帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 その会話を聞いたのは、たまたまだった。

「はぁ、相変わらずですね。弘徽殿女御様を陥れたいのであれば、多少は我慢してください」

 千景が後宮に戻り、これまで通り会いに行くのが困難になってしまったため、どうしたものかと悩んでいると、承香殿女御と尚侍が清涼殿の脇で話し込んでいる姿が目にとまった。
 あの二人が一緒にいることは、何も不思議ではない。それが清涼殿の中や承香殿であれば。なぜ、人目のないところでコソコソと話しているのだろうか。

 承香殿女御はずっと千景に対抗意識を抱いている人物。向かい合っているのが尚侍であっても、悪巧みをしている可能性が高かった。

 そっと近づき、会話を盗み聞きする。帝の間諜として、諸国を回っている私にとっては、動作もないことだった。すると尚侍の口から『弘徽殿女御様』という単語が出てきて、やはりと思ったのと同時に、衝撃を受けた。

 まさか尚侍まで、千景を陥れようとしているとは。以前、叱咤したのを逆恨みしているのか。

『……惟久様のことが好きなのかなって……思いました』

 以前、千景に尚侍についてどう思っているのか聞いた時、そんなことを言っていた。そんなことはあり得ない、と思っていたが、千景を陥れようとする理由はそれしかない。
 千景はずっと、私と尚侍のことを嫉妬するくらい気にかけていたからだ。

「いいわ。でも私はすでに警戒されているし、お父様から問題を起こすな、と言われているの。だから結局は、おまえがやるのよ、いいわね」
「構いません。けれど私一人では無理ですので」
「分かっているわ。手助けをしてあげる。その代わり、帝に私のことをちゃんと伝えるのよ」
「勿論でございます」

 なるほど、千景が姫宮を産んだのに、承香殿女御には未だ、帝のお渡りがなくて焦っている。そこを突いたのか。私も似たようなことをしたから、尚侍のやり方を非難できなかった。
 そう、弘徽殿にお祖母様がいらした時、承香殿女御の女房に囁いたのだ。帝の祖母に気に入られる、いい機会だと。

 そもそも承香殿女御がその絶好の機会を上手く活用できる人間ならば、桐壺女御を虐めたり、帝に見限られたりしないだろう。案の定、私の思惑通り、問題を起こしてくれた、というわけである。

 だから尚侍の目の付け所には感心した。その矛先が千景でなければ、尚よかったのだが……。

 しばらくその場にいたが、二人はこそこそと話をするだけで、有益な情報は得られなかった。けれど分かったことは二つ。

 一つ目は、姫宮の幼名を皇太后様に付けてもらったが、結局のところ、何も役に立たなかった、ということだ。少しでも抑制になれば、と千景も考えたのだろうが、元々皇太后様の出は左大臣家。
 新たな後ろ盾ではなく、元々あった後ろ盾をさらに強化しただけだった。

 二つ目は、千景と鈴に危害を加えるつもりであること。先ほど話していた、尚侍の言葉が気にかかった。

『……では、今度は御子様に振ればいいのです。宿下がり中に懐妊だなんて、本当に帝の子なのか、怪しいですからね』

 千景の言う通り、尚侍が私に好意を抱いているのだとしたら、私の好意が誰に向かっているのかも、自然と分かるだろう。それが自分に向けられたものならいいが、別の相手……それも御子を産んだ女御であれば、聡い尚侍ならば、それだけで気づいてしまったのだ。いとも簡単に、今の現状と照らし合わせて。

 猫をもらい受けた時、千景への無礼を働いたと聞き、咄嗟に叱咤のが悔やまれる。だが、千景のこととなると、後先を考えられなくなってしまうのだ。

 それが招いた帝の不在。千景の入内。姫宮の誕生。そして窮地。打開策は……と思ったところで、藤壺の方へと視線を向けた。

「皇太后様では無理だ。抑制にもならなかったのだから、頼ったところで同じこと。ならばここは、やはりあの方を頼るしかない」

 そう、宇治で千景の動向を案じている、帝、その人である。


 ***


「ど、どうしたのだ、惟久。何があった!?」

 宇治の瑞霞院に到着すると、帝が慌てた様子で邸から飛び出してきた。私が人目も気にせず、音を立てながらやって来たからだろう。特に馬の(いなな)きはよく響き渡るからだ。

 けれど今は、そんなことを気にしている余裕はなかった。いつ、尚侍が千景に仕掛けるのか、分からないからだ。

 そんな私の異常な様子に、帝も何かを察したらしい。帝から千景の動向を、逐一報告していたから、勿論、姫宮の誕生はご存知なのだ。千景が後宮に戻ったことも、また。

「おまえが慌てるということは、千景に何かがあったということであろう? 一体、何があった!?」
「……尚侍が、姫宮の父親を疑っています。承香殿女御と共に、千景を陥れる画策をしているのを目撃しました」
「母上はどうしている。姫宮の幼名を名付けたのであろう?」

 私は首を横に振った。

「軽く見ているとは思えませんが、抑止力にもなりませんでした」
「そうか。尚侍の実家は確か、大納言家。それほど低くはないが、右大臣家の出の承香殿女御が後ろ盾となると、また違うのだろうな」
「……これは未報告なのですが、どうやら尚侍は私に好意を抱いているらしく、その腹いせではないか、と思われます」
「後宮の女は、時々現れる、陰のある男が好まれる、と母上に聞いたことがある。さらに優男ではなく、荒さが見える方が良い、とも。千景も尚侍も、そんなところに惹かれた、というわけか。なるほど、私では無理なのが分かった」

 荒さが見えるのは、諸国を回っているためであり、陰があるのは間諜だからだ。それを帝に求める方がおかしい。

「千景は幼なじみなのですよ。そのような危うさを色香と取り違える女と、同じ扱いをしないでいただきたいです」
「勿論、そのようなつもりはない。ただ、惟久が清涼殿へやってくると、女房達が色めき立つのは本当だ。まさか気づいていなかったのか?」
「私は今も昔も、千景一筋ですから」
「羨ましい限りだな。だが、それで千景が危ういというのに、このようなところで私と話をしていていいのか?」

 今すぐ都に戻り、助けて来い、とでもいいそうな雰囲気だった。できることなら、私自身の手で千景を助けたい。だが、表の身分は五位で、尚侍よりも低いのだ。
 今、千景を助けられるのは帝しかいない。

「恥を忍んで、お願いがあります。私と共に、都にお戻りください。そして……千景を、千景をどうか……助けてください」
「こ、惟久。頭を上げよ。今、私が出る時であるのならば、喜んで行く。前に話したではないか。私が戻る時期を計ってほしいと。それが今ならば、何を躊躇うことがある。ましてや千景の窮地とあれば、行かねば後悔することになる」
「帝……ありがとうございます」

 そうして瑞霞院から都まで、帝を乗せて、再び馬で駆けていく。都に着いた時はすでに夜だったが、清涼殿に忍び込むのはわけがない。

「どうする、惟久。翌朝、弘徽殿へと行くか?」
「いえ、今は後宮の様子を探るために、ひとまず、皇太后様のところへご挨拶に行きましょう。突然、帝が現れるよりも、口裏を合わせておいた方がよろしいかと」
「そうだな。私がずっと宇治にいたことを母上が知っていれば、口添えしてもらえる。都にいなかったことは、尚侍も知っているから、そこはどうにもならんが」

 私は頷き、翌朝、帝を連れて、こっそりと藤壺を訪れることにした。まさか、皇太后様と打ち合わせをしている最中に、尚侍が弘徽殿で事を起こしているとは思わずに。