いつもより早く目が覚めた。
眠ったはずなのに、疲れが取れていない。
キッチンで白湯を作って、口に含む。
胃が重い。
食べようと思って、パンを半分だけかじった。
それ以上は無理だった。
化粧はいつも通りにする。
きちんとしていれば、戻れる気がして。
手首にハンドクリームを塗り直した。
いつもより多めに。
でも、昨日の匂いとは違う。
違うのに、なぜか落ち着かない。
支店に着けば、仕事が私を整える。
伝票を揃えて、チェックして、ファイルに入れる。
その繰り返しの中にいれば、大丈夫。
そう思っていたのに、午前中、ほんの小さなズレが続いた。
控えを別の束に挟みかけて、自分で気づいて戻す。
付せんの色を間違えて貼り直す。
電話で「少々お待たせしました」を言うタイミングが遅れて、自分の声が変に聞こえる。
隣の席の先輩が、顔を上げた。
「結衣ちゃん、今日どうした?いつもより手が止まってる」
私は反射で背筋を正した。
「すみません。大丈夫です。ちょっと、寝不足で」
大丈夫、を置けば、形に戻る。
そう信じているみたいに。
昼休み、買ってきたおにぎりを開けたのに、二口で止まった。
飲み物だけ流し込む。
喉が乾く。
乾いてるのに、飲み込むのが怖い。
帰宅すると、コートが視界に入った。
洗濯かごに入れるべきなのに、入れられない。
椅子に掛けて、そっと距離を取った。
そのくせ、気づけば袖口に指が触れている。
吸ってしまいそうになるのを、必死に止めた。
スマホが震えた。
母からの短いメッセージ。
ちゃんと帰った?
私はすぐ返す。
うん。帰ったよ。
送信してから、自分の息が浅いことに気づいた。
たった一文で、肩が上がる。
ごはん、食べてる?
うん。食べてる。
嘘じゃない。
少しは食べたから。
そうやって、関係を丸くする言葉だけが上手い。
丸くした分だけ、自分の中がざらつく。
二日目。
眠りはさらに浅くなった。
朝、目の下の影が濃い。
鏡の中の自分が、知らない人みたいに見える。
駅のホームで、スマホを点けて、消す。
癖みたいに。
何も来ていない。
何も来るはずがない。
それでも、胸の奥だけが、勝手に待っている。
仕事中、数字が揺れた。
揺れたのは数字じゃなくて、私の集中。
入出金のチェックをしている最中、桁を一つ飛ばしそうになって、慌てて止めた。
心臓が早くなる。
手が冷たい。
私はもう一度、声に出さずに読み直した。
大丈夫。
大丈夫。
言葉で押さえつけるほど、喉が乾く。
午後、電話応対で言い間違えてしまい、言い直した。
「…失礼しました。こちら、〇〇支店の赤嶺(結衣の苗字)でございます」
言い直しの丁寧さが、自分でも不自然に聞こえる。
先輩が小声で言った。
「結衣ちゃん。深呼吸して。顔色も、ちょっと悪い」
私は笑おうとして、笑えなかった。
「すみません。ほんと、大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも、大丈夫って言わないと崩れる。
帰り道、繁華街の方に足が向きそうになって、慌てて方向を変えた。
行ったらだめ。
でも、行けば息が整う。
その事実が怖い。
家に戻って、温かいものを作ろうと鍋を出した。
水を入れて、火をつけたところで、止まった。
立っているのがしんどい。
結局、コンビニのスープだけを買ってきて、半分残した。
コートの袖口の匂いは、少し薄くなっていた。
薄くなったことに、焦る。
焦っている自分が、もっと嫌だ。
私は手首にクリームを塗り直した。
匂いを上書きするためじゃない。
落ち着くため。
その落ち着きが、どこにも届かない。
三日目。
朝から、世界が薄かった。
音も、色も、全部が平たい。
無理やり口に入れたのは、甘い飲み物だけ。
胃が重いのに、空っぽみたいに揺れる。
支店に着いて、制服の名札を直す。
ちゃんとしている。
ちゃんとしていれば、怒られない。
でも、ちゃんとしてても、満たされない。
午前の忙しい時間帯。
後方事務の机で、伝票をまとめていた。
指先がいつもより遅い。
確認が増える。
確認が増えるほど、怖くなる。
そして、ついに。
控えを入れる場所を一つ、間違えた。
自分では気づかなかった。
先輩が束を開いて止めた。
「結衣さん。ここ、違う」
声は強くない。
強くないのに、胸の奥が一気に冷えた。
「すみません…!すぐ直します」
手が震えそうで、震えを押さえた。
先輩は束を持ったまま、少しだけ眉を寄せる。
「直せばいいけど、今日ずっと危ない。集中できてないよね」
私は首を振った。
大丈夫、と言いかけて、言えなかった。
言ったら、嘘になる。
嘘が増えると、自分が自分じゃなくなる。
先輩は息を吐いて、声を落とした。
「締めのチェックは、今日は私が見る。結衣さんは片づけと電話だけでいい」
助け舟。
優しい措置。
なのに私は、恥ずかしさで喉が詰まった。
「…すみません。ありがとうございます」
言いながら、胸の奥で別の言葉が鳴っていた。
整えないと、崩れる。
仕事終わり、支店の外に出た瞬間、足元がふわっとした。
疲れのせい。
睡眠不足のせい。
食べてないせい。
全部、理由になる。
だから、私は自分を責める方向へ逃げられる。
それでも。
帰り道の途中で、スマホを取り出した。
何もない画面が、やけに冷たい。
連絡先を知らない。
当然だ。
昨日も、今日も、何も聞けなかった。
聞く資格がない気がした。
私は客だから。
朔は仕事だから。
ここは店だから。
分かっているのに。
分かっているからこそ、苦しい。
親指が、検索欄の空白をなぞった。
何も入力しないまま、画面を消す。
消して、また点ける。
その繰り返しが、呼吸みたいになっていた。
私は駅の階段を下りる足を止めた。
まっすぐ帰る方向に、体が向かない。
帰ったら、またミストを押せない。
また食べられない。
また眠れない。
そして明日、また同じようにミスをする。
その予感が、胸の奥で固まっていく。
私は小さく、自分にだけ言った。
座って、落ち着いて、帰るだけ。
一回だけ。
整えるだけ。
言い訳を作った瞬間、足が動き出した。
人波の方へ。
光の方へ。
自分が一番行ってはいけない、と分かっている方へ。
眠ったはずなのに、疲れが取れていない。
キッチンで白湯を作って、口に含む。
胃が重い。
食べようと思って、パンを半分だけかじった。
それ以上は無理だった。
化粧はいつも通りにする。
きちんとしていれば、戻れる気がして。
手首にハンドクリームを塗り直した。
いつもより多めに。
でも、昨日の匂いとは違う。
違うのに、なぜか落ち着かない。
支店に着けば、仕事が私を整える。
伝票を揃えて、チェックして、ファイルに入れる。
その繰り返しの中にいれば、大丈夫。
そう思っていたのに、午前中、ほんの小さなズレが続いた。
控えを別の束に挟みかけて、自分で気づいて戻す。
付せんの色を間違えて貼り直す。
電話で「少々お待たせしました」を言うタイミングが遅れて、自分の声が変に聞こえる。
隣の席の先輩が、顔を上げた。
「結衣ちゃん、今日どうした?いつもより手が止まってる」
私は反射で背筋を正した。
「すみません。大丈夫です。ちょっと、寝不足で」
大丈夫、を置けば、形に戻る。
そう信じているみたいに。
昼休み、買ってきたおにぎりを開けたのに、二口で止まった。
飲み物だけ流し込む。
喉が乾く。
乾いてるのに、飲み込むのが怖い。
帰宅すると、コートが視界に入った。
洗濯かごに入れるべきなのに、入れられない。
椅子に掛けて、そっと距離を取った。
そのくせ、気づけば袖口に指が触れている。
吸ってしまいそうになるのを、必死に止めた。
スマホが震えた。
母からの短いメッセージ。
ちゃんと帰った?
私はすぐ返す。
うん。帰ったよ。
送信してから、自分の息が浅いことに気づいた。
たった一文で、肩が上がる。
ごはん、食べてる?
うん。食べてる。
嘘じゃない。
少しは食べたから。
そうやって、関係を丸くする言葉だけが上手い。
丸くした分だけ、自分の中がざらつく。
二日目。
眠りはさらに浅くなった。
朝、目の下の影が濃い。
鏡の中の自分が、知らない人みたいに見える。
駅のホームで、スマホを点けて、消す。
癖みたいに。
何も来ていない。
何も来るはずがない。
それでも、胸の奥だけが、勝手に待っている。
仕事中、数字が揺れた。
揺れたのは数字じゃなくて、私の集中。
入出金のチェックをしている最中、桁を一つ飛ばしそうになって、慌てて止めた。
心臓が早くなる。
手が冷たい。
私はもう一度、声に出さずに読み直した。
大丈夫。
大丈夫。
言葉で押さえつけるほど、喉が乾く。
午後、電話応対で言い間違えてしまい、言い直した。
「…失礼しました。こちら、〇〇支店の赤嶺(結衣の苗字)でございます」
言い直しの丁寧さが、自分でも不自然に聞こえる。
先輩が小声で言った。
「結衣ちゃん。深呼吸して。顔色も、ちょっと悪い」
私は笑おうとして、笑えなかった。
「すみません。ほんと、大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも、大丈夫って言わないと崩れる。
帰り道、繁華街の方に足が向きそうになって、慌てて方向を変えた。
行ったらだめ。
でも、行けば息が整う。
その事実が怖い。
家に戻って、温かいものを作ろうと鍋を出した。
水を入れて、火をつけたところで、止まった。
立っているのがしんどい。
結局、コンビニのスープだけを買ってきて、半分残した。
コートの袖口の匂いは、少し薄くなっていた。
薄くなったことに、焦る。
焦っている自分が、もっと嫌だ。
私は手首にクリームを塗り直した。
匂いを上書きするためじゃない。
落ち着くため。
その落ち着きが、どこにも届かない。
三日目。
朝から、世界が薄かった。
音も、色も、全部が平たい。
無理やり口に入れたのは、甘い飲み物だけ。
胃が重いのに、空っぽみたいに揺れる。
支店に着いて、制服の名札を直す。
ちゃんとしている。
ちゃんとしていれば、怒られない。
でも、ちゃんとしてても、満たされない。
午前の忙しい時間帯。
後方事務の机で、伝票をまとめていた。
指先がいつもより遅い。
確認が増える。
確認が増えるほど、怖くなる。
そして、ついに。
控えを入れる場所を一つ、間違えた。
自分では気づかなかった。
先輩が束を開いて止めた。
「結衣さん。ここ、違う」
声は強くない。
強くないのに、胸の奥が一気に冷えた。
「すみません…!すぐ直します」
手が震えそうで、震えを押さえた。
先輩は束を持ったまま、少しだけ眉を寄せる。
「直せばいいけど、今日ずっと危ない。集中できてないよね」
私は首を振った。
大丈夫、と言いかけて、言えなかった。
言ったら、嘘になる。
嘘が増えると、自分が自分じゃなくなる。
先輩は息を吐いて、声を落とした。
「締めのチェックは、今日は私が見る。結衣さんは片づけと電話だけでいい」
助け舟。
優しい措置。
なのに私は、恥ずかしさで喉が詰まった。
「…すみません。ありがとうございます」
言いながら、胸の奥で別の言葉が鳴っていた。
整えないと、崩れる。
仕事終わり、支店の外に出た瞬間、足元がふわっとした。
疲れのせい。
睡眠不足のせい。
食べてないせい。
全部、理由になる。
だから、私は自分を責める方向へ逃げられる。
それでも。
帰り道の途中で、スマホを取り出した。
何もない画面が、やけに冷たい。
連絡先を知らない。
当然だ。
昨日も、今日も、何も聞けなかった。
聞く資格がない気がした。
私は客だから。
朔は仕事だから。
ここは店だから。
分かっているのに。
分かっているからこそ、苦しい。
親指が、検索欄の空白をなぞった。
何も入力しないまま、画面を消す。
消して、また点ける。
その繰り返しが、呼吸みたいになっていた。
私は駅の階段を下りる足を止めた。
まっすぐ帰る方向に、体が向かない。
帰ったら、またミストを押せない。
また食べられない。
また眠れない。
そして明日、また同じようにミスをする。
その予感が、胸の奥で固まっていく。
私は小さく、自分にだけ言った。
座って、落ち着いて、帰るだけ。
一回だけ。
整えるだけ。
言い訳を作った瞬間、足が動き出した。
人波の方へ。
光の方へ。
自分が一番行ってはいけない、と分かっている方へ。
