私はお祖母様の指示で無事、常盤院に帰れたものの、後宮……いや内裏は大変だったという。
そもそも帝が不在という事実は、後宮だけでなく、内裏でも一部の者しか知られていない。けれどここ最近、姿を見せぬ帝を不審に思う者もいたはずだ。
そんな折に、生母である皇太后が、承香殿女御の父である右大臣を呼び出した、という事態。承香殿女御があのような娘なのだから、右大臣は血相を変えたに違いない。
しかもその呼び出しを伝えたのが皇太后の弟である左大臣……つまりお父様なのだ。真実味がさらに増したところ、御前に着くや否や、共に来ていたはずのお父様の姿はなし。
右大臣が青ざめて注意力が散漫している隙に、お父様は清涼殿から出て、牛車を弘徽殿まで誘導したわけである。けれど右大臣はそんなことなど知らず、皇太后にお目見えすることとなる。そこの席には、前々帝の妹であるお祖母様が同席していたのだから、さらに驚いたのではないだろうか。
降嫁してから、お祖母様がそのような席に居合わせることは、前帝の時代でさえ、一度きりだったというのだから。私を後宮から連れ出すための目くらまし、とはいえ、右大臣には悪いことをしたような気がした。
たまたま承香殿女御が、お祖母様のいる時に、私に喧嘩を仕掛けてきたのが悪いのだけど……今は無事に常盤院に帰れたことが嬉しくて、重なり合った偶然の出来事を、不思議だと感じる余裕が生まれなかった。
「千景様。すぐにお休みになられますか?」
弘徽殿から一緒に戻って来た小侍従……いや、今は常盤院にいるため、名も戻した芹が声をかけてきた。常盤院には家政を任されている家司がいるため、芹もここではただの女房。他の女房の動きなど気にせず、久しぶりにゆっくり休めるはずだ。
入内してから体調が悪い私の代わりに、承香殿女御が疑うほど、後宮内で色々と情報を集めていた芹。今の私がその情報を聞いても、上手く活用できないことを分かっているのだろう。私も話題にできるほどの元気もないため、聞くに聞けなかったが。
今はそれよりも、後宮内での芹の働きを労いたい。私も疲れてしまった、という気持ちもあったため、すぐに支度をするように、と頼んだ。
***
けれどいざ、体を横にしたものの、瞼が下がらない。思った以上に疲れていなかった、ということなのだろうか。体の怠さは変わらないというのに。
不思議に思っていると、その原因とでもいうように、足音が聞こえてきた。私がすでに就寝していることは、芹を通じて、この邸にいる者たちは知っているはずだ。それなのにも拘わらず、私の局に近づいた、ということは、何か緊急事態が起こったのだろうか。
あんな形で帰って来てしまったから……。
すると足音が、突然、聞こえなくなった。それが意味することは、つまり……。
「千景様。お休みのところ申し訳ないのですが、よろしいでしょうか」
「えぇ、大丈夫よ。少し寝付けなかったから。それで、どうかしたの?」
「実は、その……」
妻戸越しに、芹の戸惑いが伝わってくる。私は起き上がり、芹の元へ行こうとした瞬間、妻戸の方が先に開いてしまった。
「えっ、どうしてあなたが……ここに?」
「帝のおなりにございます」
「みか、ど?」
思わず目の前にいる人物の足元で、頭を垂れている芹に視線が移動する。
だって誰がどう見ても、ここにいるのは帝じゃない。いつもよりも上品な直衣で、色合いも菖蒲色と華やかさが目立つ。けれどいつもの彼は、このような直衣ではない。紺や深緑色といった、落ち着いた色で私の前に現れるのだ。
「どう、されたのですか?」
「千景を驚かせようと思ってね」
「十分、驚きました。いえ、そういう意味で聞いたのではありません」
けれど私の問いには答えず、妻戸をそっと閉め、外気が私の体に当たらないようにしてくれた。
今は秋から冬へと移ろうとしている最中。昼間はまだ暖かさが残っているが、夜は肌寒い風が、時折、強く吹くのだ。
「分かっているよ。でもその説明をする前に、ここはまだ外に近いから、奥に行こう。千景に何かあったら大変だからね」
相変わらず私を気遣ってくれる。私だって、その言葉に従いたい。今、お腹にいるのは、この方との子どもなのだから。
「惟久様……どうして、帝だなんて偽って、ここに来たんですか?」
だからこそ、その真意を聞くまでは、受け入れることができなかった。
そもそも帝が不在という事実は、後宮だけでなく、内裏でも一部の者しか知られていない。けれどここ最近、姿を見せぬ帝を不審に思う者もいたはずだ。
そんな折に、生母である皇太后が、承香殿女御の父である右大臣を呼び出した、という事態。承香殿女御があのような娘なのだから、右大臣は血相を変えたに違いない。
しかもその呼び出しを伝えたのが皇太后の弟である左大臣……つまりお父様なのだ。真実味がさらに増したところ、御前に着くや否や、共に来ていたはずのお父様の姿はなし。
右大臣が青ざめて注意力が散漫している隙に、お父様は清涼殿から出て、牛車を弘徽殿まで誘導したわけである。けれど右大臣はそんなことなど知らず、皇太后にお目見えすることとなる。そこの席には、前々帝の妹であるお祖母様が同席していたのだから、さらに驚いたのではないだろうか。
降嫁してから、お祖母様がそのような席に居合わせることは、前帝の時代でさえ、一度きりだったというのだから。私を後宮から連れ出すための目くらまし、とはいえ、右大臣には悪いことをしたような気がした。
たまたま承香殿女御が、お祖母様のいる時に、私に喧嘩を仕掛けてきたのが悪いのだけど……今は無事に常盤院に帰れたことが嬉しくて、重なり合った偶然の出来事を、不思議だと感じる余裕が生まれなかった。
「千景様。すぐにお休みになられますか?」
弘徽殿から一緒に戻って来た小侍従……いや、今は常盤院にいるため、名も戻した芹が声をかけてきた。常盤院には家政を任されている家司がいるため、芹もここではただの女房。他の女房の動きなど気にせず、久しぶりにゆっくり休めるはずだ。
入内してから体調が悪い私の代わりに、承香殿女御が疑うほど、後宮内で色々と情報を集めていた芹。今の私がその情報を聞いても、上手く活用できないことを分かっているのだろう。私も話題にできるほどの元気もないため、聞くに聞けなかったが。
今はそれよりも、後宮内での芹の働きを労いたい。私も疲れてしまった、という気持ちもあったため、すぐに支度をするように、と頼んだ。
***
けれどいざ、体を横にしたものの、瞼が下がらない。思った以上に疲れていなかった、ということなのだろうか。体の怠さは変わらないというのに。
不思議に思っていると、その原因とでもいうように、足音が聞こえてきた。私がすでに就寝していることは、芹を通じて、この邸にいる者たちは知っているはずだ。それなのにも拘わらず、私の局に近づいた、ということは、何か緊急事態が起こったのだろうか。
あんな形で帰って来てしまったから……。
すると足音が、突然、聞こえなくなった。それが意味することは、つまり……。
「千景様。お休みのところ申し訳ないのですが、よろしいでしょうか」
「えぇ、大丈夫よ。少し寝付けなかったから。それで、どうかしたの?」
「実は、その……」
妻戸越しに、芹の戸惑いが伝わってくる。私は起き上がり、芹の元へ行こうとした瞬間、妻戸の方が先に開いてしまった。
「えっ、どうしてあなたが……ここに?」
「帝のおなりにございます」
「みか、ど?」
思わず目の前にいる人物の足元で、頭を垂れている芹に視線が移動する。
だって誰がどう見ても、ここにいるのは帝じゃない。いつもよりも上品な直衣で、色合いも菖蒲色と華やかさが目立つ。けれどいつもの彼は、このような直衣ではない。紺や深緑色といった、落ち着いた色で私の前に現れるのだ。
「どう、されたのですか?」
「千景を驚かせようと思ってね」
「十分、驚きました。いえ、そういう意味で聞いたのではありません」
けれど私の問いには答えず、妻戸をそっと閉め、外気が私の体に当たらないようにしてくれた。
今は秋から冬へと移ろうとしている最中。昼間はまだ暖かさが残っているが、夜は肌寒い風が、時折、強く吹くのだ。
「分かっているよ。でもその説明をする前に、ここはまだ外に近いから、奥に行こう。千景に何かあったら大変だからね」
相変わらず私を気遣ってくれる。私だって、その言葉に従いたい。今、お腹にいるのは、この方との子どもなのだから。
「惟久様……どうして、帝だなんて偽って、ここに来たんですか?」
だからこそ、その真意を聞くまでは、受け入れることができなかった。



