帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 帝から「正式な内親王宣言は後ほどする」というお達しを受けて、一同は解散という形で、それぞれの殿舎へと戻っていった。

 その中には当然、尚侍の姿もあるわけだが、やはり腑に落ちない表情をしていた。けれど帝が「私が言えるのはここまでだ」というのであれば、引き下がるしかない。

 なにせ彼女は帝の尚侍だからだ。帝にこれ以上、盾突けば、後宮にいられなくなる。実家に帰れば、様々な憶測が飛び交い、親類にも色々と心無いことを言われてしまう可能性だってあるのだ。
 賢くて自尊心もある彼女のことだから、おそらく耐えられないだろう。だからあえて、帝の言葉に従ったのだ。

 尚侍が承香殿女御のように、浅はかな人間でなくて、本当に良かった。

 なにせ今の私には、帝が鈴の内親王宣言をしたことが気がかりで仕方がなかったからだ。
 その場を立ち去ろうとする帝からは、「まだ聞きたいことがあるのならば、私と共に清涼殿に来るといい。ここは落ち着かないからな」と言われたため、今、私は清涼殿にやって来ていた。

 清涼殿とは帝の私的な殿舎であり、尚侍などの女官達の仕事場でもあった。けれど帝の後を追い、通された局には、仕えている女房達の姿がなかった。

 それでも当然のように上座へ腰を下ろす帝。腕の中には、今も鈴が、いや鈴子が大人しくしていた。まるで人質に取られたような気分だった。

「千景にも、随分と世話をかけたな。尚侍だけでなく、承香殿女御ともあったのであろう?」

 私を弘徽殿女御ではなく、千景と呼ぶ。これは帝が、公的ではなく私的であることを教えてくれているのだ。だから私も女御としてではなく、幼なじみとして応対することにしたかったのだが、すぐに昔のように接することは難しい。惟久様とは違い、帝とは何年も会っていなかったからだ。

「……あるにはありましたが、すべて些細なことです。けれど先ほどは……さすがに堪えました。助けていただき、本当にありがとうございます」
「いや、千景が入内した理由を知りながら、あのような手段を取る者だとは思わなくてな。知っていれば、共に後宮に戻ればよかったと後悔している。そうすれば千景だけでなく、鈴子も怖い思いをしなくて済んだのだからな」

 そう言いながら、鈴子の頭を撫でる。元々、人見知りをしない子だけど、帝に対しては、最初から身を委ねるくらい安らかな顔をしていた。

 純真無垢な赤ん坊だからだろうか。本当に優しい人に対しては、本能でそれを察するらしい。

「鈴子のこともそうですが、私の入内、懐妊、宿下がりなど、たとえ宇治にいたとしても、どのようにそれを知ることができたのでしょうか?」
「宇治にいたのは本当だ。橘家の別荘に身を寄せていたため、千景のことは勿論のこと、後宮のことも惟久を通じて知っていたのだ」
「惟久様がっ!」
「あれは私の間諜でもあるからな」

 帝の口から聞かされる、惟久様の役職に、私はただただ驚くだけだった。けれど帝は私が知っている体で話を進める。

「諸国を回っていることもあってか、惟久は地獄耳なのだ。様々なところに潜り込むのもお手のもの。お陰で、承香殿女御と尚侍が後宮で悪巧みをしているのを聞きつけ、こうして千景と鈴子を助けられたのだから、惟久に感謝しなくてはな。いや、助けてほしいと懇願したのは、惟久だが」
「っ! そのようなことが裏で繰り広げられているなんて露知らず。私は恩知らずなことばかり……本当に申し訳ございません」
「顔を上げてくれ。私は千景を責めているわけではない。逆に鈴子の内親王宣言をしたことを詫びなければな。いや、それで帳消しにしてくれると有り難い」
「帳消しだなんて、そんな!? 帝は何一つ悪いことをしておりません!」

 どうして私を責めないのですか? 入内した身で、帝ではなく惟久様の御子を産んだ私を……。

 すると、「あぅ~」という声が聞こえ、顔を上げる。

「本当に何一つ穢れていないのは鈴子だ。そんな鈴子を内親王にしたのには理由がある。将来、斎宮に任じようと思っているからだ」
「斎、宮……ですか?」
「本来なら卜定(ぼくじょう)で選ばれるが、そこはまぁどうにでもできることだ」
「しかし、鈴子に斎宮は重すぎます!」

 いわば、私と惟久様との罪の子なのだ。そんな神事に纏わる役職になんて、就かせるわけにはいかなかった。

「そうだろうか。鈴子の将来を思えば、それが妥当だと思っている。だから母上も幼名に、鈴とおつけになったのだろう」
「り、理由をお聞かせください」

 あまりのことに頭が作動していないのか、帝と皇太后様の意図が分からなかった。

「私の御子はもう、望めないからだ」
「どうしてですか? 承香殿女御様は無理だとしても、他に入内する者もおりましょう」
「私は惟久と同様、千景しか見ていない。これまでも、これからも」
「で、ですが、私は……」

 帝を受け入れることはできない。すでに後宮に入り、女御という位は賜っていても、戻って来た帝と契りを交わすことはしたくないのだ。

「だから表向きは、私の御子は鈴子のみ。さすれば今後、どうなる? 姫宮を妻に、と望む者たちに囲まれ、何もできなくなってしまう。鈴子の意思などなく、結婚を余儀なくされてしまうこともあるだろう。千景はそれでいいのか?」
「……嫌にございます。鈴子にも、好いた相手と結ばれてほしい。そう願っていますから」
「千景ならそう言うと思っていたのだ。だから斎宮に選び、帰京しても容易に近づけさせないようにしたかった。そして鈴子の意思で、この人だという人物と添い遂げられるように、力を貸したい。千景と桐壺女御を見て、そう思ったのだ」
「帝……」

 鈴子は幸せだ。たとえ俗世から一時離れてしまうが、父ではない方に、父のように慈しまれながら生きることができるのだから。
 
 どちらに転んでも、過酷な未来が待っているのならば、より鈴子のための道を、帝は与えようとしてくれている。そのための内親王宣言であり、斎宮という道を掲示してくれたのだ。

 私にできることはただ一つ。斎宮に選ばれる年齢になった時、鈴子の愚痴、恨み言をすべて受け入れること。共に伊勢に行き、傍で守ることなのだ。これが私に与えられた報い。

「もうそれ以外の道しかない、ということなのですね」
「分かってもらえたのならばよかった。千景の同意なしでは不可能なことだからな」
「そのようなことは……すでに尚侍をはじめとする女房達の前で、内親王宣言をしたのです。たとえ正式なものでなくても、彼女たちにとっては同じこと。よって、鈴子のことは私よりも帝の発言が大きく作用されます」
「どうかな。この私の治世であっても、母上の権限は強い。鈴子が成長するまでは、千景が私の寵妃となり、母上の権限も千景へと移っていくだろう。さらに年月が経てば、誰が後宮を取り仕切っているのか、自ずと分かること。そうなれば、今のように承香殿女御や尚侍とのいざこざも減っていくだろう」
「……けれど鈴子を斎宮にするには、帝は退位しなければなりません。どうなさるおつもりですか?」

 斎宮とは帝に代わり伊勢神宮に仕える未婚の皇女。帝の代が変われば、斎宮もまた任を解かれ、別の皇女が選ばれる。そう、今の斎宮と交代するには、帝も交代する必要があるのだ。

 それはつまり、帝の退位を示している。鈴子のために、自ら帝の地位を降りるというのですか?