その指先が私を壊した

閉店まぎわの信用金庫は、いつもより音がはっきりする。
コピー機の吐き出す紙の擦れる音。
印鑑のふたが閉まる、乾いた音。
誰かがハンドクリームを塗ったのか、消毒液の匂いに甘い香りが混ざって、妙に現実っぽかった。
結衣は机の上の伝票を、端を揃えて重ね直す。
揃っているのに、もう一度だけ指先で角をなぞる。
ちゃんと、まっすぐ。
そうしてからでないと、次へ進めない。
「結衣ってさ、彼氏作らないの? もったいないよ」
後ろから、明るい声が落ちてきた。
振り向くより先に、結衣の口角が勝手に上がる。
笑う癖。
場を丸くする癖。
「え、全然……」
声は出たのに、喉が一瞬、ひりっとした。
「忙しいのに、もったいないって。結衣、真面目すぎー」
「そんなことないよ。私、そういうの向いてないから」
言いながら、結衣は自分の机の端を見ていた。
誰の目も見ないほうが、うまく笑える。
「向いてないって何それ。絶対、向いてるでしょ」
「今は仕事でいっぱいいっぱいだよ。ほんと」
結衣は言い切ってしまったあとで、少しだけ申し訳なくなった。
ただ、これ以上は踏み込まれたくなかった。
だから仕事のせいにした。
周りがふっと笑って、話題は次へ流れていく。
悪意なんて、どこにもない。
だからこそ、胸の奥の小さな傷が、誰にも見つからないまま残る。
結衣は伝票をファイルにしまい、定規でまた、端をそろえた。
仕事の手順は、裏切らない。
決まったことをしているときは呼吸が整う。
「お疲れさまでしたー」
背後の声に合わせて、結衣も同じ温度で返す。
「お疲れさまでした」
最後のチェック印を押し、鞄の持ち手を握る。
手のひらに吸いつくような感触がして、少し落ち着いた。
職場の空気は、軽い。
軽いのに、結衣の胸の中だけが重い。
ゆっくりと重い。
重さの理由を、言葉にしないようにしながら、結衣は更衣室で制服の袖を整えた。
髪を耳にかけ、鏡の中の自分に一度だけ頷く。
ちゃんとしてる。
ちゃんとしてるから、大丈夫。
そのはず。
外へ出ると、夕方の名残りが薄く残っていた。
信金前の横断歩道は、人の流れが途切れない。
結衣はその波に乗る。
駅へ向かう足はいつも同じ道なのに今日は少し遠い。
信号の青がやけに眩しい。
自分の靴音がうるさい。
ホームに降りる階段の途中で結衣はスマホを取り出した。
画面を点けてすぐ消す。
点けて、消す。
誰からも通知は来ていない。
来ていないのに、確かめてしまう。
何かにすがりたいのが、ばれるみたいで嫌だった。
電車が入ってくる。
風がぶわっと押し寄せて、髪が頬に貼りついた。
結衣は一歩下がり、黄色い線の内側に戻る。
きちんと。
危ないことをしない。
そういう子でいないといけない。
なのに、胸の内側は、今日ずっと、落ち着く場所を探している。
彼氏作らないの?
もったいないよ。
その言葉がただの雑談の形をして何度も戻ってくる。
作らないわけじゃない。
作れないわけでも、たぶん、ない。
でも。
結衣は言葉の続きを自分に許さない。
続きを考えたら何かが壊れそうだった。
電車を降りて駅前に出る。
人と店の光で夜がまだ完全じゃないみたいに見える。
結衣は家へ向かう道へ……向かおうとして、足が止まった。
アスファルトの上に立ったまま、しばらく動けない。
誰かにぶつからないように、端へ寄る。
迷惑をかけないように。
いつも、そこだけは守れる。
ふと、スマホが震えた。
画面には、母の名前。
結衣は一瞬だけ出たくないと思った。
思ったのに指が勝手に動く。
出なかったら心配させる。
心配させると、あとがもっと面倒になる。
「もしもし、お母さん?」
声の温度を上げる。
笑っているみたいに。
「結衣? 今大丈夫?」
「うん、大丈夫。どうしたの?」
母の声は明るい。
明るいまま、当たり前の話題を運んでくる。
「今日ね、近所のね、あの子。ほら、同い年くらいの。結婚するんだって」
結衣の胃が、きゅっと縮む。
「へえ……そうなんだ」
「そうそう。式は来年だって。早いよねえ」
早い。
遅い。
それを決めるのは、誰なんだろう。
結衣は答えを探すみたいに、駅前から少し外れた細い路地へ入った。
車の音が遠のき街灯の明かりが足元だけを照らす。
風がビルの間を抜けてきて、少し冷たい。
「結衣もさ」
母が、軽く続ける。
軽いまま、逃げ道を塞ぐ。
「そろそろ考えないとね。仕事だけじゃ、って。ねえ」
考えないと。
結衣の胸の奥で、何かが固くなる。
「うん……」
返事が遅れそうになって、慌てて足す。
「分かってるよ」
分かってる。
それを言えば、母は安心する。
母が安心すれば電話は早く終わる。
結衣の中の計算が、勝手に動く。
「最近どう? 職場は」
「普通だよ」
「疲れてない? ご飯ちゃんと食べてる?」
「うん、大丈夫」
また、大丈夫。
それしか言えない。
母の心配は本物だ。
本物だから断れない。
「ねえ、今度さ」
母の声が、少しだけ弾んだ。
そこが一番怖い。
「会わせたい人がいるの。顔だけでもいいから。結衣、こういうの嫌がると思うけど、でもね……」
嫌がる。
その通りだ。
でも、嫌だと言ってしまったら、空気が変わる。
空気が変わったら、母は傷つく。
母が傷ついたら、結衣はもっと悪い子になる。
「……うん」
喉が乾いて、声が細くなる。
「忙しいから、すぐは難しいけど」
断ってない。
逃げ道だけ作ってる。
「忙しいのは分かるけど、時間は作らないとだめだよ。結衣、真面目だからさ。気づいたらってことあるから」
結衣は目を閉じた。
街灯の光がまぶたの裏に赤く滲む。
真面目。
また、その言葉。
今日、何回目だろう。
真面目は褒め言葉なのにどうしてこんなに息が詰まるんだろう。
「……うん、分かった」
分かった。
母が欲しいのはこの言葉だ。
「じゃあ、また連絡するね。無理しないで。寒いから、早く帰りなさいよ」
「うん。気をつけて帰る」
電話が切れる。
切れた瞬間路地の空気が急に重くなった。
結衣はスマホを握りしめたままその場に立ち尽くす。
息を吸おうとして吸えない。
胸が薄い板みたいになって肺が動かない。
深呼吸をしようと頭では思う。
でも体が言うことをきかない。
誰にも見られていないのに泣くのは恥ずかしい。
恥ずかしいから泣けない。
結衣は小さく息を吐いた。
一回。
二回。
それでも足が動かない。
家に帰れば静かだ。
静かな部屋で今日の言葉が全部、壁に反響するのが想像できる。
彼氏作らないの?
もったいないよ。
そろそろ考えないとね。
会わせたい人がいるの。
結衣の中でひとつの線がぷつっと切れそうになってぎりぎりで繋がる。
いつもの自分にしがみつけているから、まだ笑える。
しがみつけているうちは、まだ大丈夫と言える。
でもそれは細い糸みたいで。
風が吹いたら切れる。
ふと風向きが変わった。
路地の奥から、甘い匂いが流れてくる。
強くはない。
ほんの少しだけ。
金木犀。
結衣は、息を止めた。
小さい頃実家の近くに一本だけあった。
秋になると帰り道に匂いがして。
誰もいない道なのに、急に世界がやさしく見えた。
――やさしい匂い。
そのはずなのに。
今は胸の奥が痛くなるだけだった。
匂いが、思い出を連れてくる。
思い出は結衣を救うより先に孤独を連れてくる。
結衣は自分の腕を抱く。
薄いコート越しに冷たい腕の感触が返ってきた。
誰かの体温が恋しいとは言わない。
言ったら欲しいものが大きくなってしまう。
結衣は路地の曲がり角へ視線を向けた。
そこから先は駅前のメイン通りに繋がっている。
光が強い。
人の声がする。
行けば何かが紛れる気がした。
でも、行ったところで結衣の中身は空っぽのままだ。
足元の小さな水たまり街灯が揺れている。
結衣は一歩だけ前へ出てまた止まった。
このまま家へ帰る。
帰って、ちゃんとご飯を食べる。
お風呂に入って寝る。
当たり前のことを当たり前にする。
それができる子でいたい。
なのに、体が拒む。
帰りたくない。
帰ったらまた大丈夫と言ってしまう。
大丈夫と言い続けていつか本当に自分が何も感じなくなる気がする。
結衣は喉の奥を押さえた。
こらえるように。
声にならないものを飲み込むように。
曲がり角の向こうから笑い声が一瞬だけ聞こえた。
甘い香水とタバコと夜の匂いが混ざった風が流れてくる。
見上げると遠くのビルの壁に派手な看板が光っていた。
知らない言葉の並び。
きらきらした文字。
その下に黒い影みたいな人影がいくつか揺れている。
結衣はすぐ目を逸らした。
あそこは、自分の世界じゃない。
そう言い切りたいのに足が完全には離れなかった。
金木犀の匂いがまた少しだけ強くなる。
結衣はスマホの画面を点ける。
通知はない。
誰からも来ていない。
来ていないのに画面を見つめてしまう自分がいる。
結衣はゆっくり画面を消して胸の前でスマホを抱えた。
冷たい板が心臓の位置に当たって少しだけ落ち着く。
……帰ろう。
帰る。
そう決めたのに声に出せない。
決意が薄い霧みたいで口にした瞬間に消えそうだった。
結衣はもう一度だけ看板の光を見てしまいそうになるのを堪えて、踵を返した。
そのまままっすぐ歩けない。
歩けないからゆっくり歩く。
ゆっくりでも前へ。
金木犀の匂いが背中を追ってきて結衣はそれを追い返すみたいに息を吐いた。
夜はまだ終わっていない。