帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 帝の影武者となって二週間。突然、帝が現れると騒ぎになるため、最初の数日は、こっそり清涼殿から抜けて常盤院へ行く、という別に影武者でなくともできる行動を起こしていた。

 これは千景の懐妊が入内後であったことを示す行為であると同時に、お腹の子の父親が帝であることを示す行為でもあった。また、帝の不在疑惑を払拭させるためでもある。

 元々、その噂をかき消すために千景が入内したというのに、これではなんのために……いや、千景の言う通り、入内を阻止したとしても、左大臣様は良しとしていなかったことだろう。
 入内した後であり、お腹の子の父親を帝にできているから、左大臣様も協力してくださっているのだ。そう、私が父親ではダメなのだ。

『もしも入内せずにいたら、今頃、常盤院で発覚……下手したら都から追い出されていたかもしれません』
『けれど済んでしまったものは仕方がない。千景の懐妊もまた。だが、むしろ好機ともいえる』

 望まれるのは帝の子であって、私の子ではない。皇家の外戚として栄えていた時ならいざ知らず、今の橘家は低迷し、過去の栄光に縋りついている。新たな外戚や近づいて来る者を警戒しているため、かつて帝の乳母などを輩出した橘家は、今も尚、皇家からの信頼も厚いのだ。
 だからお祖母様が娘の一人を入内させたのにも関わらず、もう一人の娘を低迷している橘家に嫁がせたのは、そのためだった。橘家の者であれば、後宮に入りやすい、という利点があるからだ。

 お陰で私も、内裏を自分の庭のように出入りできるわけだが……それでも身分は五位。左大臣様の足元にも及ばない。そんな男の子どもなど、誰が求めるというのだろうか。

 そんな自暴自棄になりながら、私はこっそりと飛香舎(ひぎょうしゃ)、別名藤壺に足を運んだ。

「皇太后様、お久しぶりにございます」
「先に人払いをしておいたわよ」
「ありがとうございます……やはり、お怒りでしょうか」

 閉じた扇で口元を隠し、脇息(きょうそく)に肘をかけている皇太后様の姿を見て、そう感じた。

 無理もない。息子である帝は清涼殿にいないのに、私が帝の影武者となって振る舞っているのだ。これが帝の意思ならば、皇太后様もご納得いただけたはずである。けれどその帝は今……。

「これを怒らずにいられる者がいるのか、聞いてみたいものだわ。お母様から事の詳細を聞いて、どれだけ驚いたことか。思わずその怒りを右大臣に向けてしまったくらい」
「それは……私としては有り難いお話と言いますか……」
「惟久!」
「はい。申し訳ございません」

 皇太后様は、我が母と違い、兄弟の中で長子であるせいか、お祖母様よりも気が強い方のようだ。いや、我が母が末ということもあり、皇太后様やお祖母様ほど気が強くないだけなのだろう。
 末になるほど、親の関心が薄れてしまうからだ。とはいえ、我が母もお祖母様の娘。他の家とは違い、それほど関心がなかったとは思えない。

「千景の件に関しては、私も心を痛めているのよ。帝のために入内してくれたのだから、私も何か手助けをしたい、と。けれどその帝を……!」

 いくら人払いをしていても、声に出すことはマズいと皇太后様も思ったらしい。ここは後宮だ。完全な人払いなど、難しいのだ。皇太后という立場になられたから、それは余計にだろう。護衛と身の回りの世話をする女房を遠ざけることは無理なのだ。
 
 けれど、私が桐壺女御様を無理に入内させたことも、帝の失踪に関与していることも、ご存知だということはうかがい知れる。

「私が帝を唆したわけではございません。帝が残された文をお忘れですか?」
「いいえ。『しばらく一人になりたい』と。帝がそう思うのも、無理のないことだけど。あの子は帝となるには、随分と優しいから、桐壺女御が失踪したことは、随分と堪えたのでしょうね」

 目を瞑り、帝と桐壺女御様に想いを馳せる皇太后様。けれど次に発した言葉は厳しいものだった。

「その全てがおまえの仕業だったなんてね。人の人生をなんだと思っているの? と言いたいところだったけれど、私も前帝に入内した時は、自分の意思などなかったし、千景の入内を左大臣に進言した身だから……これも身から出た錆なのかしら」
「いいえ。皇太后様は、ご自分の実家を強めたかったから、千景の入内を進言したのです。それは、皇太后様の立場であれば当然のこと。ご実家がしっかりされているのに、帝の後ろ盾を何も、右大臣家にさせる必要はないのですから」
「それが分かっていながら、どうして邪魔をしたの! 帝も千景を好いていたというのに」
「だからです! 醜い嫉妬であっても、千景の心は私にあった。その事実を知っているのに、入内など……我慢できませんでした」

 どうにか千景の入内を阻止できないか。元服してからは、そればかりを考えていた。同時期に元服をし、帝になられたいとこのために、諸国を回る間諜の役割を任ぜられた時は、やられたと思った。

「帝も帝です。私を遠ざけて、千景を手に入れようとしていたではありませんか。なぜ、私だけ非難を浴びるのでしょうか」
「子どもの時は身分など関係なかったのでしょうけれど、帝と同じ土俵にすら立てていないのよ。そう、千景とも」
「分かっています。これはただの私の我が儘だということも。けれど悪あがきをしたかったのです。私の力でどれくらいできるのかを。どれくらい……千景に手が届くのかを」
「……何もかも手にできる帝が憎かった?」

 自分がどれだけ歯痒い顔をしていたのか。皇太后様の言葉にハッとなった。

「正直に話しても大丈夫よ。お母様や左大臣の前では、いい子ちゃんでいたのでしょう? 千景に相応しい人間だと分かってもらえるために。でも私は違う。そんなことをする必要はないものね。だからここまで本心を曝け出しているのでしょう? 今更、遠慮することはないわよ」
「敵いませんね。さすがは、伯母上」

 お祖母様の娘なだけある。逆に帝は、父親である前帝に似ているのかもしれない。今の帝が元服したのと同時に退位したのは、左大臣様の圧力に耐えかねて、という噂だったが、本当は今の帝のようにその重圧から逃げたかったのだろう。

 千景や桐壺女御様のように、誰もが入内したいわけではない。そして野心を持って入内する者もいる。根が優しい人間ならば、やっていけないだろう。
 まぁ、だからこそ、皇太后様のような方が好まれるのかもしれないが……私はやはり、多少気は強くても、守りたいと思うような可愛らしい女性の方がいい。

「私は帝が憎いとは思っていませんよ。逆です。哀れだと思っています。何もかも手にできるのに、本当に欲しいものを、自分の力でどうにかしようとしない。けれどそれが帝にとって、生きる術であることも承知しております」
「だから憎んでいない、とはね。最初、お母様から今回の企てを聞かされた時、宝泉寺でおまえたちを遊ばせていたことを後悔したわ。でも、今の話を聞いて、撤回したわ。おまえは帝のことがよく分かっている。千景のことがなければ、よい友であり、家臣であったものを、と思うほどにね」
「恐縮です」
「けれどもう、それが叶わない、というのであれば仕方がないわ。おまえの要望を聞きましょう」
「っ! どうしてそれを……」
「ただ叱られに来たわけではないことくらい分かるわ。それとも、そのためだけにこの藤壺に忍び込んだの? 物好きね」

 皇太后様は扇を広げ、クスクスと笑った。本当に、こういうところはお祖母様にそっくりだと思う。けれど、それに怯んでいる暇はない。

「……皇太后様には、ある噂を後宮だけでなく、内裏にも広めてほしいのです」
「噂?」

 なんだか面白そうね、という顔をする皇太后様。そういう乗り気なところもまた、お祖母様譲りだと思った。
 そういえば、千景も諸国の話を聞くのが好きだったな。噂を広めるのとは少し違うが。

 私はそんなことを思いながら、口を開いた。