帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

「無論、退位するつもりだ」

 帝が冷たく言い放った。まるで他人事のような口振りに、私は戸惑いを隠せず、そのまま疑問を口にした。

「どうしてですか?」
「……何もかも思い通りにならないのであれば、今後の人生は自分のために生きたい、と思ったまでのこと。千景は私がここを去る時に置いていった文の内容を、聞かされてはいないのか?」
「いいえ。一人になりたい、と。そう書かれていたと伺っております」
「そうだ。だが、今は一人にはなれない。先ほど千景に罰を与えたように、もう一人、与える者がいるからな」

 帝が言葉にしなくても分かる。それは……。

「出てきたらどうだ。そこにいるのだろう? 千景にだけ罪を負わせる気か?」

 鈴子を抱いたまま、帝は目を閉じて、静かに言い放つ。振り返らずに、でも確信があるような強い口調で。

「ご冗談を。これでも千景への想いは、帝よりもあると自負しております」
「惟久様……」

 まるで帝の影のように、スッと現れた惟久様。帝の影武者を嫌がる理由が、なんとなく分かったような気がした。

「千景?」
「どうかしたのか?」

 惟久様と帝が同時に首を傾ける。そんな仕草に、余計に見入ってしまった。けれど鈴子が「きゃっきゃっ」と嬉しそうな声を上げたため、我に返る。

「前にお祖母様が、惟久様と帝の背格好が似ている、と言ったことを思い出したのです。帝とは随分とお会いしていませんでしたが、こうしてお二人が並ぶと、その通りだな、と感じてしまって。どうやら鈴子も、同じように思ったのかもしれませんね」
「それは……鈴子が私を惟久だと勘違いしている、ということか? だから大人しくしている、と?」
「まさか。私は未だ、鈴子を抱き上げたことがないのですよ? こうして顔を見たのも、これが二度目です」
「何を言うか。こそこそと常盤院に行っていたのであろう? 二度目などと嘘をつくでない」

 鈴子を抱いているからか、帝は座ったまま、立っている惟久様を見上げる。その光景は、昔、よく見ていた構図だった。

 書物や絵を描くことを好まれた帝を相手に、惟久様は宝泉寺の境内で遊ぼうと誘うのだ。けれど帝は途中でやめることを知らないのか、それとも強情なのか。惟久様を睨みつけ、書物や絵の内容を説明し始めるのだ。

 それで終わるのならいいが、当時はお二人とも幼かったため、惟久様も怒り出し、取っ組み合いの喧嘩に発展することが多かった。すると、今度は私が困ってしまい……「ふえぇぇぇん」と今の鈴子のように泣いてしまったのだ。

 私は立ち上がり、鈴子の頭を優しく撫でる。

「大丈夫よ。お二人の喧嘩は、いつものことだから。鈴子を怒っているわけでもないし、私が怒られているわけでもないのよ。だから安心して」
「す、すまない」
「鈴子は赤ん坊ですが、賢い子です。お二人が喧嘩をやめれば、すぐに泣き止むかと」

 すると、惟久様と帝は顔を合わせ、互いに目を逸らす。

 そんなところまで昔のままでなくてもいいのに、と思わずクスリと笑うと、鈴子もまたパタリと泣き止んだ。

「顔だけでなく、鈴子は中身までも千景に似ておるのだな」
「まさかっ! ただ聞き訳がいいだけです。お陰で手がかからず、皆に好かれています」
「だから常盤院に行っても、鈴子の周りには常に人だかりができていて、近づけなかったのです」
「なるほどな。諸国を回り、あらゆるところに忍び込んでいる惟久をもってしても難しかった、というわけか。私でさえも、可愛いと思えるのだから、無理もない」

 本当に不思議である。先ほどまでは、鈴子の内親王宣言で不安ばかりが募り、帝に掲示された道筋を聞いても拭い去れなかったのに、どういうわけか今は心が穏やかになっていた。

 おそらく懐かしい光景を見たから、というのもあるのだろうが、それを引き起こしたのは鈴子だった。もしかしたら、先ほど掲示された道筋は、本当に鈴子のためを思って言ってくれたのかもしれない。

 私への罰は……鈴子の未来に口出ししないこと。もう鈴子は帝の御子であるため、権限をほぼお渡しすることだったのだ。

 すると、惟久様への罰はなんだろうか。私は元の位置へと戻った。

「そうおっしゃっていただけたのは、私にとっても有り難いことです。鈴子は私達の罪の証ですから」
「だからといって、鈴子を内親王にした以上、私は父親としての責務を果たすつもりだ」
「っ! つまり、私への罰は、鈴子の父という肩書を放棄させることでしょうか」

 そうか。惟久様は名乗ることができないのだ。いや、よくよく考えてみれば、当然のことだった。今だって、惟久様の子だと声を大にして言えないのだから。

「千景と比べると重いと感じることだろう。しかし、惟久は私の間諜であるにもかかわらず、私を裏切った。たばかったのだ。これは重罪であろう?」
「たばかった? それはどういうことでしょうか」
「そうか。千景は知らないのか。まぁ、そうだろうな。桐壺女御は――……」
「帝! これは……私の口から言わせてください」
「いいだろう。しかしそれは後にしてくれ。先に言っておきたいことがあるのでな」

 帝の言葉に、惟久様が私の隣で居住まいを正す。それだけで、緊張感が伝わり、局全体を満たしていく。静かに、次に帝が発する言葉を待ち構えるかのように。そしてゆっくりと告げられた。

「惟久には、鈴子と千景の護衛を任ずる」
「護、衛? それはどういう意味ですか?」
「これまで通り、影となり見守る、という意味だ。間諜の任は解くが、鈴子と千景のためならば、その能力を存分に使ってよい。私と公的に会うことも、私的に会うことも、これまで通り、文一つで構わないと言っているのだ。対象が国から二人になった、と思ってよい」
「そのようなことで、いいのですか?」
「いいも何も、惟久はすでに鈴子の父であることも、千景の夫になることもできないのだ。だが、私が二人にしてやれることは数少ない。それを補え、と言っているだけだ」

 重いようで軽い、罰。私と同じ。

 それが帝の優しさなのかは分からない。逆にその優しさが、私達を苦しめるかもしれない。
 一気に止めを刺さずに、喉に剣を突きつけられたような、この感覚を一生背負えと、言われているような気がした。