仕事が終わって、シャッターを下ろす音を背中に聞いた。
支店の空気はいつも通り整っていて、みんなの声も、夕方の色も、きれいに並んでいた。
私だけが、そこから一歩ずれている気がした。
制服の袖口をつまんで、深呼吸をする。
大丈夫。
いつもの言葉を、喉の奥で丸めたまま飲み込む。
駅までの道を歩きながら、私は何度もポケットの中のスマホを触った。
通知はない。
画面を点けて、消して、また点ける。
何かが来てほしいわけじゃないのに。
来ないことに、ほっとして。
ほっとした自分に、嫌気がさす。
昨日の夜のことを、思い出さないようにしているのに。
ふいに、指先が熱を思い出す。
手の甲の、あの一瞬。
触れた、というより、通り過ぎた。
それなのに、体のほうが覚えてる。
駅の改札を抜けて、帰りの電車に乗る。
いつもと同じ時間、いつもと同じ車両。
立っている人の肩と肩がぶつかるのも、吊り革の揺れも、いつも通り。
なのに私は、昨日からずっと、何かに追いつけてないみたいだった。
家に着くと、玄関の灯りが白くて眩しかった。
鍵を閉める音がやけに大きい。
靴を揃えて、コートを脱ぐ。
ハンガーにかける手が止まった。
袖口のあたりに、薄い匂いが残っている。
乾いた石けんみたいな、きれいな匂い。
それに、木の皮みたいな、ほんの少しだけ渋い感じ。
昨日の店の、甘い匂いとは違う。
あれは、受付の奥の甘さと、ライトと、氷の音が混ざった匂いだった。
でも、この袖口に残っているのは。
あの人の近くにだけあった、薄い匂い。
私は、玄関の棚に置いてある衣類ミストに手を伸ばした。
いつも、帰宅したら必ず使う。
外の匂いを落とす。
部屋の空気を守る。
それが私の、安心の作り方。
ボトルを掴んで、指が引き金にかかった。
……引けない。
噴きかけたら、消える。
消えたら、昨日の夜が終わってしまう。
終わってほしいのに。
終わったら、怖い。
私はボトルをそっと戻した。
代わりに、手だけ洗おうと思って洗面台へ行く。
石けんを泡立てて、指の間をこすって。
いつもより丁寧に洗っているのに、胸の奥が落ち着かない。
水を止める。
鏡の中の私は、笑ってないのに笑いそうな顔をしていた。
口元に手がいきそうになる。
やめる。
ちゃんとする。
私は、ちゃんとしていたい。
キッチンに立つ。
冷蔵庫を開けて、コンビニのごはんを取り出す。
レンジの音を聞きながら、スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
通知の表示は、母。
短い一文。
ちゃんと帰った?
私は反射で、すぐ返す。
うん。帰ったよ。
送信した瞬間、もう一文が来た。
ごはん食べてる?
うん。今から食べる。
あっという間に会話が終わる。
それなのに、肩が上がったままだった。
母の文字は、いつも丁寧で、いつも優しい。
その優しさが、私の生活の端っこを、少しずつ握ってくる。
レンジが鳴る。
私は皿を持ってテーブルに置いた。
白とベージュの部屋。
片づいているのに、あったかくない。
食べながら、昨日の声が、勝手に頭の奥で再生される。
今日よく頑張ったね。
口に出さない。
出したら、もっと現実になる。
食べ終わって、洗い物をして。
片づけて、床を軽く拭いて。
手を動かしている間だけ、息が少し戻る。
でも、ふと止まった瞬間。
袖口の匂いが、また来る。
私の部屋に、外の匂いが残っている。
それを嫌だと思うはずなのに。
嫌だと思いたいのに。
私は、コートの袖を指でつまんで、ほんの少しだけ鼻に近づけた。
吸ってしまう。
ひと呼吸。
……落ち着く。
落ち着いた自分が、怖い。
何してるの。
私はコートを乱暴にハンガーに戻した。
衣類ミストに目がいく。
使えばいいのに。
いつも通りにすればいいのに。
いつも通りが、今日はできない。
ベッドに入っても、眠りは浅かった。
目を閉じると、通路のライトが見える気がする。
氷の音が、カランと鳴る。
笑い声が遠くで弾む。
自分の呼吸だけが、妙に静かで。
私は何度も寝返りを打った。
そのたびに、袖口の匂いが、枕元で薄く揺れた。
翌朝、目覚ましで起きた時。
私は一瞬、昨日が夢だったと思った。
でも、クローゼットの前を通った時、コートが目に入る。
まだ、そこにある。
残っている。
そのことに、胸の奥がきゅっとする。
私は、いつもより多めにハンドクリームを塗った。
手首まで、丁寧に。
香りはいつもの、柑橘のやつ。
小さくて、控えめで、誰にも気づかれない程度。
それで上書きできると思った。
できなかった。
通勤電車の中で、ふいに、昨日の匂いが勝つ。
勝つ、って何。
私は自分の思考に驚いて、目を伏せた。
支店に着けば、仕事は私を整えてくれるはずだった。
伝票、チェック、ファイリング。
電話応対。
お待たせしました、すみません、ありがとうございます。
いつもの言葉の形に体をはめれば、私は戻れるはず。
でも、昼過ぎ。
後方の机で、確認の二重チェックをしている時に、手が止まった。
数字が、揺れる。
見間違えたかもしれない、っていう恐怖が先に来る。
私は息を吸って、もう一度確認した。
大丈夫。
大丈夫、大丈夫。
その言葉が、仕事のためじゃなく、自分を押さえるために出ているのが分かって、喉が乾いた。
終業の時間が来て、私はいつも通りに挨拶をして、支店を出た。
外の空気が冷たい。
冬手前の匂い。
それなのに、私の袖口だけ、別の季節みたいだった。
帰り道。
駅前の明るさを抜けて、住宅街に入る。
街灯の下を歩くと、影が伸びる。
私はまた、スマホを点けて消した。
通知はない。
当たり前。
そもそも、誰から来るはずもない。
それでも、何かが欲しいみたいに画面を見てしまう。
自分が嫌だ。
私は、コンビニに寄ろうと思った。
口実。
温かい飲み物でも買えば、少し落ち着く。
そう思って、いつもと違う角を曲がった。
角を曲がった先に、一本だけ、金木犀の街路樹がある道があった。
去年も、ここで匂いがした。
あの匂いを嗅ぐと、季節の中に戻れる。
私は好きだった。
今日は、匂いがしない。
もう終わってる。
なのに、代わりに、袖口の匂いが薄く来る。
私は足を止めた。
帰りたいのに、帰りたくない。
どっちが本当なのか、分からない。
私はコンビニの看板を探した。
見つからない。
そもそも、ここ、コンビニまで遠回りだ。
なんで、こっちに来たの。
自分に問いかけると、胸の奥がざわざわする。
答えが出る前に、私は歩き出した。
駅前の繁華街の方へ、戻るみたいに。
いや、戻ってるのは体だけで、心は置いていかれてる。
人の流れが増える。
ネオンが増える。
声が増える。
この前の夜の入口に、似ている。
私は、また衣類ミストのことを思い出した。
噴けばよかった。
噴けば終わった。
終わってほしい。
でも、終わらせたくない。
この矛盾を、どうしたらいいか分からない。
分からないのに、足だけは知ってるみたいに進む。
あの店の通りに、近づいていく。
看板が見えた。
私は一瞬で息が浅くなった。
やめよう。
帰ろう。
今なら引き返せる。
私は立ち止まって、手のひらをぎゅっと握った。
冷たい。
手先が冷たいのに、胸の奥だけ熱い。
自分が、ここに来たことが怖い。
怖いのに、安心もある。
あの扉の向こうに入れば、呼吸が整うって知ってしまっている。
それがいちばん、まずい。
私はスマホを見た。
何もない。
誰にも連絡してない。
誰にも言えない。
言えないまま来てしまった。
だからこそ、戻れない。
私は小さく自分に言い訳をした。
見るだけ。
座って、落ち着いて、帰るだけ。
終電で帰る。
昨日みたいに。
昨日みたいに、って思った瞬間、喉がきゅっと締まった。
昨日は、美咲がいた。
今日は、いない。
私は一人だ。
その事実が、急に寂しくて、目が熱くなった。
泣くのは違う。
ここで泣くのは違う。
私は顔を上げて、扉の前まで行った。
手を伸ばす。
ドアノブが冷たい。
指先が震える。
震えているのに、引っ込めない。
私は、静かに扉を押した。
甘い匂いと、ライトと、氷の音が、いっぺんに押し寄せる。
現実の匂いが、上書きされていく。
上書きされるのに、私は袖口の匂いを、どこかで守ろうとしていた。
守ってしまう自分に、また罪悪感が湧く。
でも、今夜は。
その罪悪感の扱い方を、私はまだ知らない。
受付の声がした。
私は、うまく笑えないまま、名前も言えないまま、立っていた。
支店の空気はいつも通り整っていて、みんなの声も、夕方の色も、きれいに並んでいた。
私だけが、そこから一歩ずれている気がした。
制服の袖口をつまんで、深呼吸をする。
大丈夫。
いつもの言葉を、喉の奥で丸めたまま飲み込む。
駅までの道を歩きながら、私は何度もポケットの中のスマホを触った。
通知はない。
画面を点けて、消して、また点ける。
何かが来てほしいわけじゃないのに。
来ないことに、ほっとして。
ほっとした自分に、嫌気がさす。
昨日の夜のことを、思い出さないようにしているのに。
ふいに、指先が熱を思い出す。
手の甲の、あの一瞬。
触れた、というより、通り過ぎた。
それなのに、体のほうが覚えてる。
駅の改札を抜けて、帰りの電車に乗る。
いつもと同じ時間、いつもと同じ車両。
立っている人の肩と肩がぶつかるのも、吊り革の揺れも、いつも通り。
なのに私は、昨日からずっと、何かに追いつけてないみたいだった。
家に着くと、玄関の灯りが白くて眩しかった。
鍵を閉める音がやけに大きい。
靴を揃えて、コートを脱ぐ。
ハンガーにかける手が止まった。
袖口のあたりに、薄い匂いが残っている。
乾いた石けんみたいな、きれいな匂い。
それに、木の皮みたいな、ほんの少しだけ渋い感じ。
昨日の店の、甘い匂いとは違う。
あれは、受付の奥の甘さと、ライトと、氷の音が混ざった匂いだった。
でも、この袖口に残っているのは。
あの人の近くにだけあった、薄い匂い。
私は、玄関の棚に置いてある衣類ミストに手を伸ばした。
いつも、帰宅したら必ず使う。
外の匂いを落とす。
部屋の空気を守る。
それが私の、安心の作り方。
ボトルを掴んで、指が引き金にかかった。
……引けない。
噴きかけたら、消える。
消えたら、昨日の夜が終わってしまう。
終わってほしいのに。
終わったら、怖い。
私はボトルをそっと戻した。
代わりに、手だけ洗おうと思って洗面台へ行く。
石けんを泡立てて、指の間をこすって。
いつもより丁寧に洗っているのに、胸の奥が落ち着かない。
水を止める。
鏡の中の私は、笑ってないのに笑いそうな顔をしていた。
口元に手がいきそうになる。
やめる。
ちゃんとする。
私は、ちゃんとしていたい。
キッチンに立つ。
冷蔵庫を開けて、コンビニのごはんを取り出す。
レンジの音を聞きながら、スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
通知の表示は、母。
短い一文。
ちゃんと帰った?
私は反射で、すぐ返す。
うん。帰ったよ。
送信した瞬間、もう一文が来た。
ごはん食べてる?
うん。今から食べる。
あっという間に会話が終わる。
それなのに、肩が上がったままだった。
母の文字は、いつも丁寧で、いつも優しい。
その優しさが、私の生活の端っこを、少しずつ握ってくる。
レンジが鳴る。
私は皿を持ってテーブルに置いた。
白とベージュの部屋。
片づいているのに、あったかくない。
食べながら、昨日の声が、勝手に頭の奥で再生される。
今日よく頑張ったね。
口に出さない。
出したら、もっと現実になる。
食べ終わって、洗い物をして。
片づけて、床を軽く拭いて。
手を動かしている間だけ、息が少し戻る。
でも、ふと止まった瞬間。
袖口の匂いが、また来る。
私の部屋に、外の匂いが残っている。
それを嫌だと思うはずなのに。
嫌だと思いたいのに。
私は、コートの袖を指でつまんで、ほんの少しだけ鼻に近づけた。
吸ってしまう。
ひと呼吸。
……落ち着く。
落ち着いた自分が、怖い。
何してるの。
私はコートを乱暴にハンガーに戻した。
衣類ミストに目がいく。
使えばいいのに。
いつも通りにすればいいのに。
いつも通りが、今日はできない。
ベッドに入っても、眠りは浅かった。
目を閉じると、通路のライトが見える気がする。
氷の音が、カランと鳴る。
笑い声が遠くで弾む。
自分の呼吸だけが、妙に静かで。
私は何度も寝返りを打った。
そのたびに、袖口の匂いが、枕元で薄く揺れた。
翌朝、目覚ましで起きた時。
私は一瞬、昨日が夢だったと思った。
でも、クローゼットの前を通った時、コートが目に入る。
まだ、そこにある。
残っている。
そのことに、胸の奥がきゅっとする。
私は、いつもより多めにハンドクリームを塗った。
手首まで、丁寧に。
香りはいつもの、柑橘のやつ。
小さくて、控えめで、誰にも気づかれない程度。
それで上書きできると思った。
できなかった。
通勤電車の中で、ふいに、昨日の匂いが勝つ。
勝つ、って何。
私は自分の思考に驚いて、目を伏せた。
支店に着けば、仕事は私を整えてくれるはずだった。
伝票、チェック、ファイリング。
電話応対。
お待たせしました、すみません、ありがとうございます。
いつもの言葉の形に体をはめれば、私は戻れるはず。
でも、昼過ぎ。
後方の机で、確認の二重チェックをしている時に、手が止まった。
数字が、揺れる。
見間違えたかもしれない、っていう恐怖が先に来る。
私は息を吸って、もう一度確認した。
大丈夫。
大丈夫、大丈夫。
その言葉が、仕事のためじゃなく、自分を押さえるために出ているのが分かって、喉が乾いた。
終業の時間が来て、私はいつも通りに挨拶をして、支店を出た。
外の空気が冷たい。
冬手前の匂い。
それなのに、私の袖口だけ、別の季節みたいだった。
帰り道。
駅前の明るさを抜けて、住宅街に入る。
街灯の下を歩くと、影が伸びる。
私はまた、スマホを点けて消した。
通知はない。
当たり前。
そもそも、誰から来るはずもない。
それでも、何かが欲しいみたいに画面を見てしまう。
自分が嫌だ。
私は、コンビニに寄ろうと思った。
口実。
温かい飲み物でも買えば、少し落ち着く。
そう思って、いつもと違う角を曲がった。
角を曲がった先に、一本だけ、金木犀の街路樹がある道があった。
去年も、ここで匂いがした。
あの匂いを嗅ぐと、季節の中に戻れる。
私は好きだった。
今日は、匂いがしない。
もう終わってる。
なのに、代わりに、袖口の匂いが薄く来る。
私は足を止めた。
帰りたいのに、帰りたくない。
どっちが本当なのか、分からない。
私はコンビニの看板を探した。
見つからない。
そもそも、ここ、コンビニまで遠回りだ。
なんで、こっちに来たの。
自分に問いかけると、胸の奥がざわざわする。
答えが出る前に、私は歩き出した。
駅前の繁華街の方へ、戻るみたいに。
いや、戻ってるのは体だけで、心は置いていかれてる。
人の流れが増える。
ネオンが増える。
声が増える。
この前の夜の入口に、似ている。
私は、また衣類ミストのことを思い出した。
噴けばよかった。
噴けば終わった。
終わってほしい。
でも、終わらせたくない。
この矛盾を、どうしたらいいか分からない。
分からないのに、足だけは知ってるみたいに進む。
あの店の通りに、近づいていく。
看板が見えた。
私は一瞬で息が浅くなった。
やめよう。
帰ろう。
今なら引き返せる。
私は立ち止まって、手のひらをぎゅっと握った。
冷たい。
手先が冷たいのに、胸の奥だけ熱い。
自分が、ここに来たことが怖い。
怖いのに、安心もある。
あの扉の向こうに入れば、呼吸が整うって知ってしまっている。
それがいちばん、まずい。
私はスマホを見た。
何もない。
誰にも連絡してない。
誰にも言えない。
言えないまま来てしまった。
だからこそ、戻れない。
私は小さく自分に言い訳をした。
見るだけ。
座って、落ち着いて、帰るだけ。
終電で帰る。
昨日みたいに。
昨日みたいに、って思った瞬間、喉がきゅっと締まった。
昨日は、美咲がいた。
今日は、いない。
私は一人だ。
その事実が、急に寂しくて、目が熱くなった。
泣くのは違う。
ここで泣くのは違う。
私は顔を上げて、扉の前まで行った。
手を伸ばす。
ドアノブが冷たい。
指先が震える。
震えているのに、引っ込めない。
私は、静かに扉を押した。
甘い匂いと、ライトと、氷の音が、いっぺんに押し寄せる。
現実の匂いが、上書きされていく。
上書きされるのに、私は袖口の匂いを、どこかで守ろうとしていた。
守ってしまう自分に、また罪悪感が湧く。
でも、今夜は。
その罪悪感の扱い方を、私はまだ知らない。
受付の声がした。
私は、うまく笑えないまま、名前も言えないまま、立っていた。
