帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 妻戸が開かれ、心地よい風が御簾を揺らす。その揺れた先では、お祖母様の後を追う小式部尼の姿が見えた。共にいた芹は、というとお祖母様に言われたのか、御簾の中に入り、几帳を簀子縁へ移動させている。さらに御簾を上げたものだから、一気に視界が晴れ、宝泉寺の庭が一望できた。

 さすがお祖母様の局から見える景色。表に置くことはできないから、広い境内は見渡せないが、それでも青々とした紅葉。その下には整えられた垣根が見えた。

 夏になると涼しさを求めて、幼い頃はよく宝泉寺に預けられていた。そこには同じく涼みに来た、東宮(とうぐう)になったばかりの帝と、惟久様がいて、よくあの庭先で遊んだものだ。

「ようやく千景の笑顔が見られた、と思ったら、これはこれは懐かしい景色だね」
「はい。ちょうど秋になる手前ですから、余計に懐かしく感じます」

 惟久様を好きになったのも、この季節だった。芹の計らいで、簀子縁に出ても、几帳が私と惟久様の姿を上手く隠してくれている。

「あの時も、秋になる手前だったかな。千景が境内の隅で、三毛猫の親子を見かけたのは」
「ふふふっ、よく覚えています。私も惟久様もまだ小さな童で、生まれて間もない子猫も一緒に飼いたい、とお祖母様に言って困らせてしまいましたから。今思うと、母猫も含めて四匹飼うのは無理な話だと分かりますが、あの頃は幼すぎて、それが理解できなかったんですよね」
「結局、お祖母様に取り上げられて、千景はしばらく宝泉寺に寄り付かなくなってしまった。それがどれだけ寂しかったか。分かるかい?」
「えっ、でもあの時は帝も……」
「私と帝だけなら、何も宝泉寺で遊ぶ必要はないだろう? 千景がいたから私も帝も……いや、ここまでは言い過ぎたか」

 最後は呟くような小さな声だったけれど、それを拾えるほど私は惟久様の近くにいた。

 帝も、というのは気になったが、それよりも私のために宝泉寺に来ていたという事実が嬉し過ぎて、胸がいっぱいになった。

 惟久様も私と同じで、その頃から想ってくれていたのだと知れたから。入内しなければならない、今の状況がなければ、どれだけ嬉しかったことだろう。
 今だけ。今だけは惟久様と夫婦のように過ごしたい。入内すれば、このような機会は得られないのだから。

「私も始めは嫌でしたが、惟久様とお会いできるのが楽しくて、実は季節関係なく、度々宝泉寺に来ていたんですよ。だから猫を見つけることができた、といいますか」
「私が隠れていると思ったのかい?」
「もしかしたら、私に黙って帝と遊んでいると思ったんです。私と違って、惟久様と帝は連絡を取り合い易いですし、会うのも簡単ではありませんか」

 童とはいえ、左大臣家の一の姫が、そう易々と出歩くことはできないのだ。文を送るにしても、惟久様は親兄弟とは違う。帝なんてさらにだ。当時は東宮であったとしても、また同じ。
 けれど皇家に近い橘家の人間である惟久様は、帝と連絡を取ることなど、口惜しいが、私に文を送ることよりも簡単だった。

「それにその後の猫たちがどのようになったのかも知れば、ますます私が疑うのも無理はないことだと思いますよ?」
「何も猫は愛でるだけではないからね。帝にお願いをして、後宮に置いてもらえないかと頼んだら、快く引き受けてくれたんだ。全部はさすがに千景も寂しがると思って、ひっそりと左大臣家の女房に預けたんだけど……」
「ありがとうございます。今ではあの時の子猫が生んだ猫たちが、我が家を我が物顔で歩いていますわ。皆、可愛がるから」

 母猫は残った子猫と共に、この宝泉寺にいる。あれから数年経ったから、今は亡くなっているのかもしれないが、ここでも度々猫の姿を見かけることがある。
 おそらく我が家と同じで、残った子猫が生んだ猫なのかもしれない。そう思うと、境内を散策したくなった。

「惟久様のところにも、猫はいらっしゃるのですか?」

 ふと、そんな質問をした時、しまったと思った。咄嗟に袖で口元を隠すも後の祭り。
 惟久様は普段、諸国を回っているため、屋敷は形だけのもの。いつでも惟久様が帰って来られるように、と常に綺麗な状態にしている、と聞いたことがあった。けれどそのような屋敷に猫を置いておくとは思えない。

 鼠退治のためなら分かるけれど、それ以外の世話だって必要だもの。

「すみません。私が軽率でした」
「いや。だけどあの時の子猫は後宮にもいるからね。帝への報告を済ませた後に、度々様子を見に行ったことはあるよ」
「まぁ! では今も後宮に?」
「帝が可愛がっていた猫もいたから、一匹お譲り願えないか、と聞いてみるのもいいかもしれないね。女房達に頼んで、帝から賜ったと噂を流せば、不在という疑念も、少しは和らぐのではないだろうか」
「さすが、惟久様。名案ですわ。私もあの時の子猫の生んだ猫だと思えば、気分も晴れると思いますし」

 先ほどお祖母様がおっしゃったように、後宮にいる女房達も私を警戒しているに違いない。帝不在の噂が払拭する材料を早々に掲示すれば、そこもまた和らぐだろう。

 そう思った途端、さらに道が開けたような気がした。すると惟久様が、優しく私を抱き寄せる。

「これから千景は、さらに噂を払拭するために、矢面に立たなければならない。猫以外にも、千景の負担を軽くする術を考えておくよ」
「ありがとうございます。ですが、惟久様は――……」
「影武者は最終手段だ。私は帝の影ではないからね」
「それはどういう……」

 ことでしょうか、と聞く前に口を塞がれた。いくら周りに人の目がないとはいえ、簀子縁で……。

「千景もまた、帝のものではない。私のものだ。そうだろう?」
「はい。私は惟久様のものですわ」

 幼い頃からずっと。私の心は惟久様のもの。入内しても、それは変わらない。