帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

「それは千景の懐妊を正当化するためには、帝がこうして通った、という事実が必要なんだ」

 私を敷き畳の上に座らせると、惟久様はすぐに本題を切り出した。

「……確か惟久様は、帝の影武者になることを拒否していませんでしたか?」

 そう、あれはまだ私が入内する前。惟久様との情事を知られ、お祖母様のいる宝泉寺に行った時のことだ。お祖母様が惟久様に、帝の影武者になることを提案したのだ。惟久様も後宮に入れる口実として。
 けれど惟久様は、帝の影武者などにならずとも、平気で私のいた弘徽殿の局にやってきていた。表立ったものではないため、バレたら大変なことになってしまうけれど。

 だから今更、惟久様が帝の振りをする意味が分からなかった。そもそも帝の影武者は、後宮にいてこそ、その役割が発揮されるお役目だ。なぜ、帝の振りをしてまで、常盤院にやって来たのだろうか。

「初めはね。帝の影武者になる、ということは、仕事も肩代わりする必要がある。ただそこに座っていればいいだけでは済まされないからね」
「姿は御簾でどうにかなりますが、声はどうしようもないですから。たとえ、どなたかに代弁してもらったとしても、惟久様は都を空けることが多い身。下手に介入して、利用されてしまう危険性があります」
「だからお祖母様には一旦、保留にしていただいたんだ。今日みたいに、必要になるかもしれない、と思ったからね」
「……もしかして、お祖母様が今日、弘徽殿にいらっしゃったのは」

 このためだったというの? 承香殿女御が仕出かしたことは、確かに無礼なことで、右大臣への苦情も理解できる。お祖母様の立場からすると、皇太后様の力を使う方が、より動き易い、ということも含めて。

 けれどこれは、皇太后様を表に連れ出し、力を見せつける必要があったのだ。なぜなら、帝が内裏にいる、と信じ込ませるために。
 帝がいるから、皇太后様の力もまた、維持できているのだ。つまり、逆転の発想、というわけである。

「皇太后様に、私の文を届けてもらうためでもあったんだ。私が帝の影武者として、清涼殿からここ、常盤院に来るためにね」
「……なぜ、そんな危険を冒すようなことをしたのですか? 常盤院に来るだけなら、以前のように来ればいいではありませんか」

 私が入内したことにより、いくら実家に帰って来てからといっても、容易に殿方と会うことはできない。不貞ための宿下がりだと、疑われてしまうからだ。

 そう、今の私は帝の女御。人妻なのである。

「この間も、弘徽殿にいた時も、正面から会いに来てくださったわけではありません。それが嫌だったわけではないのですが、惟久様なら帝の影武者にならずとも、私は……」
「ありがとう。私が以前、拒否したから気を遣ってくれているのだろう。だが、その必要はないよ。これは私の意思で決めたことなのだから」
「帝の影武者となることをですか?」
「そうだ」

 なぜですか? と聞きたかったのに、惟久様に抱きしめられて尋ねることができなかった。

 直衣から薄っすらと感じる冷気が、今の惟久様の心のような気がして、少しだけ怖かった。いくらお祖母様の提案であっても、帝がいない中、勝手に影武者になるなど、許されるものなのだろうか。
 あの時は、まだ仮定の話だったし、惟久様も拒否していたから、気にも留めなかったけれど。

 すると、惟久様は私の顔を見ていないのに、その心境を読み取ったような答えをくれた。

「千景は分かっていないようだけど、御子を身籠ったことは、私だけではなく、お祖母様をはじめとした皆が喜んでいる」
「本当、ですか? お父様の文では、仕方がないことだと。あまり喜ばれているようには感じませんでした」
「それは……左大臣様としても複雑なんだよ。可愛い娘の入内なのに、帝が不在。本来ならば喜ばしい懐妊も、今は大手を振るうことができない。しかもお腹の子の父親は……だからよくやった、とも言えないんだ」
「怒られるのならいざ知らず、どうしてよくやった、ということになるのですか? これは……褒められるべきことではないでしょう?」

 入内である以上、完全な不貞とは言い辛いけれど、ほぼ内定していたことだ。身分の低い家ならいざ知らず、左大臣家がそんな不手際なことを、と世間から非難を浴びてしまうほどの出来事なのだ。これは。

 それなのに、どうして?

「侍医にも言われたと思うが、今お腹にいる御子は、血筋的には問題がない。それが帝との御子でなくても」
「私たちは、いとこですから」

 そもそも血が繋がっているため、絶えることはない。だからこの御子が皇子であっても、問題はなかった。父親が帝ではない、という事実が公にならない限り。

「帝がいつ、戻って来るのかも分からない状況であり、仮に戻ってきたとしても、御子の誕生を望めるのかも分からない。新たに女御を迎えたとしても、だ。さらにその女御から生まれた御子では、左大臣様は困ってしまうんだ。これは分かるね?」
「はい。だからお父様は、私をお叱りにならないのですね」
「なれないんだ。帝が不在である以上、承香殿女御様から御子が生まれる可能性はない。つまり、右大臣家が力を増すことはないのだから」
「……それで私を、早々に常盤院に帰す必要があったというわけなのですね」

 あまりにも連携の取れたことだと思ったら、裏でそのように結託していたとは思わなかった。私の為だと思えばいいのだが、結局はお家の為。

 昔の私ならば、嫌がっていたことなのに、不思議と今はそう感じなかった。おそらく裏でどんな思惑があっても、惟久様との御子を無事に産めるのならば、私も利用しようと思ったからかもしれない。

 そして何より、生まれてきた御子が、皆に祝福された子であってほしい、と望んでいるからだ。

「千景に相談もせずに動いたことは謝るよ。でも、容易に連絡ができない後宮と、身動きが取れない千景の立場では、難しいことだったんだ」
「大丈夫です。今ならお父様たちの事情も理解できますから。でも、それと惟久様が帝の影武者となって、常盤院に来たのは、どういう意味があるのですか?」
「それは千景の懐妊を、正当化するためだよ」
「正当化?」

 思わず顔を上げると、惟久様は優しく微笑まれた。

「宿下がりした千景を追って来た帝、という事実を世間に知らせるためだ。これは賛成したくなかったんだけど、帝の寵愛を受けている事実を公にすれば、帝の不在も隠せるし、千景の地位も安泰になる」

 つまり、もう引き返せないところまで来てしまった、ということだ。けれど惟久様の顔は、未だに優しいままだった。

「千景と御子のためだったら、帝の影武者にだってなるよ」

 だから心配しないで、無事に産んでくれ。そう言われているような気がした。