弘徽殿は今、尚侍が集めたであろう女房達と、鈴の乳母が呼んできた私の女房達が、御簾越しに睨み合っている。
場違いなのは分かっているが、正直にいうと安堵していた。なぜなら弘徽殿の女房達もまた、尚侍の女房達と同様に、私を軽蔑し、対峙してもおかしくはなかったのだ。けれど皆、私と鈴を守るように、堂々と前方に立っていた。これを嬉しく思わずになんといえようか。
思わず口元を手で隠す。すると小侍従がそっと両肩に触れた。そう、事情を知っているのは小侍従だけだったから、少なくとも味方は一人だけだと思っていたのに。
「ご安心ください、女御様。後宮に戻る際、左大臣様がご説明くださいました。すべて、このようなことが起こるかもしれないことを前提に」
「っ! 皆……ありがとう」
頬に涙が伝うと、鈴がまるで拭いたいのか、手を伸ばす。それが愛おしくて、私は鈴を抱きしめた。
すると「きゃっきゃっ」と嬉しそうな声を出す。私の腕の中にいるとはいえ、この状況で笑うなんて、さすがは惟久様のお子。
頼もしいわ。
けれど鈴は、おそらく大丈夫だと私に伝えたかったのかもしれない。この騒ぎを聞きつけた者が、藤壺の方からやってきたからだ。
局、しかも御簾の内側にいたから、その人物の姿を捉えることができなかった。しかし尚侍の顔が、まるで信じられないものをみるかのような。そう、物の怪でも見たかのような、恐れと驚愕が入り混じった表情をしたのだ。
そして次の瞬間、床にひれ伏す。
「騒がしい音と声がしたが、何があった? 詳細を述べよ」
この後宮で尚侍がひれ伏す相手であり、高圧的な態度をしても非難されない男性。それはただ一人しかいない。
元服なさってから一度もお会いしていないけれど、童の時の面影も感じる……。
「帝……」
それは小さな声だったが、相手にはしっかりと聞こえたらしい。こちらを振り返り、御簾を捲って局に入って来た。
「千景……それに姫宮、いや鈴と母上が名付けたのだったな」
優しい声色は、纏っている直衣の色、そのもの。淡い若草色のように優しく包み込んでくれるようだった。
「いい名をもらったね」
「はい。有り難いことです」
「しかし、あの者達には効力がなかったようだ」
帝の言葉に、思わず体が跳ねた。
「不安だったと思う。こういう事態にしてしまったことも申し訳ない」
「っ! 帝が謝ることではありません。すべては私が。私の我が儘が招いたことです」
「惟久も含めて、後ほどゆっくり話そう。今はこの事態を収めなければ。よいな」
「勿論にございます」
「では、鈴をこちらに。いいか?」
手を差し出されたが、すぐに鈴を渡すことは躊躇われた。帝が何をしようとしているのか、は分かる。しかし鈴を託して大丈夫なのかが不安だった。
腕の中の鈴は、突然現れた帝を前にしても、ぐずる様子はない。まるで自分に危害を加えない人物だと、私に教えてくれているようだった。
無垢な瞳で私と帝を交互に見る。今、帝に鈴を託せば、もう後戻りはできない。いや、鈴を産んだ時点で、もう私の決意は決まっている。
「お願いいたします。どうか、鈴を……助けてください」
そんなことを言えた義理でないことは分かっている。分かっていても、縋るしかなかった。
「……千景。今更だが、私もまた幼き頃から千景が好きだったのだ。鈴はそんな幼き頃の千景に似ている。安心してくれ」
帝は鈴ごと私を抱きしめてくれた。私はただ、若草色の直衣を握るだけで精一杯だった。
体が離れると、帝は鈴を抱えて背を向ける。御簾の向こう側へと行こうしている、その後ろ姿を私は追った。
「先ほど、尚侍が奇妙なことを言っていたな。都にいない者の御子など産むことはできない、と」
近くにいた女房が御簾を上げ、帝が尚侍の前まで歩みを進める。尚侍はずっと頭を垂れているだけで表情までは伺えない。帝は構うことなく、見下ろしたまま言葉を続けた。
「確かに私は都にいなかった。それによって、尚侍をはじめとする女房達にも、迷惑をかけた。先ほど母上に叱られてな。すまなかった」
「滅相もございません。我らは帝を補佐する身。帝あっての我らなのです」
尚侍の言う通り、彼女は帝が退位すれば、この後宮にはいられない。新たな帝には、新たな女官が配置されるからだ。
私は後宮にいた期間が短く、帝も不在であったため、尚侍をただの女官と見るべきか、女御と同じ立ち位置に見るべきなのかは分からない。帝によって、尚侍は女御と同様の扱いを受けることもあるのだ。
けれど今の二人を見ていると、尚侍は完全に女官という立場だった。帝の心も掴めず、想い人の心もまた……だから承香殿女御とは違った恨みを、私に抱いたのだろう。
帝の先ほどの言葉が反芻する。「幼き頃から好きだった」と。私を抱きしめた時は優しさを感じたが、その言葉には寂しさが感じられた。だからなのか、尚侍に向けられた言葉は、どれも冷たいものだった。
「そなたたちの働きには感謝しているが、弘徽殿女御を疑うのは筋違いだ。私はずっと宇治にいたのだからな」
「宇治に、ですか?」
「そうだ。疑うのならば、調べてみるがよい」
「し、失礼いたしました」
「構わぬ。私も居場所を知らせていなかったからな。だが、これで分かったであろう。弘徽殿女御が宿下がりをしていても、会いに行くことができるということを。ましてや、弘徽殿女御の実家は我が母と同じ左大臣家なのだから、何も不思議ではあるまい」
確かに宇治は都に近く。牛車や徒歩でさえ、一日はかからない距離にあった。それに常盤院は広い。人一人くらい、誰にも怪しまれずに匿うことも、忍び込むことも可能なのだ。
だから私と惟久様が、お父様達にバレずに契りを結ぶことができた、というわけである。それは何も、常盤院だからではない。他の邸も似たり寄ったりだった。
「では、あの噂はどうなのですか? 帝が清涼殿から常盤院に通っている、という噂が後宮だけでなく、内裏にも広まっておりました」
「それは左大臣が広めたのであろう。私が常盤院に通っているのは事実だからな。邸の者たちは、私が宇治から通っているとは思っていない。ましてや、都にいないことを、そなたたちが隠してくれていたお陰でな」
「だから姫宮様は、帝の御子であるというのですか?」
「そうだ。可愛いであろう? のう、弘徽殿女御」
帝の呼びかけに、私は歩み寄る。すると、鈴が待っていたかのように、私に向かって手を伸ばす。その紅葉のように愛らしい手に触れ、私は帝に微笑んだ。
「勿論でございます」
私のお願いを最大限、守ろうとしてくれている帝に対して。そして鈴を守る決意として、そっと帝に寄り添った。私もまた、帝を愛しているかのように。
場違いなのは分かっているが、正直にいうと安堵していた。なぜなら弘徽殿の女房達もまた、尚侍の女房達と同様に、私を軽蔑し、対峙してもおかしくはなかったのだ。けれど皆、私と鈴を守るように、堂々と前方に立っていた。これを嬉しく思わずになんといえようか。
思わず口元を手で隠す。すると小侍従がそっと両肩に触れた。そう、事情を知っているのは小侍従だけだったから、少なくとも味方は一人だけだと思っていたのに。
「ご安心ください、女御様。後宮に戻る際、左大臣様がご説明くださいました。すべて、このようなことが起こるかもしれないことを前提に」
「っ! 皆……ありがとう」
頬に涙が伝うと、鈴がまるで拭いたいのか、手を伸ばす。それが愛おしくて、私は鈴を抱きしめた。
すると「きゃっきゃっ」と嬉しそうな声を出す。私の腕の中にいるとはいえ、この状況で笑うなんて、さすがは惟久様のお子。
頼もしいわ。
けれど鈴は、おそらく大丈夫だと私に伝えたかったのかもしれない。この騒ぎを聞きつけた者が、藤壺の方からやってきたからだ。
局、しかも御簾の内側にいたから、その人物の姿を捉えることができなかった。しかし尚侍の顔が、まるで信じられないものをみるかのような。そう、物の怪でも見たかのような、恐れと驚愕が入り混じった表情をしたのだ。
そして次の瞬間、床にひれ伏す。
「騒がしい音と声がしたが、何があった? 詳細を述べよ」
この後宮で尚侍がひれ伏す相手であり、高圧的な態度をしても非難されない男性。それはただ一人しかいない。
元服なさってから一度もお会いしていないけれど、童の時の面影も感じる……。
「帝……」
それは小さな声だったが、相手にはしっかりと聞こえたらしい。こちらを振り返り、御簾を捲って局に入って来た。
「千景……それに姫宮、いや鈴と母上が名付けたのだったな」
優しい声色は、纏っている直衣の色、そのもの。淡い若草色のように優しく包み込んでくれるようだった。
「いい名をもらったね」
「はい。有り難いことです」
「しかし、あの者達には効力がなかったようだ」
帝の言葉に、思わず体が跳ねた。
「不安だったと思う。こういう事態にしてしまったことも申し訳ない」
「っ! 帝が謝ることではありません。すべては私が。私の我が儘が招いたことです」
「惟久も含めて、後ほどゆっくり話そう。今はこの事態を収めなければ。よいな」
「勿論にございます」
「では、鈴をこちらに。いいか?」
手を差し出されたが、すぐに鈴を渡すことは躊躇われた。帝が何をしようとしているのか、は分かる。しかし鈴を託して大丈夫なのかが不安だった。
腕の中の鈴は、突然現れた帝を前にしても、ぐずる様子はない。まるで自分に危害を加えない人物だと、私に教えてくれているようだった。
無垢な瞳で私と帝を交互に見る。今、帝に鈴を託せば、もう後戻りはできない。いや、鈴を産んだ時点で、もう私の決意は決まっている。
「お願いいたします。どうか、鈴を……助けてください」
そんなことを言えた義理でないことは分かっている。分かっていても、縋るしかなかった。
「……千景。今更だが、私もまた幼き頃から千景が好きだったのだ。鈴はそんな幼き頃の千景に似ている。安心してくれ」
帝は鈴ごと私を抱きしめてくれた。私はただ、若草色の直衣を握るだけで精一杯だった。
体が離れると、帝は鈴を抱えて背を向ける。御簾の向こう側へと行こうしている、その後ろ姿を私は追った。
「先ほど、尚侍が奇妙なことを言っていたな。都にいない者の御子など産むことはできない、と」
近くにいた女房が御簾を上げ、帝が尚侍の前まで歩みを進める。尚侍はずっと頭を垂れているだけで表情までは伺えない。帝は構うことなく、見下ろしたまま言葉を続けた。
「確かに私は都にいなかった。それによって、尚侍をはじめとする女房達にも、迷惑をかけた。先ほど母上に叱られてな。すまなかった」
「滅相もございません。我らは帝を補佐する身。帝あっての我らなのです」
尚侍の言う通り、彼女は帝が退位すれば、この後宮にはいられない。新たな帝には、新たな女官が配置されるからだ。
私は後宮にいた期間が短く、帝も不在であったため、尚侍をただの女官と見るべきか、女御と同じ立ち位置に見るべきなのかは分からない。帝によって、尚侍は女御と同様の扱いを受けることもあるのだ。
けれど今の二人を見ていると、尚侍は完全に女官という立場だった。帝の心も掴めず、想い人の心もまた……だから承香殿女御とは違った恨みを、私に抱いたのだろう。
帝の先ほどの言葉が反芻する。「幼き頃から好きだった」と。私を抱きしめた時は優しさを感じたが、その言葉には寂しさが感じられた。だからなのか、尚侍に向けられた言葉は、どれも冷たいものだった。
「そなたたちの働きには感謝しているが、弘徽殿女御を疑うのは筋違いだ。私はずっと宇治にいたのだからな」
「宇治に、ですか?」
「そうだ。疑うのならば、調べてみるがよい」
「し、失礼いたしました」
「構わぬ。私も居場所を知らせていなかったからな。だが、これで分かったであろう。弘徽殿女御が宿下がりをしていても、会いに行くことができるということを。ましてや、弘徽殿女御の実家は我が母と同じ左大臣家なのだから、何も不思議ではあるまい」
確かに宇治は都に近く。牛車や徒歩でさえ、一日はかからない距離にあった。それに常盤院は広い。人一人くらい、誰にも怪しまれずに匿うことも、忍び込むことも可能なのだ。
だから私と惟久様が、お父様達にバレずに契りを結ぶことができた、というわけである。それは何も、常盤院だからではない。他の邸も似たり寄ったりだった。
「では、あの噂はどうなのですか? 帝が清涼殿から常盤院に通っている、という噂が後宮だけでなく、内裏にも広まっておりました」
「それは左大臣が広めたのであろう。私が常盤院に通っているのは事実だからな。邸の者たちは、私が宇治から通っているとは思っていない。ましてや、都にいないことを、そなたたちが隠してくれていたお陰でな」
「だから姫宮様は、帝の御子であるというのですか?」
「そうだ。可愛いであろう? のう、弘徽殿女御」
帝の呼びかけに、私は歩み寄る。すると、鈴が待っていたかのように、私に向かって手を伸ばす。その紅葉のように愛らしい手に触れ、私は帝に微笑んだ。
「勿論でございます」
私のお願いを最大限、守ろうとしてくれている帝に対して。そして鈴を守る決意として、そっと帝に寄り添った。私もまた、帝を愛しているかのように。



