「でも残念ね。お前たちの望み通りにはならなそうよ」
「な、なぜですか!? 私は賭けに勝ったはずです。だから千景の入内は――……」
「今の状況では、むしろそれが好都合になってしまったのよ、惟久。もう諦めなさい」
どういうこと? お祖母様の言う今の状況というのは、私と惟久様との関係? いや、それは賭けの対象であったのだから違うだろう。それならば……。
「話が違います! もしや騙したのですか!?」
「惟久様。落ち着いてください。お祖母様の話をもっとよく――……」
「何を呑気なことを言っているのだ、千景は。このまま入内してもいいのか?」
いつもとは違う惟久様の気迫に、思わず怯みそうになった。けれど私にも言い分はある。
「入内するつもりでいたら、ここには来ていませんし、昨夜、惟久様を招いてなどいません! それよりもお祖母様の話を聞いてください、と言っているのです」
「そんな呑気なことができると思うのか? 賭けと称して私を騙したのだぞ」
「本当に惟久様は騙されたのでしょうか。もっとよくお祖母様の言葉の意味を考えてみてください。今の状況が好都合だといったのは、帝が不在である理由と、何か関係しているのではありませんか?」
「まぁ、どうやら千景の方が冷静だったようね」
私と惟久様とのやり取りに、あえて加わらずに見ていたお祖母様が、静かに微笑んだ。けれどその眼差しは柔らかいものではなく、逆に私たちを見定めているかのようだった。
「今、都で噂になっていることは本当のことよ。先日、後宮の中でも帝の世話をしている女房が、血相を変えてここ、宝泉寺にやって来たのだから」
「血相って、まさか帝が突然消えた、とでもおっしゃるのですか?」
「いいえ。だけど文だけが残っていてね。一応、無責任なことはしなかったみたいだけど。それでも周りを驚かせたことには変わらないわ。私にわざわざ、その後の対応を相談しに来たほどなのだから」
本来ならもっと適した方、たとえば蔵人頭様のような方に相談するのが妥当だろう。けれど女房は、お祖母様の元を尋ねた。
前々帝の妹であり、帝の祖母とはいえ、お祖母様は後宮に住んでいるわけではない。蔵人頭様に相談しても埒が明かなかったのだろうか。それともお祖母様に助言を得に行くように言われたのか。どちらにせよ、後宮内で解決する様な案件ではなかった、ということは確かだった。
「それと千景の入内話が、どう繋がるというのですか?」
「惟久。おまえにとっても、帝はいとこに当たるのよ。少しはそちらの心配もしなさい」
「そんなわけには……いえ、そうですね。文にはなんと書かれていたのですか?」
ようやく惟久様も聞く耳を持ってくれたらしい。私は安堵しつつ、お祖母様に視線を向けた。
「『しばらく一人になりたい』とだけ」
「……帝が一人になりたいなどと」
そんなこと、できるはずがない。私でさえ、常に芹が傍にいる状態だというのに。
特に近年は入内話が上がっていたこともあり、私の周辺はどこかピリピリしていることが多かった。芹が配慮してくれなかったら、一人でいる時間も取れなかったことだろう。
帝ともなれば、女房だけでなく、お付の者が常に傍にいて、補佐されるお立場である。こんな表現はしたくないが、ご自分の時間すら取れない身だと聞く。
執務のこともそうだが、先に入内している女御様が、すでにお二人もいらっしゃるのだ。お優しい帝のことだから、分け隔てなく通っていらっしゃるのだろう。そう考えただけで、一人になることなど、不可能に近かった。
「しかし現に帝は後宮どころか、都にもいない」
「どこに行ったのか、も書かれていなかったのですか?」
「えぇ。書いてあったのなら、すぐに連れ戻しに行っていたでしょうね。だから私の元を訪ねたのかもしれないわ。ここは尼寺だけど、私の身内であれば、男性でも入れるからね」
惟久様が堂々とお祖母様の局にいるのは、それが理由だ。
「けれど帝は、ここにも現れなかった、というわけですか」
「そうよ。惟久も、それが理由で真っ先に私の元へやってきたのでしょうけれど、皆、無駄足だったというわけ」
「いえ、私は少なくとも噂の真相を聞けたわけですし、お祖母様と賭けをすることもできました。まったくの無駄ではなかったと思っていたところに、なぜ私が千景を諦めなければならないのですか?」
「本当に帝が都にいない、という事実を隠すためには、千景の入内は必須なのよ」
「ど、どうしてですか?」
お祖母様の言い分が理解できないほど、もう子どもではない。けれど納得できないことがあった。
「正直に帝が都にいないことを、世間に公表すればいいことではありませんか。どうしてそれが私の入内に繋がるのですか?」
「それは帝が失踪する、ほんの少し前に、とある女御も後宮から姿を消しているのよ」
「……まさか、いや、でも」
「おそらく今、千景が想像したことではないでしょうね。文には『しばらく一人になりたい』とあったのだから」
「そう、ですね」
一瞬、共に失踪したのかと思ってしまった。けれどすでに入内しているのだから、駆け落ちという線は考え辛い。ならば、先に女御様が後宮から出て、後から落ち合う手筈とか……いや、それにどんなメリットがあるというのだろうか。
「よろしければ、どちらの女御様が失踪されたのでしょうか?」
「それは私が答えよう。桐壺女御様だ」
確か、今は亡き白梅中納言様の娘で、前帝のご兄弟であられる八の宮様と旧知の中だったという。その八の宮様が後ろ盾となり、入内したのだと聞いた。
私と同じで、桐壺女御様はあまり乗り気ではなかった、という話だけど……それも仕方がないことだ。その前に入内していたのが、我が左大臣家と対立している右大臣家の姫なのだから。
今は承香殿女御様、だっけ? 気位が高い方だと伺っているから、桐壺女御様もさぞ大変だったのではないだろうか。
「密かに桐壺女御様を探すように、と帝から連絡を受けたから都に戻ったというのに、肝心の帝がいらっしゃらない」
「つまり、帝が不在であることを明かせば、桐壺女御の不在も明らかになり、今の千景のようにあらぬ憶測を呼ぶことになるでしょう」
そうだ。そうなれば、桐壺女御様に対しても、どんな憶測と中傷が広まることか。お祖母様も、後宮にいる者たちも、それを最小限に抑えておきたかったことが十分に伝わってくる。
「けれど、それと私の入内がどう関わってくるのですか?」
いまいちそこがよく分からなかった。
「な、なぜですか!? 私は賭けに勝ったはずです。だから千景の入内は――……」
「今の状況では、むしろそれが好都合になってしまったのよ、惟久。もう諦めなさい」
どういうこと? お祖母様の言う今の状況というのは、私と惟久様との関係? いや、それは賭けの対象であったのだから違うだろう。それならば……。
「話が違います! もしや騙したのですか!?」
「惟久様。落ち着いてください。お祖母様の話をもっとよく――……」
「何を呑気なことを言っているのだ、千景は。このまま入内してもいいのか?」
いつもとは違う惟久様の気迫に、思わず怯みそうになった。けれど私にも言い分はある。
「入内するつもりでいたら、ここには来ていませんし、昨夜、惟久様を招いてなどいません! それよりもお祖母様の話を聞いてください、と言っているのです」
「そんな呑気なことができると思うのか? 賭けと称して私を騙したのだぞ」
「本当に惟久様は騙されたのでしょうか。もっとよくお祖母様の言葉の意味を考えてみてください。今の状況が好都合だといったのは、帝が不在である理由と、何か関係しているのではありませんか?」
「まぁ、どうやら千景の方が冷静だったようね」
私と惟久様とのやり取りに、あえて加わらずに見ていたお祖母様が、静かに微笑んだ。けれどその眼差しは柔らかいものではなく、逆に私たちを見定めているかのようだった。
「今、都で噂になっていることは本当のことよ。先日、後宮の中でも帝の世話をしている女房が、血相を変えてここ、宝泉寺にやって来たのだから」
「血相って、まさか帝が突然消えた、とでもおっしゃるのですか?」
「いいえ。だけど文だけが残っていてね。一応、無責任なことはしなかったみたいだけど。それでも周りを驚かせたことには変わらないわ。私にわざわざ、その後の対応を相談しに来たほどなのだから」
本来ならもっと適した方、たとえば蔵人頭様のような方に相談するのが妥当だろう。けれど女房は、お祖母様の元を尋ねた。
前々帝の妹であり、帝の祖母とはいえ、お祖母様は後宮に住んでいるわけではない。蔵人頭様に相談しても埒が明かなかったのだろうか。それともお祖母様に助言を得に行くように言われたのか。どちらにせよ、後宮内で解決する様な案件ではなかった、ということは確かだった。
「それと千景の入内話が、どう繋がるというのですか?」
「惟久。おまえにとっても、帝はいとこに当たるのよ。少しはそちらの心配もしなさい」
「そんなわけには……いえ、そうですね。文にはなんと書かれていたのですか?」
ようやく惟久様も聞く耳を持ってくれたらしい。私は安堵しつつ、お祖母様に視線を向けた。
「『しばらく一人になりたい』とだけ」
「……帝が一人になりたいなどと」
そんなこと、できるはずがない。私でさえ、常に芹が傍にいる状態だというのに。
特に近年は入内話が上がっていたこともあり、私の周辺はどこかピリピリしていることが多かった。芹が配慮してくれなかったら、一人でいる時間も取れなかったことだろう。
帝ともなれば、女房だけでなく、お付の者が常に傍にいて、補佐されるお立場である。こんな表現はしたくないが、ご自分の時間すら取れない身だと聞く。
執務のこともそうだが、先に入内している女御様が、すでにお二人もいらっしゃるのだ。お優しい帝のことだから、分け隔てなく通っていらっしゃるのだろう。そう考えただけで、一人になることなど、不可能に近かった。
「しかし現に帝は後宮どころか、都にもいない」
「どこに行ったのか、も書かれていなかったのですか?」
「えぇ。書いてあったのなら、すぐに連れ戻しに行っていたでしょうね。だから私の元を訪ねたのかもしれないわ。ここは尼寺だけど、私の身内であれば、男性でも入れるからね」
惟久様が堂々とお祖母様の局にいるのは、それが理由だ。
「けれど帝は、ここにも現れなかった、というわけですか」
「そうよ。惟久も、それが理由で真っ先に私の元へやってきたのでしょうけれど、皆、無駄足だったというわけ」
「いえ、私は少なくとも噂の真相を聞けたわけですし、お祖母様と賭けをすることもできました。まったくの無駄ではなかったと思っていたところに、なぜ私が千景を諦めなければならないのですか?」
「本当に帝が都にいない、という事実を隠すためには、千景の入内は必須なのよ」
「ど、どうしてですか?」
お祖母様の言い分が理解できないほど、もう子どもではない。けれど納得できないことがあった。
「正直に帝が都にいないことを、世間に公表すればいいことではありませんか。どうしてそれが私の入内に繋がるのですか?」
「それは帝が失踪する、ほんの少し前に、とある女御も後宮から姿を消しているのよ」
「……まさか、いや、でも」
「おそらく今、千景が想像したことではないでしょうね。文には『しばらく一人になりたい』とあったのだから」
「そう、ですね」
一瞬、共に失踪したのかと思ってしまった。けれどすでに入内しているのだから、駆け落ちという線は考え辛い。ならば、先に女御様が後宮から出て、後から落ち合う手筈とか……いや、それにどんなメリットがあるというのだろうか。
「よろしければ、どちらの女御様が失踪されたのでしょうか?」
「それは私が答えよう。桐壺女御様だ」
確か、今は亡き白梅中納言様の娘で、前帝のご兄弟であられる八の宮様と旧知の中だったという。その八の宮様が後ろ盾となり、入内したのだと聞いた。
私と同じで、桐壺女御様はあまり乗り気ではなかった、という話だけど……それも仕方がないことだ。その前に入内していたのが、我が左大臣家と対立している右大臣家の姫なのだから。
今は承香殿女御様、だっけ? 気位が高い方だと伺っているから、桐壺女御様もさぞ大変だったのではないだろうか。
「密かに桐壺女御様を探すように、と帝から連絡を受けたから都に戻ったというのに、肝心の帝がいらっしゃらない」
「つまり、帝が不在であることを明かせば、桐壺女御の不在も明らかになり、今の千景のようにあらぬ憶測を呼ぶことになるでしょう」
そうだ。そうなれば、桐壺女御様に対しても、どんな憶測と中傷が広まることか。お祖母様も、後宮にいる者たちも、それを最小限に抑えておきたかったことが十分に伝わってくる。
「けれど、それと私の入内がどう関わってくるのですか?」
いまいちそこがよく分からなかった。



