次の日は朝から静かだった。
結衣はいつも通りに起きていつも通りに顔を洗っていつも通りに信用金庫へ行った。
仕事の音は整っている。
伝票
印鑑
電話の受話器
キーボード。
昨日の夜が嘘みたいに
手順の中にいると自分も整う。
それでもふとした瞬間に戻ってくる。
彼氏作らないの。
結婚の話。
金木犀の匂い。
結衣はそのたびに胸の奥を小さく押さえた。
押さえて何もなかったみたいに笑った。
昼休み。
スマホが震えた。
美咲からだった。
美咲は短大の友達だ。
結衣の職場の世界にはいない。
だから少しだけ息ができる。
画面の上で通知が光る。
今日ちょっとご飯いこ。
お願い。
結衣は一度
指を止めた。
今日。
もう疲れている。
でも断る理由を考え始めた瞬間に胸がきゅっとなる。
断るときの言い方を探して
角が立たない言葉を並べて
最後にごめんねを付けて。
そういう自分に少しだけ疲れてしまう。
結衣は短く返した。
うん。
いいよ。
送ってから
すぐに後悔しかける。
なんでいいよって言ったんだろう。
でも既読がついて美咲の返信がすぐ来た。
ありがとう。
ほんと助かる。
助かる。
結衣の体がその言葉で勝手に動く。
助ける側に回ると結衣は断れない。
分かっているのに止められない。
終業のベルが鳴る頃結衣は鞄の持ち手を握った。
今日はまっすぐ帰らない。
そう思うだけで少しだけ足が軽くなる。
待ち合わせは乗り換え駅の改札前だった。
美咲が指定した駅。
結衣の生活圏からほんの一歩だけ外れている。
それだけで噂の怖さが薄くなる。
改札の前には人が多い。
制服の人も
スーツの人も
学生もいる。
その中で
美咲はすぐ見つかった。
明るい色のコート。
髪はふわっと巻いている。
スマホを握った手が忙しい。
結衣を見つけた瞬間
美咲が手を振った。
「結衣。こっち」
結衣は小さく手を上げる。
「ごめん。待った」
「ぜんぜん。むしろ助かった」
美咲は笑う。
笑うのに目の下だけが少し赤い。
結衣は気づいたけどすぐには聞かない。
聞き方を間違えると美咲が崩れる気がした。
「とりあえずご飯ね。おなかすいた」
美咲が言う。
軽い。
軽いのに
声の奥が薄く震えている。
結衣はうなずいた。
「うん」
歩き出すと駅前の明るさが背中に残る。
人の流れに押されながら美咲がいつものテンポで話す。
「今日さ。マジで一人無理」
結衣はその言い方で胸が少し締まった。
冗談みたいに言うほど本気なのが分かる。
「……どうしたの」
「うん。あとで話す。ご飯のほうが先」
美咲は笑って歩く速度を上げた。
チェーン居酒屋は駅前の大通り沿いにあった。
看板が明るい。
入口のガラスに店内の騒がしさが滲んでいる。
ここなら泣いても目立たない。
逆にちゃんと笑っていられる。
結衣はそのことに気づいて
少しだけ安心してしまった。
席はテーブル席。
周りの声が波みたいに寄せて会話の隙間を埋めてくれる。
おしぼりが配られる。
美咲が先に手を拭く。
結衣はおしぼりを一度広げてきれいに折りたたんだ。
自分でもおかしいと思う。
こんなところで几帳面さを出してどうするの。
でも手が勝手にそうする。
メニューを開いた美咲が迷いなく言った。
「レモンサワー」
店員がうなずく。
「お客様は」
結衣は一瞬だけ喉が詰まった。
お酒はあまり飲めない。
でもここで水を頼むのは逃げみたいで嫌だった。
美咲の横にいるのに場から浮くのも怖い。
結衣は一番無難なものを選んだ。
「ジンジャーエールで」
言ってから少しだけ息を吐いた。
お酒は避けたい。
でも雰囲気は合わせたい。
結衣のいつもの折り合いの付け方だった。
店員が去ると美咲はすぐにスマホを伏せた。
伏せる動きがいつもより乱暴だった。
「……ねえ」
美咲が言う。
結衣はうなずく。
「うん」
「今日さ」
美咲の声が少しだけ低くなる。
「会って別れた」
結衣の胸の中で何かが落ちる音がした。
重たいものが水の中に沈むみたいな音。
「……そっか」
結衣はそれ以上言えない。
慰めの言葉を探すとどれも軽く見えてしまう。
美咲は笑ってみせた。
でも笑い方がうまくない。
「ね。ウケるよね。会ってさ」
美咲は指でテーブルの縁をなぞった。
「優しかったんだよ。優しかったのにさ」
結衣は美咲の指先を見ていた。
目を合わせると自分も揺れそうだった。
「もう無理って言われた」
美咲は言った。
言い切ったあとに少しだけ黙る。
周りの笑い声がその沈黙を覆ってくれる。
結衣はその騒がしさに救われる。
「理由はって聞いた」
美咲は続けた。
「聞いたけどさ。なんか」
言葉が止まる。
美咲がうまく言えない顔をする。
結衣はそっと言った。
「……つらかったね」
美咲が小さく笑う。
「つらい」
笑いながら息を吐く。
泣くよりそのほうが楽みたいだった。
飲み物が届く。
美咲のレモンサワー。
結衣のジンジャーエール。
結衣はグラスを持って
氷の冷たさで指を落ち着かせた。
美咲がグラスを軽く上げる。
「乾杯しとこ。もう終わった記念」
結衣も上げる。
「……乾杯」
グラスが触れる音は軽い。
軽いのに結衣の胸は重い。
美咲が一口飲んで口元を拭く。
「ねえ。今日ほんと一人無理」
またその言葉。
結衣はうなずいた。
「うん」
「結衣が一緒ならさ。安心する」
美咲の声が少しだけ甘くなる。
結衣はその言い方に弱い。
頼られると自分の居場所ができる。
その居場所が自分をすり減らすことがあると知っていても
頼られた瞬間に体が動いてしまう。
美咲がもう一口飲む。
「褒められたい」
ぽつっと言った。
結衣は聞き返す。
「……褒められたい?」
美咲が笑う。
「そう。なんかさ」
笑いながら目が少し潤む。
「私の何がダメだったか分かんないし」
美咲は笑い声みたいに息を吐いた。
「じゃあさ。褒められたら勝ちじゃん」
結衣は何も言えなかった。
論理が強引ででも分かる。
今夜の美咲は正しさじゃなくて息をする場所が欲しい。
美咲が結衣を見た。
「ねえ。お願い」
声が急にまっすぐになる。
「ちょっとだけ付き合って」
結衣の指先がグラスを強く握った。
「どこに」
「ホスト。ほんとに見るだけ」
美咲はすぐ言う。
「終電で帰る。約束する」
結衣の心臓が
一段うるさくなる。
見るだけ。
終電。
それでも怖い。
「……そういうの慣れてないよ」
結衣は正直に言った。
美咲がすぐにうなずく。
「分かる。だから結衣がいい」
結衣は眉を寄せる。
「それ。理由になってない」
美咲が笑う。
「なる。結衣なら変なことしないし」
結衣はその言葉で逃げ場がなくなる。
変なことしない。
つまり
安全。
安全枠として頼られると
結衣は断りにくい。
「お金も……あんまり」
結衣が言うと美咲がすぐ返した。
「今日は私が出す」
結衣は息を止めた。
「え」
「付き合ってもらう代わり」
美咲は軽く言う。
軽く言うけど目だけは真剣だった。
「お願い。今日だけ」
結衣はごめんと言いかけて口を閉じた。
謝ったら美咲は余計に気を遣う。
結衣は代わりに小さくうなずいた。
「……分かった」
言った瞬間に胸の奥が冷えた。
分かった。
また。
この言葉でいつも自分を縛る。
美咲がほっとした顔をする。
その顔を見ると結衣は否定できなくなる。
美咲がレモンサワーを飲み干して笑った。
「よし。じゃあ行こ」
結衣はジンジャーエールを一口飲んだ。
辛さが喉を通っていく。
刺激だけが現実に戻してくれる。
支払いは美咲がした。
伝票を持つ手が早い。
結衣が財布を出しかけると美咲が首を振った。
「今日は私。ついてきてもらうし」
結衣はありがとうと言った。
ありがとうの声が小さい。
外へ出ると夜風が頬に当たった。
店の匂いが背中から消えて急に世界が広くなる。
美咲は歩き出す。
迷いがない。
結衣は一歩遅れてついていく。
繁華街の光が近づくにつれて人の声が増える。
笑い声。
呼び込みの声。
車の音。
音が重なっていく。
その中に
ふっと混じる匂いがあった。
金木犀。
一瞬だけ。
結衣は足を止めかける。
あの匂いは自分に戻れる合図のはずだった。
でも今日は戻れない。
美咲が振り返る。
「結衣。こっち」
軽く手を振る。
結衣はうなずいて歩き出した。
帰りたくない。
それだけが背中を押している。
角を曲がると派手な看板が並ぶ通りに出た。
文字が光る。
知らない世界の光。
結衣は視線を落とした。見たら引き返せなくなる気がした。
「大丈夫」
美咲が言う。
「見るだけだって」
結衣は返事をしない。返事をしたら本当に大丈夫みたいになるから。
ビルの入口の前で美咲が立ち止まった。
ガラスの扉。
中から漏れる音。
甘い匂い。
結衣の手先が冷える。
息が浅くなる。
鞄の持ち手を握る指が少しだけ震えた。
「身分証いるって」
美咲が言う。
結衣は慌てて鞄を開けた。
いつもは整っている鞄の中が今だけぐちゃっとなる。
財布。
定期。
鍵。
小さなポーチ。
指がうまく動かない。
美咲が笑う。
「平気平気」
笑いながら結衣の手元を覗く。
「結衣ってこういうときだけ焦るよね」
結衣はやっと免許証を見つけた。
カードの角が指に当たって痛い。
「……ごめん」
「謝らなくていいって」
美咲が言う。
その言い方がいつもより優しい。
結衣はその優しさが怖い。
扉の前の光が結衣の頬を白
結衣はいつも通りに起きていつも通りに顔を洗っていつも通りに信用金庫へ行った。
仕事の音は整っている。
伝票
印鑑
電話の受話器
キーボード。
昨日の夜が嘘みたいに
手順の中にいると自分も整う。
それでもふとした瞬間に戻ってくる。
彼氏作らないの。
結婚の話。
金木犀の匂い。
結衣はそのたびに胸の奥を小さく押さえた。
押さえて何もなかったみたいに笑った。
昼休み。
スマホが震えた。
美咲からだった。
美咲は短大の友達だ。
結衣の職場の世界にはいない。
だから少しだけ息ができる。
画面の上で通知が光る。
今日ちょっとご飯いこ。
お願い。
結衣は一度
指を止めた。
今日。
もう疲れている。
でも断る理由を考え始めた瞬間に胸がきゅっとなる。
断るときの言い方を探して
角が立たない言葉を並べて
最後にごめんねを付けて。
そういう自分に少しだけ疲れてしまう。
結衣は短く返した。
うん。
いいよ。
送ってから
すぐに後悔しかける。
なんでいいよって言ったんだろう。
でも既読がついて美咲の返信がすぐ来た。
ありがとう。
ほんと助かる。
助かる。
結衣の体がその言葉で勝手に動く。
助ける側に回ると結衣は断れない。
分かっているのに止められない。
終業のベルが鳴る頃結衣は鞄の持ち手を握った。
今日はまっすぐ帰らない。
そう思うだけで少しだけ足が軽くなる。
待ち合わせは乗り換え駅の改札前だった。
美咲が指定した駅。
結衣の生活圏からほんの一歩だけ外れている。
それだけで噂の怖さが薄くなる。
改札の前には人が多い。
制服の人も
スーツの人も
学生もいる。
その中で
美咲はすぐ見つかった。
明るい色のコート。
髪はふわっと巻いている。
スマホを握った手が忙しい。
結衣を見つけた瞬間
美咲が手を振った。
「結衣。こっち」
結衣は小さく手を上げる。
「ごめん。待った」
「ぜんぜん。むしろ助かった」
美咲は笑う。
笑うのに目の下だけが少し赤い。
結衣は気づいたけどすぐには聞かない。
聞き方を間違えると美咲が崩れる気がした。
「とりあえずご飯ね。おなかすいた」
美咲が言う。
軽い。
軽いのに
声の奥が薄く震えている。
結衣はうなずいた。
「うん」
歩き出すと駅前の明るさが背中に残る。
人の流れに押されながら美咲がいつものテンポで話す。
「今日さ。マジで一人無理」
結衣はその言い方で胸が少し締まった。
冗談みたいに言うほど本気なのが分かる。
「……どうしたの」
「うん。あとで話す。ご飯のほうが先」
美咲は笑って歩く速度を上げた。
チェーン居酒屋は駅前の大通り沿いにあった。
看板が明るい。
入口のガラスに店内の騒がしさが滲んでいる。
ここなら泣いても目立たない。
逆にちゃんと笑っていられる。
結衣はそのことに気づいて
少しだけ安心してしまった。
席はテーブル席。
周りの声が波みたいに寄せて会話の隙間を埋めてくれる。
おしぼりが配られる。
美咲が先に手を拭く。
結衣はおしぼりを一度広げてきれいに折りたたんだ。
自分でもおかしいと思う。
こんなところで几帳面さを出してどうするの。
でも手が勝手にそうする。
メニューを開いた美咲が迷いなく言った。
「レモンサワー」
店員がうなずく。
「お客様は」
結衣は一瞬だけ喉が詰まった。
お酒はあまり飲めない。
でもここで水を頼むのは逃げみたいで嫌だった。
美咲の横にいるのに場から浮くのも怖い。
結衣は一番無難なものを選んだ。
「ジンジャーエールで」
言ってから少しだけ息を吐いた。
お酒は避けたい。
でも雰囲気は合わせたい。
結衣のいつもの折り合いの付け方だった。
店員が去ると美咲はすぐにスマホを伏せた。
伏せる動きがいつもより乱暴だった。
「……ねえ」
美咲が言う。
結衣はうなずく。
「うん」
「今日さ」
美咲の声が少しだけ低くなる。
「会って別れた」
結衣の胸の中で何かが落ちる音がした。
重たいものが水の中に沈むみたいな音。
「……そっか」
結衣はそれ以上言えない。
慰めの言葉を探すとどれも軽く見えてしまう。
美咲は笑ってみせた。
でも笑い方がうまくない。
「ね。ウケるよね。会ってさ」
美咲は指でテーブルの縁をなぞった。
「優しかったんだよ。優しかったのにさ」
結衣は美咲の指先を見ていた。
目を合わせると自分も揺れそうだった。
「もう無理って言われた」
美咲は言った。
言い切ったあとに少しだけ黙る。
周りの笑い声がその沈黙を覆ってくれる。
結衣はその騒がしさに救われる。
「理由はって聞いた」
美咲は続けた。
「聞いたけどさ。なんか」
言葉が止まる。
美咲がうまく言えない顔をする。
結衣はそっと言った。
「……つらかったね」
美咲が小さく笑う。
「つらい」
笑いながら息を吐く。
泣くよりそのほうが楽みたいだった。
飲み物が届く。
美咲のレモンサワー。
結衣のジンジャーエール。
結衣はグラスを持って
氷の冷たさで指を落ち着かせた。
美咲がグラスを軽く上げる。
「乾杯しとこ。もう終わった記念」
結衣も上げる。
「……乾杯」
グラスが触れる音は軽い。
軽いのに結衣の胸は重い。
美咲が一口飲んで口元を拭く。
「ねえ。今日ほんと一人無理」
またその言葉。
結衣はうなずいた。
「うん」
「結衣が一緒ならさ。安心する」
美咲の声が少しだけ甘くなる。
結衣はその言い方に弱い。
頼られると自分の居場所ができる。
その居場所が自分をすり減らすことがあると知っていても
頼られた瞬間に体が動いてしまう。
美咲がもう一口飲む。
「褒められたい」
ぽつっと言った。
結衣は聞き返す。
「……褒められたい?」
美咲が笑う。
「そう。なんかさ」
笑いながら目が少し潤む。
「私の何がダメだったか分かんないし」
美咲は笑い声みたいに息を吐いた。
「じゃあさ。褒められたら勝ちじゃん」
結衣は何も言えなかった。
論理が強引ででも分かる。
今夜の美咲は正しさじゃなくて息をする場所が欲しい。
美咲が結衣を見た。
「ねえ。お願い」
声が急にまっすぐになる。
「ちょっとだけ付き合って」
結衣の指先がグラスを強く握った。
「どこに」
「ホスト。ほんとに見るだけ」
美咲はすぐ言う。
「終電で帰る。約束する」
結衣の心臓が
一段うるさくなる。
見るだけ。
終電。
それでも怖い。
「……そういうの慣れてないよ」
結衣は正直に言った。
美咲がすぐにうなずく。
「分かる。だから結衣がいい」
結衣は眉を寄せる。
「それ。理由になってない」
美咲が笑う。
「なる。結衣なら変なことしないし」
結衣はその言葉で逃げ場がなくなる。
変なことしない。
つまり
安全。
安全枠として頼られると
結衣は断りにくい。
「お金も……あんまり」
結衣が言うと美咲がすぐ返した。
「今日は私が出す」
結衣は息を止めた。
「え」
「付き合ってもらう代わり」
美咲は軽く言う。
軽く言うけど目だけは真剣だった。
「お願い。今日だけ」
結衣はごめんと言いかけて口を閉じた。
謝ったら美咲は余計に気を遣う。
結衣は代わりに小さくうなずいた。
「……分かった」
言った瞬間に胸の奥が冷えた。
分かった。
また。
この言葉でいつも自分を縛る。
美咲がほっとした顔をする。
その顔を見ると結衣は否定できなくなる。
美咲がレモンサワーを飲み干して笑った。
「よし。じゃあ行こ」
結衣はジンジャーエールを一口飲んだ。
辛さが喉を通っていく。
刺激だけが現実に戻してくれる。
支払いは美咲がした。
伝票を持つ手が早い。
結衣が財布を出しかけると美咲が首を振った。
「今日は私。ついてきてもらうし」
結衣はありがとうと言った。
ありがとうの声が小さい。
外へ出ると夜風が頬に当たった。
店の匂いが背中から消えて急に世界が広くなる。
美咲は歩き出す。
迷いがない。
結衣は一歩遅れてついていく。
繁華街の光が近づくにつれて人の声が増える。
笑い声。
呼び込みの声。
車の音。
音が重なっていく。
その中に
ふっと混じる匂いがあった。
金木犀。
一瞬だけ。
結衣は足を止めかける。
あの匂いは自分に戻れる合図のはずだった。
でも今日は戻れない。
美咲が振り返る。
「結衣。こっち」
軽く手を振る。
結衣はうなずいて歩き出した。
帰りたくない。
それだけが背中を押している。
角を曲がると派手な看板が並ぶ通りに出た。
文字が光る。
知らない世界の光。
結衣は視線を落とした。見たら引き返せなくなる気がした。
「大丈夫」
美咲が言う。
「見るだけだって」
結衣は返事をしない。返事をしたら本当に大丈夫みたいになるから。
ビルの入口の前で美咲が立ち止まった。
ガラスの扉。
中から漏れる音。
甘い匂い。
結衣の手先が冷える。
息が浅くなる。
鞄の持ち手を握る指が少しだけ震えた。
「身分証いるって」
美咲が言う。
結衣は慌てて鞄を開けた。
いつもは整っている鞄の中が今だけぐちゃっとなる。
財布。
定期。
鍵。
小さなポーチ。
指がうまく動かない。
美咲が笑う。
「平気平気」
笑いながら結衣の手元を覗く。
「結衣ってこういうときだけ焦るよね」
結衣はやっと免許証を見つけた。
カードの角が指に当たって痛い。
「……ごめん」
「謝らなくていいって」
美咲が言う。
その言い方がいつもより優しい。
結衣はその優しさが怖い。
扉の前の光が結衣の頬を白
