扉の前の光が結衣の頬をく照らす。
中から笑い声が一段強く聞こえた。
美咲が扉に手をかける。
「行こ」
結衣の胸がきゅっと縮む。
でも足は止まらなかった。
扉が開く。
扉が開いた瞬間
匂いが先にぶつかった。
甘い。
アルコール。
どこかの柔軟剤。
それに少しだけ煙の気配。
音も一緒に流れ込んでくる。
笑い声。
グラスの氷。
低い音の音楽。
結衣は一歩だけ進んで足が止まりそうになった。
美咲が前を行く。
迷いがない。
「こんばんはー」
黒いスーツの店員が笑う。
笑うのに目は忙しい。
「初めてですか」
美咲がうなずく。
「はい。今日だけ。見るだけです」
言い切るのが美咲らしい。
結衣は鞄の持ち手を握った。
さっきより冷たい。
「身分証だけお願いできますか」
結衣は免許証を出す。
指が思うように動かない。
カードの角が指先に当たって痛い。
店員はちらりと確認してすぐに返した。
「ありがとうございます。こちらどうぞ」
ありがとうございます。
言葉が丁寧すぎて浮く気がして結衣は喉の奥で小さく息をした。
通路は暗めだった。
壁に光が流れている。
どこか落ち着くのに落ち着けない。
席はボックスだった。
背中にソファの柔らかさがある。
テーブルの上には氷の入った桶。
透明なグラスが並ぶ。
「お飲み物どうされますか」
美咲が先に言う。
「私。何でもいいです」
何でもいい。
結衣はその言い方ができない。
できないから迷う。
「ソフトドリンクもありますよ」
店員がさらっと助け舟を出す。
結衣は小さくうなずいた。
「ジンジャーエールで」
美咲が横で笑った。
「結衣。居酒屋でも飲まなかったもんね」
結衣は笑ってそれ以上を言わない。
恥ずかしい。
怖い。
理由を説明したら自分が壊れる気がした。
飲み物が届くと同時に男の子が二人入ってきた。
どちらも笑顔が上手い。
上手すぎて目がどこを見ているのか分からない。
「こんばんは。今日は来てくれてありがと」
最初の子は明るかった。
声がよく通る。
「美咲ちゃんだよね。可愛いじゃん」
美咲がすぐに笑う。
「やだ。いきなり褒めてくれる」
その笑い方が居酒屋より少しだけ軽くなる。
結衣はそれを横で見ていた。
自分だけ遠い。
もう一人の子が結衣にも顔を向けた。
「そっちは」
結衣は反射で背筋を伸ばした。
「結衣です」
口に出した名前が場違いに聞こえる。
「結衣ちゃんね。今日は付き添い?」
結衣はうなずく。
「はい」
言い切ると胸の奥が少しだけ苦しくなる。
付き添い。
いい言葉だ。
自分がここにいる理由になる。
明るい子が美咲にグラスを差し出す。
「乾杯しよ」
美咲が合わせる。
結衣も遅れてグラスを上げた。
氷が鳴る。
音は綺麗だった。
結衣のジンジャーエールは甘い。
辛さが喉に残って少しだけ現実に戻れる。
美咲は笑っていた。
昨日の痛みが嘘みたいに。
でも目の奥がまだ少しだけ濡れている。
結衣はそれを見て何も言えなかった。
言ったら美咲のがんばりが崩れる。
だから結衣はただ隣にいる。
隣にいることが結衣の得意な優しさだった。
しばらくすると店員が近づいてきた。
「気になる子いますか」
美咲が顔を上げる。
「え」
言いながら視線が通路の奥へ滑った。
そこにひとり立っている男がいた。
派手じゃない。
笑っていない。
でも目が合った気がした。
結衣はなぜか
目を逸らせなかった。
男は軽く会釈して
そのまま目線を外す。
美咲が小さく息を吐いた。
「……あの人」
店員がうなずく。
「朔ですね。お席移りますか」
美咲が迷わず言う。
「うん」
結衣の胸がきゅっと縮む。
移る。
今ここで。
「結衣。ちょっとだけ待ってて」
美咲が言う。
ちょっとだけ。
ちょっとだけで済むのか分からない。
結衣は笑って返す。
「うん。大丈夫」
口に出した瞬間自分に言い聞かせているのが分かった。
美咲が立つ。
店員が案内する。
明るい子も美咲についていく。
結衣の隣が空く。
ソファの柔らかさが急に広くなる。
もう一人の子が気まずそうに笑った。
「えっと。結衣ちゃんは大丈夫?」
結衣はうなずいた。
「はい」
大丈夫じゃない。
でも大丈夫と言う。
それが結衣の型だった。
氷の音がやけに大きい。
そこへさっきの男が座った。
動きが静かだった。
音を立てない。
近くで見ると清潔感が強い。
香りは薄い。
乾いた石けん。
それに少しだけ木。
「こんばんは」
声が低い。
落ち着いている。
「朔」
名乗り方が短い。
結衣は小さく頭を下げた。
「結衣です」
朔はうなずいただけですぐにテーブルの上を見る。
結衣のグラス。
「ジンジャーエール」
結衣は慌てて言った。
「はい。お酒は」
言い訳を続けそうになって喉が詰まる。
朔が先に言った。
「無理して飲まなくていい」
それだけだった。
責めない。
笑わない。
押さない。
結衣は少しだけ息を吸えた。
「ありがとうございます」
言えた。
すみませんじゃなくて。
朔は表情を変えない。
でも否定されなかった。
それだけで胸の奥が少しほどける。
「付き添い」
朔が言う。
結衣はうなずく。
「はい」
朔は結衣を見た。
目を合わせる時間が短い。
でも短いからかえって刺さる。
「えらいね」
結衣は返事ができなかった。
えらい。
そんな言葉を
今の自分は受け取りたくないのに
受け取ってしまう。
胸の奥で小さく何かが鳴った。
朔はそれ以上言わない。
掘らない。
踏み込まない。
その距離が結衣には安全に見えた。
美咲の席の方から笑い声が上がる。
美咲がはしゃいでいる。
結衣の知らない顔。
結衣はそれを見て安心するべきなのに少しだけ寂しくなる。
自分だけが取り残された気がして。
朔はその視線に気づいたのか気づいていないのかただグラスに氷を落とした。
氷が鳴る。
音が落ち着く。
「来てよかった?」
朔が聞いた。
結衣は答えを探した。
来てよかった。
言ったら次も来る理由になる。
来てよくない。
言ったら今ここにいる自分を否定する。
結衣は小さく言った。
「……分かりません」
朔は笑わない。
「分かんないならそれでいい」
それも責めない言葉だった。
結衣は指先に力が入っているのに気づく。
グラスを握りすぎている。
ゆっくり離す。
ちゃんと。
落ち着いて。
朔は一度だけ結衣の手元を見て
目線を戻した。
その視線が妙に静かで妙に優しかった。
時間が過ぎる。
店員が来てさりげなく言う。
「お時間です」
美咲が戻ってきた。
頬が少し赤い。
「結衣。ごめん。盛り上がっちゃった」
結衣は笑った。
「大丈夫」
今度は少しだけ本当に大丈夫だった。
美咲が支払いを済ませる。
結衣は財布を出しかけて美咲に止められた。
「今日は私って言ったでしょ」
結衣は小さくうなずく。
「ありがとう」
それ以上は言わない。
言ったら
また謝り癖が出る。
出口へ向かう通路は
行きより少しだけ明るく見えた。
美咲が先に歩く。
結衣は後ろ。
朔が最後に隣へ来る。
足音が静かだ。
エレベーター前で結衣が一瞬だけ立ち止まった。
外の空気を想像して胸が少し冷える。
朔が低い声で言った。
「今日よく頑張ったね」
結衣は反射でありがとうございますと言いそうになった。
でも声が出ない。
朔は続けない。
ただ結衣の手元に視線を落とす。
次の瞬間指先が触れた。
手の甲。
そこから指先へ。
一秒もない。
掴まない。
引き止めない。
説明もしない。
なのに
熱だけが残る。
朔が言った。
「ゆいちゃん」
結衣は瞬きを忘れた。
呼ばれた名前が
急に近い。
近いのに
自分の中に入ってこない。
エレベーターの扉が開く。
美咲が振り返る。
「結衣。行くよ」
結衣は小さくうなずいて
前へ出た。
手の甲が熱い。
息が浅い。
外へ出たら夜風が頬を撫でた。
街の匂いが戻る。
それでもあの一秒だけが
消えなかった。
外に出た瞬間音が変わった。
さっきまでの笑い声が扉の向こうへ押し戻される。
代わりに車の音。
信号の電子音。
誰かの足音。
街の夜の音が戻ってくる。
美咲が大きく息を吐いた。
「はあ。楽しかった」
言い切って笑う。
声は明るい。
結衣は頷いた。
「うん」
それ以上が出ない。
美咲は気づかないふりをするみたいに腕をぶんぶん振って歩く。
「ねえ見た。朔」
結衣の喉がきゅっとなる。
名前を聞くだけで手の甲が熱くなる気がした。
結衣は返事を遅らせた。
遅らせても美咲は待たない。
「静かでさ。逆に怖いくらい。ああいうのが人気なんだろね」
結衣は小さく笑った。
笑ったのに口の中が乾いている。
「……人気なんだ」
言葉が薄い。
美咲が結衣の横顔を覗く。
「結衣どうだった」
結衣は答えを探した。
楽しかった。
怖かった。
疲れた。
全部当てはまる。
どれか一つにすると自分が嘘になる気がした。
結衣は短く言った。
「不思議だった」
美咲が笑う。
「分かる。現実じゃない感じ」
現実じゃない。
その言葉は結衣の中の別の場所を押した。
現実に戻ったら手の甲の熱は消える。
消えてほしい。
でも消えたら怖い。
結衣は自分の手を見ないように鞄の持ち手を握り直した。
革が指に食い込む。
痛みがあると安心する。
駅までの道はさっきより少しだけ寒かった。
風が強い。
美咲がコートの襟を立てる。
「ねえ。ほんとありがとうね」
結衣は反射で言いかける。
大丈夫。
気にしないで。
でも
今日はその言葉を出すと自分が崩れそうだった。
結衣は少しだけ言葉を選んだ。
「……うん。帰れそう」
帰れそう。
それだけでいい。
美咲はうなずく。
「帰れる。帰れる。明日には元気」
自分に言い聞かせている。
結衣はそれが分かった。
分かったから何も言えない。
改札を抜けてホームに上がる。
電車の音が近い。
美咲がスマホを見て
顔をしかめた。
「うわ。終電ギリ」
結衣は頷く。
「間に合うよ」
言いながら
結衣は手の甲をそっと見た。
見た瞬間に
熱が戻る。
ばかみたいだと思う。
一秒にも満たないのに。
掴まれてもいないのに。
でもそこだけがさっきの店の名残になっている。
電車が来る。
ドアが開く。
二人は並んで座れなかった。
少し離れた席。
美咲はすぐスマホを握る。
画面を見てまた笑う。
笑いながら時々目が遠くなる。
結衣はその横顔を見て
胸の奥が小さく痛い。
美咲の痛みは分かる。
自分の痛みは分からない。
分からないまま
またどこかへ流される。
美咲の駅に着く。
美咲が立ち上がる。
「結衣。今日はありがと」
結衣も立つ。
「うん。気をつけて」
美咲が笑って
結衣の肩を軽く叩いた。
「結衣もね。変なやつに引っかかんないで」
冗談みたいに言って
手を振って降りていく。
結衣は返事ができなかった。
変なやつ。
その言葉が
手の甲の熱を刺した。
電車のドアが閉まる。
美咲が小さくなっていく。
結衣は座って
膝の上に鞄を置いた。
静かだ。
車内の音が整っている。
さっきの店の音はもうない。
なのに
結衣の中だけまだ少し騒がしい。
息を吸う。
浅い。
吐く。
吐いた息が白い気がした。
実際は白くないのに。
家の最寄りで降りる。
改札を抜ける。
夜の空気が冷たい。
駅前の明るさを抜けて
住宅街へ入ると
音が減る。
ここでいつも一人になる。
結衣はポケットから鍵を出した。
鍵が指先で滑る。
落としそうになる。
結衣は立ち止まって
鍵を握り直した。
ちゃんと。
落とさない。
落としたら
自分まで落ちる気がした。
マンションのエントランスに入ると
外の匂いが切れる。
少し安心して少し息苦しい。
エレベーターを待つ間、結衣はまた手の甲を見た。
まだ熱い気がする。
冷たいはずなのに。
階に着く。
廊下は無音。
自分の靴音だけが響く。
玄関の前で結衣は一度だけ
深呼吸をした。
入ったら今日の言葉が全部戻ってくる。
同僚の声。
母の声。
美咲の笑い声。
朔の低い声。
結衣は鍵を回した。
部屋の匂いがした。
せっけん。
洗剤。
自分の生活の匂い。
ほっとするはずの匂いなのに今夜は薄い。
結衣は靴を揃えてコートを脱ぐ。
ハンガーにかけようとして
止まった。
服に店の匂いが残っている気がした。
残っているはずがない。
何も触れていない。
抱かれてもいない。
それでも匂いだけは勝手にまとわりつく。
結衣はコートを抱えてしばらく立った。
そのまま洗濯機の前まで行く。
入れる。
回す。
それで安心できるはず。
結衣は洗剤のボトルを握った。
ふたを開ける。
匂いがする。
急に泣きそうになる。
何で泣きたいのか分からない。
分からないから泣けない。
結衣はふたを閉めた。
洗濯は明日にした。
自分で決めた。
その事実だけを残した。
洗面所へ行く。
手を洗う。
水は冷たい。
結衣は手の甲をこすった。
こすっても熱が消えない気がする。
消えてほしい。
消えたら寂しい。
結衣は蛇口を止めて
鏡を見た。
顔はいつも通り。
いつも通りに見える。
でも目だけが少し違う。
何かを知ってしまった目だ。
結衣は歯ブラシを手に取った。
それもやめた。
今日はもう
何もしたくない。
結衣は浴槽にお湯をためる代わりに
シャワーだけを浴びた。
温かい水が肩を叩く。
それでも
胸の奥の硬さはほどけない。
シャワーを止める。
タオルで髪を拭く。
拭いている途中で
また手の甲を見てしまう。
手の甲。
指先。
あの一秒。
結衣は洗面台の上に置いた
ハンドソープのポンプを押した。
泡が出る。
白い。
結衣は泡を
手の甲に乗せる。
泡で隠すみたいに。
そして
ゆっくり洗った。
丁寧に。
いつもの自分みたいに。
洗い終わっても
熱は残っている気がした。
結衣はため息を吐いた。
息が少しだけ深くなった。
そのまま部屋に戻る。
ベッドに座って
スマホを置く。
通知はない。
ないのに
画面を点けてしまう。
点けて
消す。
点けて
消す。
結衣はスマホを裏返しにした。
もう見ない。
そう決めるのに
指先が落ち着かない。
結衣は布団に入った。
部屋は静か。
静かすぎて
心臓の音が聞こえる。
結衣は目を閉じた。
瞼の裏に
明るい店の光が浮かぶ。
朔の声が浮かぶ。
今日よく頑張ったね。
ゆいちゃん。
その言葉は
甘いのに
怖い。
結衣は布団の中で
手の甲をそっと握った。
熱がある気がする。
そこだけ
今日が続いている。
続いてしまっている。
中から笑い声が一段強く聞こえた。
美咲が扉に手をかける。
「行こ」
結衣の胸がきゅっと縮む。
でも足は止まらなかった。
扉が開く。
扉が開いた瞬間
匂いが先にぶつかった。
甘い。
アルコール。
どこかの柔軟剤。
それに少しだけ煙の気配。
音も一緒に流れ込んでくる。
笑い声。
グラスの氷。
低い音の音楽。
結衣は一歩だけ進んで足が止まりそうになった。
美咲が前を行く。
迷いがない。
「こんばんはー」
黒いスーツの店員が笑う。
笑うのに目は忙しい。
「初めてですか」
美咲がうなずく。
「はい。今日だけ。見るだけです」
言い切るのが美咲らしい。
結衣は鞄の持ち手を握った。
さっきより冷たい。
「身分証だけお願いできますか」
結衣は免許証を出す。
指が思うように動かない。
カードの角が指先に当たって痛い。
店員はちらりと確認してすぐに返した。
「ありがとうございます。こちらどうぞ」
ありがとうございます。
言葉が丁寧すぎて浮く気がして結衣は喉の奥で小さく息をした。
通路は暗めだった。
壁に光が流れている。
どこか落ち着くのに落ち着けない。
席はボックスだった。
背中にソファの柔らかさがある。
テーブルの上には氷の入った桶。
透明なグラスが並ぶ。
「お飲み物どうされますか」
美咲が先に言う。
「私。何でもいいです」
何でもいい。
結衣はその言い方ができない。
できないから迷う。
「ソフトドリンクもありますよ」
店員がさらっと助け舟を出す。
結衣は小さくうなずいた。
「ジンジャーエールで」
美咲が横で笑った。
「結衣。居酒屋でも飲まなかったもんね」
結衣は笑ってそれ以上を言わない。
恥ずかしい。
怖い。
理由を説明したら自分が壊れる気がした。
飲み物が届くと同時に男の子が二人入ってきた。
どちらも笑顔が上手い。
上手すぎて目がどこを見ているのか分からない。
「こんばんは。今日は来てくれてありがと」
最初の子は明るかった。
声がよく通る。
「美咲ちゃんだよね。可愛いじゃん」
美咲がすぐに笑う。
「やだ。いきなり褒めてくれる」
その笑い方が居酒屋より少しだけ軽くなる。
結衣はそれを横で見ていた。
自分だけ遠い。
もう一人の子が結衣にも顔を向けた。
「そっちは」
結衣は反射で背筋を伸ばした。
「結衣です」
口に出した名前が場違いに聞こえる。
「結衣ちゃんね。今日は付き添い?」
結衣はうなずく。
「はい」
言い切ると胸の奥が少しだけ苦しくなる。
付き添い。
いい言葉だ。
自分がここにいる理由になる。
明るい子が美咲にグラスを差し出す。
「乾杯しよ」
美咲が合わせる。
結衣も遅れてグラスを上げた。
氷が鳴る。
音は綺麗だった。
結衣のジンジャーエールは甘い。
辛さが喉に残って少しだけ現実に戻れる。
美咲は笑っていた。
昨日の痛みが嘘みたいに。
でも目の奥がまだ少しだけ濡れている。
結衣はそれを見て何も言えなかった。
言ったら美咲のがんばりが崩れる。
だから結衣はただ隣にいる。
隣にいることが結衣の得意な優しさだった。
しばらくすると店員が近づいてきた。
「気になる子いますか」
美咲が顔を上げる。
「え」
言いながら視線が通路の奥へ滑った。
そこにひとり立っている男がいた。
派手じゃない。
笑っていない。
でも目が合った気がした。
結衣はなぜか
目を逸らせなかった。
男は軽く会釈して
そのまま目線を外す。
美咲が小さく息を吐いた。
「……あの人」
店員がうなずく。
「朔ですね。お席移りますか」
美咲が迷わず言う。
「うん」
結衣の胸がきゅっと縮む。
移る。
今ここで。
「結衣。ちょっとだけ待ってて」
美咲が言う。
ちょっとだけ。
ちょっとだけで済むのか分からない。
結衣は笑って返す。
「うん。大丈夫」
口に出した瞬間自分に言い聞かせているのが分かった。
美咲が立つ。
店員が案内する。
明るい子も美咲についていく。
結衣の隣が空く。
ソファの柔らかさが急に広くなる。
もう一人の子が気まずそうに笑った。
「えっと。結衣ちゃんは大丈夫?」
結衣はうなずいた。
「はい」
大丈夫じゃない。
でも大丈夫と言う。
それが結衣の型だった。
氷の音がやけに大きい。
そこへさっきの男が座った。
動きが静かだった。
音を立てない。
近くで見ると清潔感が強い。
香りは薄い。
乾いた石けん。
それに少しだけ木。
「こんばんは」
声が低い。
落ち着いている。
「朔」
名乗り方が短い。
結衣は小さく頭を下げた。
「結衣です」
朔はうなずいただけですぐにテーブルの上を見る。
結衣のグラス。
「ジンジャーエール」
結衣は慌てて言った。
「はい。お酒は」
言い訳を続けそうになって喉が詰まる。
朔が先に言った。
「無理して飲まなくていい」
それだけだった。
責めない。
笑わない。
押さない。
結衣は少しだけ息を吸えた。
「ありがとうございます」
言えた。
すみませんじゃなくて。
朔は表情を変えない。
でも否定されなかった。
それだけで胸の奥が少しほどける。
「付き添い」
朔が言う。
結衣はうなずく。
「はい」
朔は結衣を見た。
目を合わせる時間が短い。
でも短いからかえって刺さる。
「えらいね」
結衣は返事ができなかった。
えらい。
そんな言葉を
今の自分は受け取りたくないのに
受け取ってしまう。
胸の奥で小さく何かが鳴った。
朔はそれ以上言わない。
掘らない。
踏み込まない。
その距離が結衣には安全に見えた。
美咲の席の方から笑い声が上がる。
美咲がはしゃいでいる。
結衣の知らない顔。
結衣はそれを見て安心するべきなのに少しだけ寂しくなる。
自分だけが取り残された気がして。
朔はその視線に気づいたのか気づいていないのかただグラスに氷を落とした。
氷が鳴る。
音が落ち着く。
「来てよかった?」
朔が聞いた。
結衣は答えを探した。
来てよかった。
言ったら次も来る理由になる。
来てよくない。
言ったら今ここにいる自分を否定する。
結衣は小さく言った。
「……分かりません」
朔は笑わない。
「分かんないならそれでいい」
それも責めない言葉だった。
結衣は指先に力が入っているのに気づく。
グラスを握りすぎている。
ゆっくり離す。
ちゃんと。
落ち着いて。
朔は一度だけ結衣の手元を見て
目線を戻した。
その視線が妙に静かで妙に優しかった。
時間が過ぎる。
店員が来てさりげなく言う。
「お時間です」
美咲が戻ってきた。
頬が少し赤い。
「結衣。ごめん。盛り上がっちゃった」
結衣は笑った。
「大丈夫」
今度は少しだけ本当に大丈夫だった。
美咲が支払いを済ませる。
結衣は財布を出しかけて美咲に止められた。
「今日は私って言ったでしょ」
結衣は小さくうなずく。
「ありがとう」
それ以上は言わない。
言ったら
また謝り癖が出る。
出口へ向かう通路は
行きより少しだけ明るく見えた。
美咲が先に歩く。
結衣は後ろ。
朔が最後に隣へ来る。
足音が静かだ。
エレベーター前で結衣が一瞬だけ立ち止まった。
外の空気を想像して胸が少し冷える。
朔が低い声で言った。
「今日よく頑張ったね」
結衣は反射でありがとうございますと言いそうになった。
でも声が出ない。
朔は続けない。
ただ結衣の手元に視線を落とす。
次の瞬間指先が触れた。
手の甲。
そこから指先へ。
一秒もない。
掴まない。
引き止めない。
説明もしない。
なのに
熱だけが残る。
朔が言った。
「ゆいちゃん」
結衣は瞬きを忘れた。
呼ばれた名前が
急に近い。
近いのに
自分の中に入ってこない。
エレベーターの扉が開く。
美咲が振り返る。
「結衣。行くよ」
結衣は小さくうなずいて
前へ出た。
手の甲が熱い。
息が浅い。
外へ出たら夜風が頬を撫でた。
街の匂いが戻る。
それでもあの一秒だけが
消えなかった。
外に出た瞬間音が変わった。
さっきまでの笑い声が扉の向こうへ押し戻される。
代わりに車の音。
信号の電子音。
誰かの足音。
街の夜の音が戻ってくる。
美咲が大きく息を吐いた。
「はあ。楽しかった」
言い切って笑う。
声は明るい。
結衣は頷いた。
「うん」
それ以上が出ない。
美咲は気づかないふりをするみたいに腕をぶんぶん振って歩く。
「ねえ見た。朔」
結衣の喉がきゅっとなる。
名前を聞くだけで手の甲が熱くなる気がした。
結衣は返事を遅らせた。
遅らせても美咲は待たない。
「静かでさ。逆に怖いくらい。ああいうのが人気なんだろね」
結衣は小さく笑った。
笑ったのに口の中が乾いている。
「……人気なんだ」
言葉が薄い。
美咲が結衣の横顔を覗く。
「結衣どうだった」
結衣は答えを探した。
楽しかった。
怖かった。
疲れた。
全部当てはまる。
どれか一つにすると自分が嘘になる気がした。
結衣は短く言った。
「不思議だった」
美咲が笑う。
「分かる。現実じゃない感じ」
現実じゃない。
その言葉は結衣の中の別の場所を押した。
現実に戻ったら手の甲の熱は消える。
消えてほしい。
でも消えたら怖い。
結衣は自分の手を見ないように鞄の持ち手を握り直した。
革が指に食い込む。
痛みがあると安心する。
駅までの道はさっきより少しだけ寒かった。
風が強い。
美咲がコートの襟を立てる。
「ねえ。ほんとありがとうね」
結衣は反射で言いかける。
大丈夫。
気にしないで。
でも
今日はその言葉を出すと自分が崩れそうだった。
結衣は少しだけ言葉を選んだ。
「……うん。帰れそう」
帰れそう。
それだけでいい。
美咲はうなずく。
「帰れる。帰れる。明日には元気」
自分に言い聞かせている。
結衣はそれが分かった。
分かったから何も言えない。
改札を抜けてホームに上がる。
電車の音が近い。
美咲がスマホを見て
顔をしかめた。
「うわ。終電ギリ」
結衣は頷く。
「間に合うよ」
言いながら
結衣は手の甲をそっと見た。
見た瞬間に
熱が戻る。
ばかみたいだと思う。
一秒にも満たないのに。
掴まれてもいないのに。
でもそこだけがさっきの店の名残になっている。
電車が来る。
ドアが開く。
二人は並んで座れなかった。
少し離れた席。
美咲はすぐスマホを握る。
画面を見てまた笑う。
笑いながら時々目が遠くなる。
結衣はその横顔を見て
胸の奥が小さく痛い。
美咲の痛みは分かる。
自分の痛みは分からない。
分からないまま
またどこかへ流される。
美咲の駅に着く。
美咲が立ち上がる。
「結衣。今日はありがと」
結衣も立つ。
「うん。気をつけて」
美咲が笑って
結衣の肩を軽く叩いた。
「結衣もね。変なやつに引っかかんないで」
冗談みたいに言って
手を振って降りていく。
結衣は返事ができなかった。
変なやつ。
その言葉が
手の甲の熱を刺した。
電車のドアが閉まる。
美咲が小さくなっていく。
結衣は座って
膝の上に鞄を置いた。
静かだ。
車内の音が整っている。
さっきの店の音はもうない。
なのに
結衣の中だけまだ少し騒がしい。
息を吸う。
浅い。
吐く。
吐いた息が白い気がした。
実際は白くないのに。
家の最寄りで降りる。
改札を抜ける。
夜の空気が冷たい。
駅前の明るさを抜けて
住宅街へ入ると
音が減る。
ここでいつも一人になる。
結衣はポケットから鍵を出した。
鍵が指先で滑る。
落としそうになる。
結衣は立ち止まって
鍵を握り直した。
ちゃんと。
落とさない。
落としたら
自分まで落ちる気がした。
マンションのエントランスに入ると
外の匂いが切れる。
少し安心して少し息苦しい。
エレベーターを待つ間、結衣はまた手の甲を見た。
まだ熱い気がする。
冷たいはずなのに。
階に着く。
廊下は無音。
自分の靴音だけが響く。
玄関の前で結衣は一度だけ
深呼吸をした。
入ったら今日の言葉が全部戻ってくる。
同僚の声。
母の声。
美咲の笑い声。
朔の低い声。
結衣は鍵を回した。
部屋の匂いがした。
せっけん。
洗剤。
自分の生活の匂い。
ほっとするはずの匂いなのに今夜は薄い。
結衣は靴を揃えてコートを脱ぐ。
ハンガーにかけようとして
止まった。
服に店の匂いが残っている気がした。
残っているはずがない。
何も触れていない。
抱かれてもいない。
それでも匂いだけは勝手にまとわりつく。
結衣はコートを抱えてしばらく立った。
そのまま洗濯機の前まで行く。
入れる。
回す。
それで安心できるはず。
結衣は洗剤のボトルを握った。
ふたを開ける。
匂いがする。
急に泣きそうになる。
何で泣きたいのか分からない。
分からないから泣けない。
結衣はふたを閉めた。
洗濯は明日にした。
自分で決めた。
その事実だけを残した。
洗面所へ行く。
手を洗う。
水は冷たい。
結衣は手の甲をこすった。
こすっても熱が消えない気がする。
消えてほしい。
消えたら寂しい。
結衣は蛇口を止めて
鏡を見た。
顔はいつも通り。
いつも通りに見える。
でも目だけが少し違う。
何かを知ってしまった目だ。
結衣は歯ブラシを手に取った。
それもやめた。
今日はもう
何もしたくない。
結衣は浴槽にお湯をためる代わりに
シャワーだけを浴びた。
温かい水が肩を叩く。
それでも
胸の奥の硬さはほどけない。
シャワーを止める。
タオルで髪を拭く。
拭いている途中で
また手の甲を見てしまう。
手の甲。
指先。
あの一秒。
結衣は洗面台の上に置いた
ハンドソープのポンプを押した。
泡が出る。
白い。
結衣は泡を
手の甲に乗せる。
泡で隠すみたいに。
そして
ゆっくり洗った。
丁寧に。
いつもの自分みたいに。
洗い終わっても
熱は残っている気がした。
結衣はため息を吐いた。
息が少しだけ深くなった。
そのまま部屋に戻る。
ベッドに座って
スマホを置く。
通知はない。
ないのに
画面を点けてしまう。
点けて
消す。
点けて
消す。
結衣はスマホを裏返しにした。
もう見ない。
そう決めるのに
指先が落ち着かない。
結衣は布団に入った。
部屋は静か。
静かすぎて
心臓の音が聞こえる。
結衣は目を閉じた。
瞼の裏に
明るい店の光が浮かぶ。
朔の声が浮かぶ。
今日よく頑張ったね。
ゆいちゃん。
その言葉は
甘いのに
怖い。
結衣は布団の中で
手の甲をそっと握った。
熱がある気がする。
そこだけ
今日が続いている。
続いてしまっている。
