そもそも帝が不在なのに、小侍従がどうやって密告できるというのだろうか。
考えてみると承香殿女御は、帝の不在も、桐壺女御様の失踪も知らないのだ。帝はともかくとして、桐壺女御様については、嫌がらせをしていたらしいから、動きがなくなったことで関心が薄れたのだろう。
もしくは帝の渡りがなくなり、ようやく自分の元へ? と仄かに期待していたから、興味がなくなったのかもしれない。その肝心の帝が不在なのだから、承香殿女御の元にやってくることはないのだが。
おそらく、その原因が新たに後宮入りした私にある、と思ったのだろう。小侍従が桐壺女御様について調べている行為を勘違いし、お花畑だった頭が、今度は被害妄想に成り代わった。
まぁ、そんなところだろう。帝の不在を隠しているのだから、承香殿女御には、このまま大立ち回りをしてもらおう。
私はそっと小侍従に向かって頷いた。
「承香殿女御様。まず先に、ウチの女房が後宮内で色々と動いていた件に関しては謝罪します」
「あら、すぐに認めるのね」
「はい。ですがこの謝罪は、動いていた件についてのみです。後宮に入ったばかりで、色々と辺りを調べるのは、そもそも当たり前のことではありませんか? 主人である私のため、一の女房として動くことなど。承香殿女御様のところの女房は違うのですか?」
職務を真面目に遂行する人間を怪しみ、非難するなんて、神経を疑うわ。
「ウチの女房たちは、そんなコソコソとネズミのように嗅ぎ回るような動きはしない。怪しい動きをするから疑われるのよ?」
「承香殿は賑やかだとおっしゃられましたからね。声が大きいから、逆にそう感じたのではありませんか?」
噂話を大声で? 下品、極まりないわ。
「なんですって!」
「それに悪評とはなんですか? この後宮で、悪評と言われるようなことをしたのですか? 心当たりがあるから、密告したのではないか、と怯えていらっしゃるのですよね」
そうでなければ、そんな憶測に怯える必要はない。悪いことをしたという自覚が、後ろめたさとなって、被害妄想を生むのだ。
幼い子どもが、親に叱られるのが怖くて、証拠となるものを隠す行為と同じ。共犯者に口止めをするも、裏切ったのでは? と疑心暗鬼になることも、よくある。
承香殿女御は今、それに陥っているのだ。
「わ、私は何も悪いことなどしていないわ。けど、皆が私を悪者扱いするから……それで!」
「ならば先ほど、几帳を倒したことはどうでしょうか」
「え?」
「几帳が勝手に倒れたようには見えませんでした。それはここにいる多くの者たちが見たと思いますが、それについてはどうお考えですか?」
局にいる者たちの視線が、一斉に承香殿女御の元に集まる。共にやって来た女房たちは、承香殿女御の後ろにいて、お互いの顔を見合わせている。
その間にも、先ほどの悲鳴を聞き、人が集まってきているのだ。承香殿女御が立ち去らなければ、どんどん立場が悪くなる一方である。
私が後宮内で承香殿女御の悪評を広めなくても、こうして広まってしまうことを、彼女は知らないほど幼稚だった。
「し、知らないわよ、そんなこと」
だからそんな捨て台詞を吐いて、お付きの女房たちと共に、承香殿へと向かって行ってしまった。勝手にやって来て、勝手に去って行く。それも挨拶すらしない、という横暴さ。
噂に聞いていたけれど、これほど酷いとはね。右大臣家でどのように育ったのか、想像がつくわ。しかもあのような性格を矯正させずに後宮に送り出すなんて……まるで右大臣家から追い出されてしまったような扱いね。
哀れだとは思うけれど、今の私にはこれ以上、承香殿女御のことを考えている暇はなかった。改めて局を見渡す。幸いにも、怪我人はおらず、物も几帳が倒れただけだった。
「にょ、女御様。申し訳ございません」
「小侍従。いいのよ。遅かれ早かれ、何かしら粗を探してやって来るとは思っていたから。それとお祖母様。巻き込んでしまい、申し訳ございませんでした」
「ふふふっ、私にまで気を遣うことはないのよ。藤壺にいた時も、よくあったことだから。なんだか懐かしいわね」
「そんな呑気なことを……」
こんな状況でも楽しめるお祖母様の器に、恐れ入った。すると、再び慌ただしい足音が聞こえ、小侍従が立ち上がり、他の女房たちに視線を送った。局の内部を片し、御簾を下げる。
承香殿女御が立ち去ったことで、後宮を警備する近衛少将でも来たのだろう。そう思っていたら、意外な人物が現れた。
「千景……いや、女御。無事か?」
「お、お父様? どうしてこちらに」
口に出してから、お祖母様が持ってきた、お父様の文の内容を思い出した。承香殿女御の登場で中断してしまったが、宿下がりの準備を小侍従に頼んでいたところだったのだ。
その間、お父様は清涼殿で待っていたに違いない。弘徽殿は清涼殿に近いから、この騒ぎに駆けつけてくれたらしい。ただ、承香殿女御がいたため、近づけなかっただけで。
けれどこうして心配してくれた姿を見て、宿下がりする決心がついた。いくらお父様から文をもらっても、やはり半信半疑だったからだ。
「いいところに来たわね。幸い千景も無事だし、健康そのものよ。だからこの騒ぎに便乗して、このまま常盤院に連れて帰ってちょうだい」
「お祖母様っ!」
「大丈夫。全員が戻るわけではないのだから、必要な荷物はその者らにまとめてもらい、あとで届けてもらいなさい。私はこのまま藤壺へ行き、皇太后を引き連れて清涼殿へ行くわ。その隙に左大臣は、車を弘徽殿の前まで入れさせなさい」
「なるほど、母上と姉上が注意を引いてくれる、というわけですか」
「それだけではないわ。あの無礼者にお灸を添えてやらねばね。車を呼び寄せるついでに、右大臣を清涼殿に呼んできてちょうだい」
無礼者とは承香殿女御のことだろう。そして右大臣はその父親。お祖母様にとっては娘だが、帝のご生母であらせられる皇太后が、右大臣を呼び出すのだ。何事かと誰もが思うだろう。
その裏で車がひっそりと後宮内に入ってきたとしても、気づかないほどの騒ぎに。
想像しただけでご愁傷さまだとは思ったが、身から出た錆。
表面は穏やかに見えていたものの、やはり内心は怒り心頭だったご様子。お祖母様はすぐに立ち上がり、御簾を押しのけて出ていった。それを目で追うお父様。やれやれ、といった表情の後に、ため息を吐いた。
「女御も惟久も、母上に似たのかもしれないな」
そう呟くと、お父様も立ち上がり、お祖母様の後を追った。向かう先はそれぞれ違うけれど。
考えてみると承香殿女御は、帝の不在も、桐壺女御様の失踪も知らないのだ。帝はともかくとして、桐壺女御様については、嫌がらせをしていたらしいから、動きがなくなったことで関心が薄れたのだろう。
もしくは帝の渡りがなくなり、ようやく自分の元へ? と仄かに期待していたから、興味がなくなったのかもしれない。その肝心の帝が不在なのだから、承香殿女御の元にやってくることはないのだが。
おそらく、その原因が新たに後宮入りした私にある、と思ったのだろう。小侍従が桐壺女御様について調べている行為を勘違いし、お花畑だった頭が、今度は被害妄想に成り代わった。
まぁ、そんなところだろう。帝の不在を隠しているのだから、承香殿女御には、このまま大立ち回りをしてもらおう。
私はそっと小侍従に向かって頷いた。
「承香殿女御様。まず先に、ウチの女房が後宮内で色々と動いていた件に関しては謝罪します」
「あら、すぐに認めるのね」
「はい。ですがこの謝罪は、動いていた件についてのみです。後宮に入ったばかりで、色々と辺りを調べるのは、そもそも当たり前のことではありませんか? 主人である私のため、一の女房として動くことなど。承香殿女御様のところの女房は違うのですか?」
職務を真面目に遂行する人間を怪しみ、非難するなんて、神経を疑うわ。
「ウチの女房たちは、そんなコソコソとネズミのように嗅ぎ回るような動きはしない。怪しい動きをするから疑われるのよ?」
「承香殿は賑やかだとおっしゃられましたからね。声が大きいから、逆にそう感じたのではありませんか?」
噂話を大声で? 下品、極まりないわ。
「なんですって!」
「それに悪評とはなんですか? この後宮で、悪評と言われるようなことをしたのですか? 心当たりがあるから、密告したのではないか、と怯えていらっしゃるのですよね」
そうでなければ、そんな憶測に怯える必要はない。悪いことをしたという自覚が、後ろめたさとなって、被害妄想を生むのだ。
幼い子どもが、親に叱られるのが怖くて、証拠となるものを隠す行為と同じ。共犯者に口止めをするも、裏切ったのでは? と疑心暗鬼になることも、よくある。
承香殿女御は今、それに陥っているのだ。
「わ、私は何も悪いことなどしていないわ。けど、皆が私を悪者扱いするから……それで!」
「ならば先ほど、几帳を倒したことはどうでしょうか」
「え?」
「几帳が勝手に倒れたようには見えませんでした。それはここにいる多くの者たちが見たと思いますが、それについてはどうお考えですか?」
局にいる者たちの視線が、一斉に承香殿女御の元に集まる。共にやって来た女房たちは、承香殿女御の後ろにいて、お互いの顔を見合わせている。
その間にも、先ほどの悲鳴を聞き、人が集まってきているのだ。承香殿女御が立ち去らなければ、どんどん立場が悪くなる一方である。
私が後宮内で承香殿女御の悪評を広めなくても、こうして広まってしまうことを、彼女は知らないほど幼稚だった。
「し、知らないわよ、そんなこと」
だからそんな捨て台詞を吐いて、お付きの女房たちと共に、承香殿へと向かって行ってしまった。勝手にやって来て、勝手に去って行く。それも挨拶すらしない、という横暴さ。
噂に聞いていたけれど、これほど酷いとはね。右大臣家でどのように育ったのか、想像がつくわ。しかもあのような性格を矯正させずに後宮に送り出すなんて……まるで右大臣家から追い出されてしまったような扱いね。
哀れだとは思うけれど、今の私にはこれ以上、承香殿女御のことを考えている暇はなかった。改めて局を見渡す。幸いにも、怪我人はおらず、物も几帳が倒れただけだった。
「にょ、女御様。申し訳ございません」
「小侍従。いいのよ。遅かれ早かれ、何かしら粗を探してやって来るとは思っていたから。それとお祖母様。巻き込んでしまい、申し訳ございませんでした」
「ふふふっ、私にまで気を遣うことはないのよ。藤壺にいた時も、よくあったことだから。なんだか懐かしいわね」
「そんな呑気なことを……」
こんな状況でも楽しめるお祖母様の器に、恐れ入った。すると、再び慌ただしい足音が聞こえ、小侍従が立ち上がり、他の女房たちに視線を送った。局の内部を片し、御簾を下げる。
承香殿女御が立ち去ったことで、後宮を警備する近衛少将でも来たのだろう。そう思っていたら、意外な人物が現れた。
「千景……いや、女御。無事か?」
「お、お父様? どうしてこちらに」
口に出してから、お祖母様が持ってきた、お父様の文の内容を思い出した。承香殿女御の登場で中断してしまったが、宿下がりの準備を小侍従に頼んでいたところだったのだ。
その間、お父様は清涼殿で待っていたに違いない。弘徽殿は清涼殿に近いから、この騒ぎに駆けつけてくれたらしい。ただ、承香殿女御がいたため、近づけなかっただけで。
けれどこうして心配してくれた姿を見て、宿下がりする決心がついた。いくらお父様から文をもらっても、やはり半信半疑だったからだ。
「いいところに来たわね。幸い千景も無事だし、健康そのものよ。だからこの騒ぎに便乗して、このまま常盤院に連れて帰ってちょうだい」
「お祖母様っ!」
「大丈夫。全員が戻るわけではないのだから、必要な荷物はその者らにまとめてもらい、あとで届けてもらいなさい。私はこのまま藤壺へ行き、皇太后を引き連れて清涼殿へ行くわ。その隙に左大臣は、車を弘徽殿の前まで入れさせなさい」
「なるほど、母上と姉上が注意を引いてくれる、というわけですか」
「それだけではないわ。あの無礼者にお灸を添えてやらねばね。車を呼び寄せるついでに、右大臣を清涼殿に呼んできてちょうだい」
無礼者とは承香殿女御のことだろう。そして右大臣はその父親。お祖母様にとっては娘だが、帝のご生母であらせられる皇太后が、右大臣を呼び出すのだ。何事かと誰もが思うだろう。
その裏で車がひっそりと後宮内に入ってきたとしても、気づかないほどの騒ぎに。
想像しただけでご愁傷さまだとは思ったが、身から出た錆。
表面は穏やかに見えていたものの、やはり内心は怒り心頭だったご様子。お祖母様はすぐに立ち上がり、御簾を押しのけて出ていった。それを目で追うお父様。やれやれ、といった表情の後に、ため息を吐いた。
「女御も惟久も、母上に似たのかもしれないな」
そう呟くと、お父様も立ち上がり、お祖母様の後を追った。向かう先はそれぞれ違うけれど。



