宝泉寺から左大臣家の屋敷、通称常盤院に帰る間際、お祖母様からある物を渡された。
「千景がいきなり、入内を了承したら、最初は喜ぶと思うけれど、後々不審に感じるでしょう?」
「そうですね。承香殿女御様が入内した時、お父様と口論になりましたから」
先に右大臣家の姫が入内した、という事実が気に食わなかったのだ。私も前向きであったのならば、承香殿女御よりも先に入内できていたというのに、と毎日のように恨み節を聞かされたから、嫌でも覚えている。
それでも私は頑なに首を縦に振らなかった。理由は惟久様だけど、一番はお父様の発言。
『これではなんのために、宝泉寺に通わせていたのか、分からぬではないか』
これに尽きるだろう。夢物語のように、帝に恋をして嫁ぐ。そんな親の期待とは裏腹に、私は惟久様に恋をした。同じ幼なじみである帝ではなく。
私も我が強いから、つい言い返してしまったのよね。『だったら今すぐその宝泉寺に行って、尼になってきます!』と。そしたら、丸二年。常盤院から出ることも、誰かに会うこともできなかったのよね。
さすがに可哀想だと思ったお祖母様が、紅葉を見にいらっしゃいとお声をかけてくれたお陰で、年に一度は外出できたけれど。
それほどに、お祖母様はお父様の信頼を得ていたのだ。今日の外出もそれ故である。
「お祖母様が口添えしてくだされば、お父様もすぐに動いてくださるでしょう。私の入内を……ずっと願っていましたから」
「……結果的に、意に沿う形になったのは、嫌だった?」
「いいえ。私は入内しますが、お父様の意に沿うわけではありませんから。そうでしょう、お祖母様」
「……えぇ。それに、それだけ気が強ければ、入内しても大丈夫そうね」
はい、任せてください、という言葉を呑み込んだ。いくら強い後ろ盾があろうと、私は一人の人間だ。立ち向かっていくのも、攻撃を受けるのもまた、一人。
左大臣家にいるのとは比べ物にならないほどの好奇心と悪意に晒されるのだ。
それは身分が低くても同じか。
私はお祖母様からお父様宛の文を受け取り、宝泉寺を後にした。幼い頃の綺麗な思い出が穢された尼寺。再び足を踏み入れる時は、落飾する時だろうか、と思いながら牛車に乗った。
***
それから入内まで、あっという間に時が流れた。お祖母様の文をお父様に届けたのが、まるで昨日のことのように感じてしまう。それだけ、いつでも入内する準備ができていたのだろう。
いや、私の気が変わることを恐れていた、という線もある。私の返事とお祖母様の文だけでもまだ、信用し切れなかったらしい。お父様の心配も分かるけれど、そのあまりの早さに、思わず呆れてしまったほどだった。
そして今日。私を乗せた入内車は常盤院を出て、後宮へと入った。それも弘徽殿に。
「右大臣家の姫が承香殿に入られたのですから、千景様が弘徽殿に入らずに、誰が入るというのですか?」
私の入内と共に、小侍従と名を変えた芹が、局に入って来るなり、そう言い放った。長年仕えてくれているだけあって、何も言わなくても私の気持ちを察してくれているのだ。
小侍従本人は、左大臣家から連れて来た女房達と、新しく迎い入れた女房達に指示を出すなど、本当は疲れているはずなのに。私へのお小言を口にできる元気があろうとは。
それだけ小侍従が優秀なのを見込んで、私付きの女房にしていたのだろう。
「さすがは抜け目のないお父様だこと。あまりの早さで、私がどこの殿舎に入るかなんて事前に知らせる時間などなかった、とでも言いそうね」
「おそらくそのような愚痴を聞かされるのかと思ってか、左大臣様はこちらには来られない、とおっしゃっておりました。それを聞いた女房達も、素直に下がっています。さぁ、存分に愚痴を言ってくださいませ」
胸を叩き、そう主張するが、かえって言い辛い状況にされてしまった。けれど納得した、と思われるのも癪である。
「……芹、いえ小侍従だって知っているでしょう? 弘徽殿に入った、ということがどういうことなのかを」
「一番格式が高いですからね。より中宮に近い方が入られる殿舎です」
「そう、なのよね」
「千景様にそのような意志がないことは、重々承知しております。ですがここは、左大臣様が目を光らせ、空けて置いた殿舎なのです。だから……」
「分かったわ。お母様から私にそう伝えてくれ、と言われたのよね」
これほどまでに早い入内支度と後宮入り。事前に押さえていなければ、不可能なことである。もしかしたら、私の意思など関係なく、行き遅れになる前には無理やり入内させようとしていたのかもしれない。
「ともあれ、ここは清涼殿に近い。惟久様が影武者になられなくても、連絡は取り易いはずよ。問題は淑景舎ね。弘徽殿から遠いのが難点だわ」
淑景舎は別名、桐壺といい、失踪した桐壺女御様がお過ごしになられていた場所だ。私がいる弘徽殿は後宮の中でも中央に位置しているが、どちらかというと、西側にある。けれど淑景舎は、東の外れにあるのだ。
さらに問題なのは、承香殿が近くにあるということ。淑景舎で桐壺女御様のことを調べに行く前に、承香殿女御またはそのお付の女房達に見つかる恐れがあった。
「せめて麗景殿だったら、調べやすかったものを」
「麗景殿は承香殿よりも格が下がるのですよ。そのようなところに千景様を、なんて私も嫌です」
「だけど、私には入内した目的があるのよ」
「分かっております。まずは先に失踪した桐壺女御様をお調べになるのですよね」
「えぇ。もしかしたら、帝も関わっているかもしれないから」
今、共にいるのか、それとも別々にいるのか。なぜ失踪したのか。行方を晦ます必要まであったのか。
外の情報は惟久様が集めてくれるだろう。私に出来るのは、後宮内での情報収集なのだが、女御という立場は不便で、小侍従たち女房のように気軽に動き回ることができない。だからまず、小侍従に頑張ってもらわなくてはならなかった。
「頼むわね」
「お任せください。入内した後悔をさせない働きを、ご覧いただきたいと思います」
小侍従の意気込みは嬉しかったが、なんだろう。思わず後ろめたいような気分になった。
「千景がいきなり、入内を了承したら、最初は喜ぶと思うけれど、後々不審に感じるでしょう?」
「そうですね。承香殿女御様が入内した時、お父様と口論になりましたから」
先に右大臣家の姫が入内した、という事実が気に食わなかったのだ。私も前向きであったのならば、承香殿女御よりも先に入内できていたというのに、と毎日のように恨み節を聞かされたから、嫌でも覚えている。
それでも私は頑なに首を縦に振らなかった。理由は惟久様だけど、一番はお父様の発言。
『これではなんのために、宝泉寺に通わせていたのか、分からぬではないか』
これに尽きるだろう。夢物語のように、帝に恋をして嫁ぐ。そんな親の期待とは裏腹に、私は惟久様に恋をした。同じ幼なじみである帝ではなく。
私も我が強いから、つい言い返してしまったのよね。『だったら今すぐその宝泉寺に行って、尼になってきます!』と。そしたら、丸二年。常盤院から出ることも、誰かに会うこともできなかったのよね。
さすがに可哀想だと思ったお祖母様が、紅葉を見にいらっしゃいとお声をかけてくれたお陰で、年に一度は外出できたけれど。
それほどに、お祖母様はお父様の信頼を得ていたのだ。今日の外出もそれ故である。
「お祖母様が口添えしてくだされば、お父様もすぐに動いてくださるでしょう。私の入内を……ずっと願っていましたから」
「……結果的に、意に沿う形になったのは、嫌だった?」
「いいえ。私は入内しますが、お父様の意に沿うわけではありませんから。そうでしょう、お祖母様」
「……えぇ。それに、それだけ気が強ければ、入内しても大丈夫そうね」
はい、任せてください、という言葉を呑み込んだ。いくら強い後ろ盾があろうと、私は一人の人間だ。立ち向かっていくのも、攻撃を受けるのもまた、一人。
左大臣家にいるのとは比べ物にならないほどの好奇心と悪意に晒されるのだ。
それは身分が低くても同じか。
私はお祖母様からお父様宛の文を受け取り、宝泉寺を後にした。幼い頃の綺麗な思い出が穢された尼寺。再び足を踏み入れる時は、落飾する時だろうか、と思いながら牛車に乗った。
***
それから入内まで、あっという間に時が流れた。お祖母様の文をお父様に届けたのが、まるで昨日のことのように感じてしまう。それだけ、いつでも入内する準備ができていたのだろう。
いや、私の気が変わることを恐れていた、という線もある。私の返事とお祖母様の文だけでもまだ、信用し切れなかったらしい。お父様の心配も分かるけれど、そのあまりの早さに、思わず呆れてしまったほどだった。
そして今日。私を乗せた入内車は常盤院を出て、後宮へと入った。それも弘徽殿に。
「右大臣家の姫が承香殿に入られたのですから、千景様が弘徽殿に入らずに、誰が入るというのですか?」
私の入内と共に、小侍従と名を変えた芹が、局に入って来るなり、そう言い放った。長年仕えてくれているだけあって、何も言わなくても私の気持ちを察してくれているのだ。
小侍従本人は、左大臣家から連れて来た女房達と、新しく迎い入れた女房達に指示を出すなど、本当は疲れているはずなのに。私へのお小言を口にできる元気があろうとは。
それだけ小侍従が優秀なのを見込んで、私付きの女房にしていたのだろう。
「さすがは抜け目のないお父様だこと。あまりの早さで、私がどこの殿舎に入るかなんて事前に知らせる時間などなかった、とでも言いそうね」
「おそらくそのような愚痴を聞かされるのかと思ってか、左大臣様はこちらには来られない、とおっしゃっておりました。それを聞いた女房達も、素直に下がっています。さぁ、存分に愚痴を言ってくださいませ」
胸を叩き、そう主張するが、かえって言い辛い状況にされてしまった。けれど納得した、と思われるのも癪である。
「……芹、いえ小侍従だって知っているでしょう? 弘徽殿に入った、ということがどういうことなのかを」
「一番格式が高いですからね。より中宮に近い方が入られる殿舎です」
「そう、なのよね」
「千景様にそのような意志がないことは、重々承知しております。ですがここは、左大臣様が目を光らせ、空けて置いた殿舎なのです。だから……」
「分かったわ。お母様から私にそう伝えてくれ、と言われたのよね」
これほどまでに早い入内支度と後宮入り。事前に押さえていなければ、不可能なことである。もしかしたら、私の意思など関係なく、行き遅れになる前には無理やり入内させようとしていたのかもしれない。
「ともあれ、ここは清涼殿に近い。惟久様が影武者になられなくても、連絡は取り易いはずよ。問題は淑景舎ね。弘徽殿から遠いのが難点だわ」
淑景舎は別名、桐壺といい、失踪した桐壺女御様がお過ごしになられていた場所だ。私がいる弘徽殿は後宮の中でも中央に位置しているが、どちらかというと、西側にある。けれど淑景舎は、東の外れにあるのだ。
さらに問題なのは、承香殿が近くにあるということ。淑景舎で桐壺女御様のことを調べに行く前に、承香殿女御またはそのお付の女房達に見つかる恐れがあった。
「せめて麗景殿だったら、調べやすかったものを」
「麗景殿は承香殿よりも格が下がるのですよ。そのようなところに千景様を、なんて私も嫌です」
「だけど、私には入内した目的があるのよ」
「分かっております。まずは先に失踪した桐壺女御様をお調べになるのですよね」
「えぇ。もしかしたら、帝も関わっているかもしれないから」
今、共にいるのか、それとも別々にいるのか。なぜ失踪したのか。行方を晦ます必要まであったのか。
外の情報は惟久様が集めてくれるだろう。私に出来るのは、後宮内での情報収集なのだが、女御という立場は不便で、小侍従たち女房のように気軽に動き回ることができない。だからまず、小侍従に頑張ってもらわなくてはならなかった。
「頼むわね」
「お任せください。入内した後悔をさせない働きを、ご覧いただきたいと思います」
小侍従の意気込みは嬉しかったが、なんだろう。思わず後ろめたいような気分になった。



