「ねぇ月子、一年生の子が呼んでるよ」
午後の授業の休み時間に、同級生に知らされ廊下を見ると。
そこにいたのは、千雪だった。
「……問題ないわね。よくできているわ」
「あ、ありがとうございます」
授業中の『内職』の成果を持参したその子は。
律儀にわたしに、お辞儀をする。
「あ、あの……」
ただ、特に急がせたわけでもない書類をわざわざ三階まで渡しにきたのは。
きっと『玲香のこと』……なのだろう。
「自分で確かめなさい」
わたしはそういって、玲香の座る席へと視線を送る。
妙な話しだが、あの子はいま『二年生部員全員』の公欠を賭けて。
その代表としてプリントの山に挑んでいる最中で。
休み時間も返上し、ひとりで机に向かっている。
「順調そうですね、さすがです」
千雪は感心したような声をあげると。
「海原君より、早く終わりそうですね」
わたしが聞いてもいないのに。
あえて……追加の情報を口にする。
「では、海原君をチェックしてから戻ります」
一年一組への近道となる、非常階段の扉を開けながら。
千雪はもう一度彼の名前を口にすると。
軽い足音を響かせながら、足早に一階へと降りていく。
「……いま、千雪がいた?」
自分の机に戻ると、目線をプリントに置いたまま。
玲香がわたしに、聞いてくる。
「いたわよ、すぐに戻ったけれど」
「……そう」
「海原くんより、あなたのほうが早く終わりそうだといっていたわ」
「……そっか。昴君も頑張ってるんだね」
その、そっけないいいかたに。
わたしは若干の違和感を覚えながら、玲香をチラリと見る。
「月子、どうかした?」
「なにもないわよ、早く終わらせなさい」
「いわれなくても、ちゃんとやるから」
集中しだした彼女は結局。
次の授業に入っても、ひたすらプリントを解き続けていて。
「ではここを赤根……は無理そうだな」
おかげでわたしが、玲香のものも含めて。
ふたり分の漢詩を、板書する羽目になった。
……千雪もきっと、『放送部員』なんだよね。
迷いのない美しい字で黒板に向かっている、親友のうしろ姿を眺めながら。
わたしは先ほど、気づいていないフリをしてやり過ごした。
月子と千雪がいた場面について、思いを巡らせている。
ふたりの表情というか、雰囲気には。
やや緊張感のようなものが漂っていた。
絶対めいた確証だけが、どうしてもないものの。
わたしの予想はおそらく……正しいのだろう。
昴君をめぐって、『絶妙な均衡』の上にあったわたしたちの関係は。
謝恩会のあと、美也ちゃんの進学によって。
きっとなにかが……動き出す。
「まぁ、それも楽しいんだよね?」
これは……ただの。
心の中の、ひとりごと。
だがその『解』は、いったいなんなのだろう?
いやせめて。
自分の『最適解』は、どこにあるのだろう……?
「玲香、次はふたり分解きなさい」
気がつくと、月子の声がして。
「チョークがついたので、洗ってくると伝えておいて」
女王様然と告げて、歩きだす。
漢文の先生は、そんなあの子にとっくに慣れっこで。
わたしがあえて『解説』をする必要などなく。
ただ苦笑いをしながら、その姿を見送っている。
……月子は本当に、わがままだ。
「解き終わったプリント、貸しなさい」
次の休み時間、ご機嫌斜めな女王様は。
「あなたの間違え、見つけてあげる」
上から目線で、『手伝いたい』と告げてくる。
「わたしが『解け』と、指名されたはずだけど?」
「そうね、玲香は早く『解き』なさい」
独自というか、面倒くさい解釈をする親友は。
「そうしたら、わたしがバツをつけてあげるわよ」
どこまでもややこしいことを……平気でいう。
「ちょっと千雪につつかれただけなのに、余裕ないんだね」
「なんですって?」
わたしは、驚くときの月子のその顔が大好きだ。
「なにをいっているの、玲香?」
「さぁねー」
「ちょっと玲香、どういうことかしら?」
「さぁ、なんだろうねー」
大切なことに真剣で。
大切なひとにどこまでも一途な月子が、大好きだ。
だから、だからこそわたしは。
……あなたに昴君を、『譲らない』。
「……あれ、千雪?」
休み時間になり、わたしが一年一組に近づくと。
廊下でおしゃべりをしていた女子たちが。
「どうした?」
「千雪、大丈夫?」
やや驚いた顔で、聞いてくる。
心当たりがなくて、返事ができなかったわたしに。
「とりあえず、見てみなよ」
最近彼氏ができたと、前髪をいままで以上に気にするようになった子が。
手鏡をサッと、寄せてくる。
「ほら……ちょっと、赤くない?」
その表情がまるで、好きな人と話してきたのかと問いたげだけれど。
「三階まで走ったからかな?」
「三階って、二年生の教室?」
「うん、先輩に書類渡してきた」
わたしの返事に、あきらかにがっかりしたような顔になる。
「それって放送部の人……だよね?」
「そうだけど?」
「なんだぁ〜、ただの女子かぁ〜」
どうやら当てが外れたと思ったその子は。
「じゃぁ、ただの運動不足?」
それはそれで、飛躍しすぎなことを口にする。
……すべては、『前の休み時間』のことだけど。わたしは、嘘はついていない。
走ったのも本当で、書類を渡してきたのも事実。
話した先輩は女子で、『好きな人』ではあるけれど。
その好きは……いわゆる『好き』とは別物だ。
小さな疑惑から解放されたわたしは。
そのまま一組の教室へと入っていく。
「市野さん、どうかした?」
ちょうどプリントを一枚仕上げたらしいその彼に。
「ごめん! 邪魔した?」
わたしは慌てて謝るけれど。
「別に、顔をあげたのは僕だから」
海原君は……気にしていないと答えてくれる。
「高嶺に、用事?」
すると君はすぐに。
中学の頃から、四年間もずっと。
隣の席にいるという……由衣のことをいうけれど。
「あ、急ぎじゃなかったから平気」
「そうなの?」
「うん、二年一組に書類を届けてきたっていう報告だけ」
わたしはただ、君のようすを見にきたのだとは。
素直には……まだいえない。
……わたしはひとり、違うクラスだから。
なにかの用事を、無理やりつなげてつないで。
それからようやく……この場所にくるんだよね。
ただ、休み時間は短いから。
「あ、はじまるね」
わたしはそういって、海原君の教室から離れていく。
「あれ、千雪?」
「あっ、由衣。またあとでね!」
廊下ですれ違った彼女は。
あと五秒もあれば、一組の教室の領域に入るところで。
いや、むしろその五秒を数え終えるまでもなく。
「こら海原、サボるな!」
あかるくて、楽しそうな声が……聞こえてくる。
滑り込みで戻った、自分の教室で。
わたしは急いで、教科書やノートの準備をする。
それから、わたしは壁にかかった時計を見ると。
部活がはじまる、放課後への残り時間をひとり。
心の中で……カウントしはじめた。

