受付の前で、私は息を吸って、吐いた。
甘い匂いが、喉の奥にまとわりつく。
ライトが眩しい。音が多い。笑い声が、近くと遠くで重なっている。
ここに来た理由を、言葉にしようとすると、舌が動かない。
私はただ、頷いた。
案内の人が笑って、席へ通す。
細い通路。肩が触れそうで、自然に体を小さくする。
奥へ行くほど、音が柔らかくなる。
ミラーの縁、氷の鳴るグラス、香水の甘さ。誰かの髪が揺れて、光が跳ねる。
私は椅子に座った。
背もたれに頼ると、もっと崩れてしまいそうで、背筋だけは真っすぐにする。
膝の上で、指を絡めた。
逃げないように。
逃げたいのに。
すぐ近くで、スタッフが水のグラスを置いた。
コースターが吸い込むみたいに音を消す。
静か。
静かなのに、胸の内側はざらざらしている。
ふっと視線を上げた瞬間、通路の向こうに、朔がいた。
派手じゃないのに、目が止まる。
整っている。清潔で、余計な飾りがない。なのに、そこだけ空気が落ち着く。
目が合った気がして、私は反射で視線を逸らした。
逃げるみたいに、手元の水を見る。
来ちゃった。
自分に言い訳をする前に、足がここにあった。
そのまま、朔が近づいてきた。
歩く音がしない。音が多い店内で、そこだけ音が抜ける感じがする。
椅子の背に手を置いて、ほんの少しだけ身をかがめた。
「いらっしゃい」
低い声。落ち着いた温度。
それだけで、息が吸えた。
私は頷いて、口を開きかける。
こんばんは、とか。
昨日は、とか。
何か、ちゃんとした言葉を探したのに、喉が乾いたまま声にならない。
朔は私を見下ろさない。
でも、抱きしめるみたいな優しさでもない。
ただ、そこにいるだけ。
目が少し細くなる。
「……来たんだ」
それだけ。
責められてないのに、胸の奥がきゅっとなる。
私は何か言わなきゃと思って、唇を動かした。
「……すみません。えっと……」
理由を言おうとして、急に恥ずかしくなる。
理由なんて、ない。
あるのに、言葉にできない。
朔は一拍、間を置いてから言った。
「座って。無理して飲まなくていい」
その言い方が、昨日と同じ温度で、変に安心してしまう。
安心した自分が怖い。
私は小さく頷いた。
「……ジンジャーエール、で」
飲まない宣言みたいに聞こえたかもしれない。
でも、私は飲めない。
飲めないから、ここに来たわけじゃない。
それも言葉にできなくて、指先が冷たくなる。
朔は「了解」とだけ言って、軽く手を上げた。
注文が伝わる。
その一連が、仕事みたいに整っている。
整っているのに、私は整わない。
朔が席につく気配がした、その瞬間。
別の方向から、声が飛んだ。
「朔くーん、ちょっと!」
明るい声。笑いを含んだ、当然みたいな呼び方。
朔の視線がそっちへ滑る。
私は反射で背中が硬くなった。
朔は私に申し訳なさを見せないまま、立ち上がった。
「ごめん、ちょっとだけ」
軽い。優しい。だからこそ、置いていかれる。
言葉の意味より、動きの方が刺さった。
私は、ただ頷くしかない。
頷けた自分が、余計に苦しい。
朔は通路の向こうへ行った。
見える距離。
見えているのに、遠い。
別の席で、朔の声が少しだけ変わる。
同じ低さなのに、笑いが混ざる。
隣の女の人が、髪を指で巻きながら笑っている。
氷の音が鳴る。グラスが触れる。
たったそれだけなのに、胸の中が空っぽになる。
私は椅子の端に座り直した。
私は客だ。
ここは店だ。
当たり前のことが、急に重くなる。
昨日は、美咲がいた。
今日は、いない。
今日、私は一人だ。
その事実が、喉の奥にひっかかる。
頑張って息を整えようとして、笑いそうになる。
ここで息を整えたいのに、今は逆に息が浅い。
ジンジャーエールが来た。
グラスに泡が立つ。
私は「ありがとうございます」と言った。
いつもの癖が出る。
それが、自分を守ってるみたいで、少しだけ安心してしまう。
少しだけ。
朔はまだ戻ってこない。
私はジンジャーエールを一口飲んだ。
甘さと辛さが喉を通って、温度が落ち着く。
落ち着くのに、寂しさが増える。
置いていかれてる。
でも、責める権利はない。
私は客だから。
その考えに、胸がさらに苦しくなる。
ふと、朔が戻ってくる気配がした。
足音がないのに分かる。
椅子の背を軽く叩くみたいにして、朔が座った。
「待たせた」
それだけ。
説明はない。
謝りすぎない。
私は、何か言うべきか迷って、結局、首を振った。
「……大丈夫です」
言ってしまった。
本当は大丈夫じゃないのに。
朔は私の言葉を否定しない。
否定しないのが、いちばん怖い時がある。
朔はグラスを一度見て、目を戻した。
「落ち着いた?」
問いかけなのに、答えを要求しない声。
私は、頷いた。
頷くと、落ち着いていることになってしまう。
なのに、頷いてしまう。
朔は短く息を吐いた。
「顔、かたい」
それを言われた途端、私は自分の頬が強張っていたことに気づいた。
恥ずかしい。
私は謝りそうになって、唇を噛んだ。
朔は続ける。
「……一口だけ、飲める?」
私は一瞬、意味が分からなかった。
飲む。
お酒。
ここはそういう場所だ。
分かってるのに、昨日はジンジャーエールで終わった。
今日も、そのつもりだった。
断りたい。
でも断ったら、また置いていかれる気がした。
勝手な想像なのに、体が信じてしまう。
「私、弱くて……」
言いかけた瞬間。
朔の目が、ほんの少しだけ細くなった。
優しいままなのに、距離が遠くなる予感がする。
「うん、いいよ。無理しないで」
その言い方が、きれいすぎて、余計に刺さった。
朔は立った。
「ちょっと待ってて」
それだけ言って、通路の向こうへ行く。
また。
また置いていかれる。
私はグラスを握った。
指先が冷たい。
私は、何をしてるんだろう。
断りたいのに。
断った瞬間、胸がこんなに痛くなるのは、なんで。
朔は別の席で、落ち着いた笑いを落とす。
その笑いが、私には向いていない。
向いていないのが当たり前なのに、苦しい。
私はジンジャーエールを飲んだ。
甘さが喉を通る。
それでも、胸の空っぽは埋まらない。
この空っぽを、どうしたらいい。
私は自分の中で、言い訳を組み立て始めた。
一口だけなら。
全部飲まなくていいなら。
失礼じゃない程度に。
場に合わせるだけ。
そうすれば、置いていかれないかもしれない。
それは、私が勝手に決めたルール。
でも、私の体はそのルールにすがりたがっていた。
しばらくして、朔が戻ってきた。
何事もなかったみたいな顔。
何事もなかった、はずだ。
「ごめん」
今度はそれだけ、落とすように言った。
私は、胸の奥がじわっと熱くなるのを感じた。
たぶん、それがご褒美だって分かってしまう自分が嫌だ。
朔が手を上げると、スタッフが近づいた。
朔は私を見て、短く言う。
「薄くして。甘いやつ」
私のための言葉みたいに聞こえる。
でも、これは店の手順の言葉だ。
私はその境界が分からなくなりそうで、膝の上で指を絡め直した。
グラスが来た。
琥珀色というより、薄いオレンジに近い色。
香りは甘い。ジュースみたいに見える。
朔は私の顔を見て、声を落とす。
「全部飲まなくていい。味だけ」
逃げ道。
優しい逃げ道。
逃げ道があるから、私は動けてしまう。
私はグラスを持った。
手が少し震える。
その震えを見せたくなくて、唇を引き結ぶ。
ひと口。
舌先に甘さが広がって、遅れてアルコールの温度が来る。
喉がきゅっとなる。
でも、思っていたより、痛くない。
むしろ、胸の奥に溜まっていた空気が、少しだけゆるむ。
私は咳をこらえた。
情けない音を出したくない。
朔は笑わない。
心配もしすぎない。
ただ、私を見ている。
その視線が一拍長い。
「……えらい」
ひとことだけ。
胸の奥が、変にほどける。
えらい、なんて。
それだけで、私はここにいていいみたいな気がしてしまう。
怖い。
こんなことで、気が楽になる自分が怖い。
朔は続けた。
「それで十分」
言い切る。
私は、もう一口飲もうとして、手が止まった。
飲んだら、もっと楽になるかもしれない。
楽になりたい。
でも、楽になり方が怖い。
朔は私の迷いに触れない。
「飲みきらなくていい。置いといて」
私の手からグラスを取らない。
取らないのが、妙に効く。
選ぶのは私だ、という形だけ残る。
その形に、私は救われそうになって、同時に縛られそうになる。
店内の音が戻ってくる。
別の席で、誰かが笑う。
「朔くん、さっきの話なんだけどさ」
また呼ばれる。
朔の視線がそっちへ向く。
私はそれだけで、胸がざわついた。
行かないで、なんて言えない。
言えるはずがない。
私は客で、朔は仕事で、ここは店だ。
頭では分かっているのに、心が追いつかない。
朔は私を見て、短く言う。
「すぐ戻る」
それだけ。
私は頷いてしまう。
頷ける自分が、苦しい。
朔が立ち上がって、通路の向こうへ行った。
私はグラスを見た。
半分以上、残っている。
それで十分、って言われた。
それなのに、胸の奥が足りない。
足りないのに、飲み足りないわけじゃない。
私は自分の中の言葉にならない渇きに、名前をつけられないまま、座っていた。
朔は別の席で、落ち着いた声を落とす。
相手の女の人が笑う。
その笑い声が、私の耳の奥に残る。
私には向けられていない笑い。
私には向けられていないのに、私の心が勝手に反応する。
嫌だ。
こんなの、嫌だ。
なのに、ここから立ち上がって帰る勇気がない。
朔が戻ってきたのは、数分後だった。
何事もなかった顔で、椅子に座る。
「大丈夫?」
またそれ。
答えなくてもいい問い。
私は小さく頷いた。
朔は私のグラスを見て、それ以上触れない。
触れないで、空気だけ整える。
私は、残りの時間を数えていた。
終電。
帰らなきゃ。
帰れるのに、帰りたくない。
帰りたくないのに、帰らなきゃ。
私は財布を握りしめた。
この関係は、お金を払う関係だ。
その事実だけが、私を現実に戻そうとする。
しばらくして、朔がふっと目を上げた。
「今日は、ここまででいい」
言い方が静かで、逆に拒絶に聞こえそうになる。
でも、拒絶じゃない。
終わらせるための言葉。
私は息を吸った。
「……はい」
立ち上がると、足が少しだけふらついた。
アルコールのせいじゃない。
心の方が、ふらついている。
会計を済ませて、通路を歩く。
朔が少しだけ後ろからついてくる気配がする。
見送り。
見送りのはず。
私は期待してしまう。
昨日の余熱みたいなものを。
触れられないって分かっているのに、体が勝手に待つ。
怖い。
期待する自分が怖い。
店の入口のところで、朔が止まった。
距離は、守られている。
守られているのに、足りない。
朔は私の目を見ない。
でも、逃げない。
「気をつけて」
短い一言。
それだけ。
触れない。
止めない。
説明しない。
私は「ありがとうございました」と言った。
言ってしまう。
それで関係を整えられる気がしてしまう。
扉が閉まる。
外の空気が冷たくて、肺の奥が痛い。
夜の匂いが戻ってくる。
ネオンの光が、現実に貼りつく。
私は歩き出した。
袖口を、無意識に指でつまむ。
匂いは、まだ薄い。
でも、上書きされたはずなのに、胸の奥の渇きは消えていない。
むしろ、形になってきている。
あの一口。
えらい、っていう一言。
すぐ戻る、の約束。
戻ってくるときと、戻ってこないとき。
私は、何を受け取って、何を受け取れなかったんだろう。
自分で決めたはずの行動が、もう私の手から滑りかけている。
帰り道の途中で、スマホを取り出した。
画面は暗い。
当然だ。
連絡先を知らない。
知ってるわけがない。
それなのに、親指が空欄をなぞってしまう。
何か打とうとして、何も打てない。
私は画面を消して、ポケットに戻した。
その動作が、やけに乱暴だった。
家に帰ったら、衣類ミストを使うべきだ。
いつも通りに戻るべきだ。
そう思っているのに。
今夜も、たぶん引けない。
私は、袖口の匂いを守ろうとしている。
守ってしまう自分を、止められないまま。
甘い匂いが、喉の奥にまとわりつく。
ライトが眩しい。音が多い。笑い声が、近くと遠くで重なっている。
ここに来た理由を、言葉にしようとすると、舌が動かない。
私はただ、頷いた。
案内の人が笑って、席へ通す。
細い通路。肩が触れそうで、自然に体を小さくする。
奥へ行くほど、音が柔らかくなる。
ミラーの縁、氷の鳴るグラス、香水の甘さ。誰かの髪が揺れて、光が跳ねる。
私は椅子に座った。
背もたれに頼ると、もっと崩れてしまいそうで、背筋だけは真っすぐにする。
膝の上で、指を絡めた。
逃げないように。
逃げたいのに。
すぐ近くで、スタッフが水のグラスを置いた。
コースターが吸い込むみたいに音を消す。
静か。
静かなのに、胸の内側はざらざらしている。
ふっと視線を上げた瞬間、通路の向こうに、朔がいた。
派手じゃないのに、目が止まる。
整っている。清潔で、余計な飾りがない。なのに、そこだけ空気が落ち着く。
目が合った気がして、私は反射で視線を逸らした。
逃げるみたいに、手元の水を見る。
来ちゃった。
自分に言い訳をする前に、足がここにあった。
そのまま、朔が近づいてきた。
歩く音がしない。音が多い店内で、そこだけ音が抜ける感じがする。
椅子の背に手を置いて、ほんの少しだけ身をかがめた。
「いらっしゃい」
低い声。落ち着いた温度。
それだけで、息が吸えた。
私は頷いて、口を開きかける。
こんばんは、とか。
昨日は、とか。
何か、ちゃんとした言葉を探したのに、喉が乾いたまま声にならない。
朔は私を見下ろさない。
でも、抱きしめるみたいな優しさでもない。
ただ、そこにいるだけ。
目が少し細くなる。
「……来たんだ」
それだけ。
責められてないのに、胸の奥がきゅっとなる。
私は何か言わなきゃと思って、唇を動かした。
「……すみません。えっと……」
理由を言おうとして、急に恥ずかしくなる。
理由なんて、ない。
あるのに、言葉にできない。
朔は一拍、間を置いてから言った。
「座って。無理して飲まなくていい」
その言い方が、昨日と同じ温度で、変に安心してしまう。
安心した自分が怖い。
私は小さく頷いた。
「……ジンジャーエール、で」
飲まない宣言みたいに聞こえたかもしれない。
でも、私は飲めない。
飲めないから、ここに来たわけじゃない。
それも言葉にできなくて、指先が冷たくなる。
朔は「了解」とだけ言って、軽く手を上げた。
注文が伝わる。
その一連が、仕事みたいに整っている。
整っているのに、私は整わない。
朔が席につく気配がした、その瞬間。
別の方向から、声が飛んだ。
「朔くーん、ちょっと!」
明るい声。笑いを含んだ、当然みたいな呼び方。
朔の視線がそっちへ滑る。
私は反射で背中が硬くなった。
朔は私に申し訳なさを見せないまま、立ち上がった。
「ごめん、ちょっとだけ」
軽い。優しい。だからこそ、置いていかれる。
言葉の意味より、動きの方が刺さった。
私は、ただ頷くしかない。
頷けた自分が、余計に苦しい。
朔は通路の向こうへ行った。
見える距離。
見えているのに、遠い。
別の席で、朔の声が少しだけ変わる。
同じ低さなのに、笑いが混ざる。
隣の女の人が、髪を指で巻きながら笑っている。
氷の音が鳴る。グラスが触れる。
たったそれだけなのに、胸の中が空っぽになる。
私は椅子の端に座り直した。
私は客だ。
ここは店だ。
当たり前のことが、急に重くなる。
昨日は、美咲がいた。
今日は、いない。
今日、私は一人だ。
その事実が、喉の奥にひっかかる。
頑張って息を整えようとして、笑いそうになる。
ここで息を整えたいのに、今は逆に息が浅い。
ジンジャーエールが来た。
グラスに泡が立つ。
私は「ありがとうございます」と言った。
いつもの癖が出る。
それが、自分を守ってるみたいで、少しだけ安心してしまう。
少しだけ。
朔はまだ戻ってこない。
私はジンジャーエールを一口飲んだ。
甘さと辛さが喉を通って、温度が落ち着く。
落ち着くのに、寂しさが増える。
置いていかれてる。
でも、責める権利はない。
私は客だから。
その考えに、胸がさらに苦しくなる。
ふと、朔が戻ってくる気配がした。
足音がないのに分かる。
椅子の背を軽く叩くみたいにして、朔が座った。
「待たせた」
それだけ。
説明はない。
謝りすぎない。
私は、何か言うべきか迷って、結局、首を振った。
「……大丈夫です」
言ってしまった。
本当は大丈夫じゃないのに。
朔は私の言葉を否定しない。
否定しないのが、いちばん怖い時がある。
朔はグラスを一度見て、目を戻した。
「落ち着いた?」
問いかけなのに、答えを要求しない声。
私は、頷いた。
頷くと、落ち着いていることになってしまう。
なのに、頷いてしまう。
朔は短く息を吐いた。
「顔、かたい」
それを言われた途端、私は自分の頬が強張っていたことに気づいた。
恥ずかしい。
私は謝りそうになって、唇を噛んだ。
朔は続ける。
「……一口だけ、飲める?」
私は一瞬、意味が分からなかった。
飲む。
お酒。
ここはそういう場所だ。
分かってるのに、昨日はジンジャーエールで終わった。
今日も、そのつもりだった。
断りたい。
でも断ったら、また置いていかれる気がした。
勝手な想像なのに、体が信じてしまう。
「私、弱くて……」
言いかけた瞬間。
朔の目が、ほんの少しだけ細くなった。
優しいままなのに、距離が遠くなる予感がする。
「うん、いいよ。無理しないで」
その言い方が、きれいすぎて、余計に刺さった。
朔は立った。
「ちょっと待ってて」
それだけ言って、通路の向こうへ行く。
また。
また置いていかれる。
私はグラスを握った。
指先が冷たい。
私は、何をしてるんだろう。
断りたいのに。
断った瞬間、胸がこんなに痛くなるのは、なんで。
朔は別の席で、落ち着いた笑いを落とす。
その笑いが、私には向いていない。
向いていないのが当たり前なのに、苦しい。
私はジンジャーエールを飲んだ。
甘さが喉を通る。
それでも、胸の空っぽは埋まらない。
この空っぽを、どうしたらいい。
私は自分の中で、言い訳を組み立て始めた。
一口だけなら。
全部飲まなくていいなら。
失礼じゃない程度に。
場に合わせるだけ。
そうすれば、置いていかれないかもしれない。
それは、私が勝手に決めたルール。
でも、私の体はそのルールにすがりたがっていた。
しばらくして、朔が戻ってきた。
何事もなかったみたいな顔。
何事もなかった、はずだ。
「ごめん」
今度はそれだけ、落とすように言った。
私は、胸の奥がじわっと熱くなるのを感じた。
たぶん、それがご褒美だって分かってしまう自分が嫌だ。
朔が手を上げると、スタッフが近づいた。
朔は私を見て、短く言う。
「薄くして。甘いやつ」
私のための言葉みたいに聞こえる。
でも、これは店の手順の言葉だ。
私はその境界が分からなくなりそうで、膝の上で指を絡め直した。
グラスが来た。
琥珀色というより、薄いオレンジに近い色。
香りは甘い。ジュースみたいに見える。
朔は私の顔を見て、声を落とす。
「全部飲まなくていい。味だけ」
逃げ道。
優しい逃げ道。
逃げ道があるから、私は動けてしまう。
私はグラスを持った。
手が少し震える。
その震えを見せたくなくて、唇を引き結ぶ。
ひと口。
舌先に甘さが広がって、遅れてアルコールの温度が来る。
喉がきゅっとなる。
でも、思っていたより、痛くない。
むしろ、胸の奥に溜まっていた空気が、少しだけゆるむ。
私は咳をこらえた。
情けない音を出したくない。
朔は笑わない。
心配もしすぎない。
ただ、私を見ている。
その視線が一拍長い。
「……えらい」
ひとことだけ。
胸の奥が、変にほどける。
えらい、なんて。
それだけで、私はここにいていいみたいな気がしてしまう。
怖い。
こんなことで、気が楽になる自分が怖い。
朔は続けた。
「それで十分」
言い切る。
私は、もう一口飲もうとして、手が止まった。
飲んだら、もっと楽になるかもしれない。
楽になりたい。
でも、楽になり方が怖い。
朔は私の迷いに触れない。
「飲みきらなくていい。置いといて」
私の手からグラスを取らない。
取らないのが、妙に効く。
選ぶのは私だ、という形だけ残る。
その形に、私は救われそうになって、同時に縛られそうになる。
店内の音が戻ってくる。
別の席で、誰かが笑う。
「朔くん、さっきの話なんだけどさ」
また呼ばれる。
朔の視線がそっちへ向く。
私はそれだけで、胸がざわついた。
行かないで、なんて言えない。
言えるはずがない。
私は客で、朔は仕事で、ここは店だ。
頭では分かっているのに、心が追いつかない。
朔は私を見て、短く言う。
「すぐ戻る」
それだけ。
私は頷いてしまう。
頷ける自分が、苦しい。
朔が立ち上がって、通路の向こうへ行った。
私はグラスを見た。
半分以上、残っている。
それで十分、って言われた。
それなのに、胸の奥が足りない。
足りないのに、飲み足りないわけじゃない。
私は自分の中の言葉にならない渇きに、名前をつけられないまま、座っていた。
朔は別の席で、落ち着いた声を落とす。
相手の女の人が笑う。
その笑い声が、私の耳の奥に残る。
私には向けられていない笑い。
私には向けられていないのに、私の心が勝手に反応する。
嫌だ。
こんなの、嫌だ。
なのに、ここから立ち上がって帰る勇気がない。
朔が戻ってきたのは、数分後だった。
何事もなかった顔で、椅子に座る。
「大丈夫?」
またそれ。
答えなくてもいい問い。
私は小さく頷いた。
朔は私のグラスを見て、それ以上触れない。
触れないで、空気だけ整える。
私は、残りの時間を数えていた。
終電。
帰らなきゃ。
帰れるのに、帰りたくない。
帰りたくないのに、帰らなきゃ。
私は財布を握りしめた。
この関係は、お金を払う関係だ。
その事実だけが、私を現実に戻そうとする。
しばらくして、朔がふっと目を上げた。
「今日は、ここまででいい」
言い方が静かで、逆に拒絶に聞こえそうになる。
でも、拒絶じゃない。
終わらせるための言葉。
私は息を吸った。
「……はい」
立ち上がると、足が少しだけふらついた。
アルコールのせいじゃない。
心の方が、ふらついている。
会計を済ませて、通路を歩く。
朔が少しだけ後ろからついてくる気配がする。
見送り。
見送りのはず。
私は期待してしまう。
昨日の余熱みたいなものを。
触れられないって分かっているのに、体が勝手に待つ。
怖い。
期待する自分が怖い。
店の入口のところで、朔が止まった。
距離は、守られている。
守られているのに、足りない。
朔は私の目を見ない。
でも、逃げない。
「気をつけて」
短い一言。
それだけ。
触れない。
止めない。
説明しない。
私は「ありがとうございました」と言った。
言ってしまう。
それで関係を整えられる気がしてしまう。
扉が閉まる。
外の空気が冷たくて、肺の奥が痛い。
夜の匂いが戻ってくる。
ネオンの光が、現実に貼りつく。
私は歩き出した。
袖口を、無意識に指でつまむ。
匂いは、まだ薄い。
でも、上書きされたはずなのに、胸の奥の渇きは消えていない。
むしろ、形になってきている。
あの一口。
えらい、っていう一言。
すぐ戻る、の約束。
戻ってくるときと、戻ってこないとき。
私は、何を受け取って、何を受け取れなかったんだろう。
自分で決めたはずの行動が、もう私の手から滑りかけている。
帰り道の途中で、スマホを取り出した。
画面は暗い。
当然だ。
連絡先を知らない。
知ってるわけがない。
それなのに、親指が空欄をなぞってしまう。
何か打とうとして、何も打てない。
私は画面を消して、ポケットに戻した。
その動作が、やけに乱暴だった。
家に帰ったら、衣類ミストを使うべきだ。
いつも通りに戻るべきだ。
そう思っているのに。
今夜も、たぶん引けない。
私は、袖口の匂いを守ろうとしている。
守ってしまう自分を、止められないまま。
