帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 翌朝、目が覚めると、やはり惟久様の姿はなかった。けれどあの日のような、寂しさは感じない。むしろ安堵していた。

『千景と御子のためだったら、帝の影武者にだってなるよ』

 この言葉が目を閉じた後も、耳の奥に残っていたからだろう。私を常盤院に帰す段取りもそうだが、これでは敵を多く作ることになってしまう。

 惟久様は陰で動いているからいいけれど、矢面に立たされるお父様の身が心配だわ。

 そんな危惧を、私の他にも抱いていた方がいた。

「千景様。お目覚めですか?」
「えぇ。大丈夫よ」
「先ほど、北の方様がお話をしたい、と千景様への取次を頼まれたのですが、いかがいたしましょうか」
「お母様が?」

 突然どうしたのかしら、とは思わない。昨日、常盤院に帰宅してから、挨拶もそこそこに自分の局へと籠ってしまったからだ。
 それでも今朝まで何も言わなかったのは、私の体のことを知っていたのか。それとも惟久様が、帝と偽ってやってきたことに驚いてしまったのか。色々と思うところはあるけれど、これからしばらくお世話になるのだ。

「お小言でないのならいいですよ、と伝えてちょうだい」
「分かりました。では絵巻などをお持ちいたしましょうか。体調がよろしければ、ご一緒に庭を眺めながらお話をするのもよろしいかと存じます」
「そうね……久しぶりに我が家の庭を眺めたいわ」

 考えてみると、常盤院の庭を最後に眺めたのは、いつのことだろうか。入内を頑なに拒んでいたら、丸二年、この邸から出られずにいたのだから、それくらいになるのかもしれない。
 庭先に出た途端、家出をする気ではないか、と見張られてしまい、気がつくと局に籠りがちになっていたからだ。

 そんな時、芹が今のように絵巻や書物を持って来てくれたり、共に琴を弾いてくれたりしてくれていた。だから今しかできないことをしたかった。

 御子を産めば、また後宮に戻ることになるのだから。

「では、北の方様にお伝えしてきます」
「お願いね」

 芹を見送った後、ふーっと一つ息を吐いた。気軽に引き受けはしたが、お母様とどのような話をすればいいのだろうか。そう思ったからだ。


 ***


 常盤院の邸内に植えられている植物は、基本、常緑樹が多い。冬でも変わらぬ美しさをお祖母様に見てもらいたくて、お祖父様がそのような植物ばかり選ばれたのだと聞いた。
 お陰でここ、九条のお屋敷は、常盤院と呼ばれている。

 その庭がよく見える局に着くと、すでにお母様の姿があった。お祖母様とは違う、優しい、温かみのある美しさを持つお母様。私は幼い頃からお祖母様に似ている、と言われていたけれど、雰囲気はお母様似だと言われ、嬉しかったのを覚えている。

「千景。いつまでそこに立っているの? 早くこちらへ来なさい」
「はい、お母様」
「昨日は言えなかったけれど、殿から事情は聞いているわ。昨夜の……帝がお出でになった事情も、ね」
「……お騒がせしてしまい、申し訳ございません」

 お母様の隣に腰を下ろしたと同時に話を切り出され、私はただただ謝るしかなかった。

「いいのよ。母としては、やはり好いた方の元に嫁がせてやりたかったのだから。それでも……思い切ったことを。殿から聞いた時は、血の気が引いたばかりか、倒れそうになったもの」
「ふふふっ」

 閉じた扇を口元に寄せ、不満を漏らすお母様を見て、思わず笑みが零れた。すると案の定、眉を顰めるお母様。

「千景! ちゃんと聞いていたの? 私がそれくらい驚いた、と言ったのよ?」
「勿論、聞いています。だから思わず笑ってしまったのです。お父様をはじめ、お祖母様も今回の件を、一応お叱りになるものの、お母様のように血相を変えるような仕草はなかったものですから」
「まぁ! それではまるで、私だけが肝の座っていない女だと言いたいのね!」
「違います。怒らせてしまったことは謝りますが、これはそういう意味ではありません。逆なんです」
「逆?」
「はい。こういう言い方は変ですが、お母様のように「なんてことを仕出かしたの!」と怒られて、安堵してしまったのです」

 妊娠が発覚後。芹や惟久様は当然のことだけど、お父様とお祖母様が積極的に私を助けてくれた。本来ならば、不貞を働いたことに激怒して、見捨てられても仕方がないことなのに。
 それが嬉しくもあり、不気味にも感じていた。

 お父様がこの状況を好機と感じて、利用しようとしていることは、嫌でも分かる。このお腹の御子が、私と同じように、政治の道具にされてしまう。
 そこに生まれてしまった者の務めとして、嫌でもなんでも、それに従うしか生きる術はないのだ。私も、この子も、とお腹に手を当てる。

「千景。私たち女には自由がない。お義母様や皇太后様のような、力を持った方でもね。だからこそ、一つの誤った行動が命取りになるの」
「っ!」
「今回は、我が左大臣家に有益なことだったから、殿も千景に力を貸してくださる。逆に、不利益なことだったら、私でも庇えていたかは分からない。お義母様なら、どうにかしてくださるかもしれないけれど、それだって最良ではないのよ」
「……はい」

 そうだ。お母様の言う通り。私はここ、常盤院に戻って来られなかった可能性もあったのだ。それこそ、弘徽殿にいながら、後ろ盾を失くす可能性だって……否定できない。

 そうなったら、昨日のように承香殿女御に反撃すらできなくなってしまうどころか、桐壺女御様のように、嫌がらせを受けてしまうことだってあり得るのだ。考えただけで、血の気が引いたような気がした。

 すると、お母様が近づき、そっと抱きしめてくれた。

「ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったの。ただ、もう軽率な行動は慎んでほしくて」
「分かっています。このような立場になって、はじめてお母様の言葉の意味を理解できたのですから。本当に、私は幼かったのだと、痛感しています」
「これから母となるのだからね。頑張りなさい。どのような状況になったとしても、挫けてはダメよ」

 外にいることもあり、お母様は私にだけ聞こえるくらい小さな声で言った。けれど私の心に大きく響いた。

「流されてもダメ。殿や惟久殿は強引に事を進めるかもしれない。でも千景は女御なのだから。お義母様や皇太后様のように、自分とお腹の子の最善を選び取るのよ。女子には女子しかできない戦い方を学びなさい。私ではそれを教えてあげることはできないけれど」
「そんなことはありません。ここにいる間は、お母様から色々と学ばせてもらうつもりですから」

 母として、妻として。女にしかできない戦い方を学ばなくては、ね。

 小声でのやり取りだったが、私もお母様も、お互いの顔を見合わせてクスクスと笑った。