を噛んだ。
「……ジンジャーエールで」
明るい方が、すぐに手を上げた。
「了解。ジンジャーね」
段取りが早い。
それだけで、場が整う。
整うのに、私だけ整わない。
その時、通路の向こうに、朔が見えた。
一瞬だけ。
影が近づくみたいに空気が落ち着く。
派手じゃないのに、目が吸い寄せられる。
私が見ているのに気づいたのか、朔の視線がこちらへ来た。
目が合った気がして、胸が熱くなる。
朔がこちらへ歩いてくる。
心臓が跳ねた。
助かった、って思ってしまう。
椅子の背に手を置いて、朔が少し身をかがめた。
「……来てたんだ」
低い声。
それだけで、呼吸が戻る。
私は言葉を探す。
すみません、じゃない。
何か、ちゃんとしたことを。
でも、喉が乾いて声にならない。
朔は私を責めない。
責めないまま、短く言った。
「ごめん。今日……」
その続きが出る前に、別の席から声が飛んだ。
「朔さーん!こっち!」
笑い声が混ざった、当然みたいな呼び方。
朔の目がそっちへ向く。
迷いがない。
私は、その迷いのなさに息を止めた。
朔は私を見て、一言だけ置いた。
「あとで、ちゃんと」
ちゃんと。
その言葉が、救いみたいに聞こえるのに、形がない。
朔は立った。
「すぐ戻る」
そして、行ってしまう。
指名したのに。
私は客なのに。
私は膝の上で指を絡め直した。
逃げないように。
逃げたいのに。
ジンジャーエールが運ばれてきた。
泡が立つ。
私は「ありがとうございます」と言った。
いつもの癖。
癖が私を守ってくれる気がする。
でも今日は、守りが薄い。
通路の向こうが、よく見える。
朔が別の席で、何かを言っている。
相手の女の人が笑う。
笑い声が私の耳に刺さる。
私は目を逸らした。
逸らしたのに、耳が勝手に拾う。
その瞬間、店内の空気が一段上がった。
ぽん、と軽い音。
次に、歓声。
シャンパンが開いた音だと分かったのは、周りの手拍子のせいだった。
氷の音が増える。
グラスが触れる。
拍手が波みたいに広がる。
明るいヘルプが、ジンジャーを飲む私の横で小さく笑った。
「あー……開いたね」
チャラい方が肩をすくめる。
「今日やば。景気いいわ」
明るい方が、通路の向こうを顎で示した。
「あれ、三本目だよ」
私は、意味が分からなかった。
三本目。
たくさん飲んでるってこと?
酔ってるの?
だから来ない?
それなら、さっきの一瞬は何だったの。
私の頭の中で疑問が渦を巻く。
でも、口から出るのはいつもの言葉だけだった。
「……そうなんですね」
明るいヘルプが、私の顔を見て、少しだけ声の温度を落とした。
「ゆいちゃん、ホスト初めてだっけ。えーとね、今日は……席が強い日」
席が強い。
また分からない言葉。
分からないのに、胸が冷える。
チャラい方が、タイミングよくメニューをこちらに寄せた。
「こういう日はさ、これ。これのボトル入れたら、朔さんこっち来れると思うよ」
開かれたページの数字が、目に刺さった。
桁が違う。
私の所持金じゃ、無理。
息が止まった。
明るい方も、笑顔のまま頷く。
「うん。たぶん、動ける。今日みたいに開いてると、正直……呼ばれてる席から離れづらいから」
離れづらい。
つまり、離れない。
つまり、私の席は弱い。
私は、喉がからからになった。
頭の中で必死に計算する。
無理だ。
払えない。
払えないのに、今さら恥ずかしくて立ち上がれない。
私は小さく首を振った。
「……こんな高いお酒……私では、とても」
言った瞬間、胸の奥がズンと沈んだ。
私は自分で、自分の価値に値札を貼ったみたいだった。
チャラい方が、残念そうな顔を作って口を尖らせる。
「そっかー。まぁ、しょうがないね」
明るい方は、笑顔を保つ。
保っているのに、言葉が少しだけ薄くなる。
「無理はさせないよ。全然。……でも今日は、たぶん厳しいかも」
厳しい。
私はジンジャーエールを握った。
冷たい。
指先が冷たい。
さっき朔が来た時だけ、息が戻ったのに。
その戻った息が、今は余計に苦しい。
チャラい方が、無理にテンションを上げる。
「じゃあさ、俺らと楽しも!ほらほら、笑って。今日来たんだから、損したくないじゃん?」
損。
またその言葉。
私は笑おうとして、笑えなかった。
笑えない自分が面倒な客に見えそうで、急に怖くなる。
「……すみません。私、ちょっと……」
言い訳が出そうになる。
長く説明して、納得してもらって、場を丸くしたい。
でも、ここは私の職場じゃない。
丸くしても、私が救われない。
私は黙って頷いた。
時間が過ぎる。
笑い声が増えて、拍手が何度か起きて。
朔の席の方は、何度もグラスが上がる。
私は、ちらっと見るたびに心臓が跳ねて、すぐ目を逸らす。
見ない。
見ないのに、耳が拾う。
ぽん、という音がもう一度して、周りがまた沸いた。
明るいヘルプが小さく言う。
「……ほら。今日、強い日だ」
私は水を飲んだ。
喉が痛い。
私はここに何しに来たんだろう。
整えるため。
崩れないため。
なのに、今が一番崩れそうだ。
途中で、朔がもう一度だけこちらへ来た。
私の席の近くに立って、ほんの一瞬、目を合わせた。
それだけで、胸がほどけそうになる。
でも、ほどけない。
朔は短く言った。
「ごめん。……後で」
後で、が増えるたびに、形がなくなる。
朔はまた呼ばれて、迷わず戻っていく。
私は、取り残される。
指名したのに。
客なのに。
だからこそ、縛れない。
その現実が、じわじわと私の中に沈んだ。
終電の時間が近づいて、私は立ち上がった。
会計の場所へ向かう足が、重い。
ここで帰ったら、また渇くだけ。
でも、ここにいても、渇くだけ。
私の渇きは、どこに置けばいいんだろう。
扉の近くで待っていると、朔が見送りに来た。
さっきまでの喧騒から少し離れたところで、朔の声は低く落ち着いていた。
「待たせてごめん」
謝りすぎない。
でも、謝る。
そのバランスが、ずるいくらいちょうどいい。
私は反射で頭を下げた。
「いえ……私こそ、すみません」
違う。
謝るのは違うのに。
朔は私の言葉を止めるみたいに、短く続けた。
「理由、あとで説明するから……」
朔はポケットから名刺を出した。
ペンで何かを書いて、裏返して、私の前に差し出す。
指で挟むだけ。
触れない。
触れないのに、そこに視線だけが残る。
私は受け取った。
名刺の裏に、LINEのIDが書かれていた。
それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
熱くなって、怖くなった。
これが欲しかったんだ、と認めたくなくて。
朔は淡い声で言う。
「今は……ここで話せない」
私は頷いた。
頷くしかない。
朔はそれ以上何も言わない。
言わないまま、私を帰す。
「気をつけて」
最後の一言。
短くて、淡いのに、体の芯に残る。
私は「ありがとうございました」と言った。
言いながら、名刺を強く握りしめていた。
扉を出ると、外の空気が冷たくて、肺が痛い。
ネオンの光が現実に貼りつく。
私は歩き出した。
スマホを取り出す。
画面を点ける。
名刺の裏の文字を、もう一度確かめる。
送っていいのか分からない。
送ったら、私はどこへ行くのか分からない。
でも、送らなかったら、またあの渇きが育つ。
私は駅へ向かう足を止めずに、名刺を握り直した。
紙は薄いのに、重かった。
たった一枚で、私の中の整え方が、変わってしまいそうで。
