翌朝、案の定ともいうべきか、惟久様の姿がなかった。私を起こさずに帰る優しさは嬉しいけれど、見送りたい気持ちも汲み取ってほしかった。
「さすがに、それは望みすぎかしら」
私の入内話が消えない限り、惟久様との結婚は夢のまた夢。惟久様も分かっているから、何も残さずに行かれたのだろう。
局を見渡しても、あるのは私の私物のみ。痕跡すら残してくれないのは、帝の影として、常に行動しているからなのだろう。少し寂しいと思ってしまうが、惟久様と結婚できないのだから、これはこれで良かったのだ。
「千景様……お目覚めでございますか?」
妻戸越しに芹の声が聞こえてきた。遠慮している様子から、惟久様がまだいらっしゃると思っているのかもしれない。
つまり、芹にも気づかれずに出ていった、ということなのかしら。まぁ、他の家人に知られては困ることだものね。入内前に男を通わせる、なんて知られたら、一大事だわ。
「今、起きたところよ」
「では、朝餉の準備をいたします」
私は起き上がり、単衣を羽織った。すると、どこからか爽やかな香りがして、今一度、辺りを見渡す。
「あらっ、これは」
そっと敷き畳に挟まれた、紺色の小さな巾着袋を見つけた。取り出してみると、匂いの元だといわんばかりに爽やかな香りが鼻を掠めた。
「いい匂い。もしかして檜かしら」
中を確認してみると、案の定、木くずが入っていた。
「ふふふっ、このような匂い袋を持ち歩いているなんて、惟久様らしいわね」
何も置いていってくださらなかったと思っていただけに、嬉しさが込み上げてきた。しかも香とは違い、素朴な感じが、なんとも惟久様らしい。
「もしかして、送れぬ文の代わりに、わざと置いていってくれたのかしら」
それだったら嬉しいな、と昨夜の情事を思い出しながら、そっと匂い袋を袖の中に仕舞った。
けれどそんな夢心地に浸っていられたのは、ほんの僅かな間だけ。芹が持って来てくれた朝餉を食べながらのんびりしていると、簀子縁から慌ただしい音が聞こえてきたのだ。
「何事です!? ここが千景様の局の近くだと、分かっているのですか?」
「えっと、その……それが……」
御簾を捲って芹が注意しに行くと、先ほどまでの勢いはどこに行ったのか、やってきた女房らしき女性は言葉を詰まらせる。その場では言い辛いことなのか、それとも私の耳に入れたくないのか。もしくは……。
「私に用があるのなら、入ってもらっていいわよ」
「大丈夫です。どうやら、千景様宛に文を預かっているようですから」
まぁ! と声をあげそうになり、咄嗟に口を手で抑える。けれど局に戻って来た芹の様子では、どうやら私が待ち望んでいた方からの文ではないらしい。ただ静かに、私の前に文を差し出した。
惟久様の文ならば、少しばかり訝しんだ表情をするだろう。そうではない、とするならば一体……誰から?
芹と文を交互に見つめても、誰とは言わない。慌ただしくやって来た女房。昨夜の情事。無言の芹。どう考えても嫌な予感しかしなかった。
それでも受け取りを拒否できないこの現状を恨めしく思ったものの、私は覚悟を決めて、文を受け取った。
「えっ、嘘っ! お祖母様からっ!」
「まさかっ! 北の方様からではないのですか?」
「えぇ。私もてっきり、お母様かお父様のどちらかだと思っていたわ」
それなのにどうして……それもよりによってお祖母様だなんて……。
「不味いわね。一番知られてはいけない人にバレたみたい……」
「そんなはずはありません! 昨夜は念には念を入れたんですよ。それに、屋敷の人間ならいざ知らず、大宮様に知られるなど……もしや!」
「惟久様を疑うの? 私よりも立場が危うくなってしまうのに。あり得ないわ」
「そう、ですね。失礼いたしました」
だけど芹が疑うのも無理はない。お祖母様は前々帝の妹君で、惟久様にとっても祖母に当たる方なのだ。さらにいうと、今上帝の祖母でもある。
文にはただ、昨夜のことについて話がしたい、こちらに来るように、とだけしか書かれていなかった。そのため、本当にバレたのか、までは定かではない。
けれどこのタイミングで疑わない方がおかしい。
「とりあえず、来いということなのだから、支度をしなければね」
どこまでお祖母様が知っているのかも分からないし、困ったらあの噂を切り出せばいいだけのこと。お祖母様だって、孫の一人である帝の情報を、何一つ知らないとは考えにくい。
本当に不在であり、行方不明であるのならば、私の入内話など、あってないようなもの。そうなれば、惟久様と正式に結婚できるかもしれないのだ。そしてお祖母様という、強い後ろ盾を得るチャンスともいえる。
「どのみち、断ることもできないし。もしかしたら、良いお話かもしれないわよ」
「千景様……」
そんな安易な……という心配性な芹の心の声を聞いたような気がした。けれど私に悩んでいる暇はない。残った朝餉を食べ、すぐに支度に取り掛かった。
なんたって、私の未来がかかった大勝負に行くんだから!
「さすがに、それは望みすぎかしら」
私の入内話が消えない限り、惟久様との結婚は夢のまた夢。惟久様も分かっているから、何も残さずに行かれたのだろう。
局を見渡しても、あるのは私の私物のみ。痕跡すら残してくれないのは、帝の影として、常に行動しているからなのだろう。少し寂しいと思ってしまうが、惟久様と結婚できないのだから、これはこれで良かったのだ。
「千景様……お目覚めでございますか?」
妻戸越しに芹の声が聞こえてきた。遠慮している様子から、惟久様がまだいらっしゃると思っているのかもしれない。
つまり、芹にも気づかれずに出ていった、ということなのかしら。まぁ、他の家人に知られては困ることだものね。入内前に男を通わせる、なんて知られたら、一大事だわ。
「今、起きたところよ」
「では、朝餉の準備をいたします」
私は起き上がり、単衣を羽織った。すると、どこからか爽やかな香りがして、今一度、辺りを見渡す。
「あらっ、これは」
そっと敷き畳に挟まれた、紺色の小さな巾着袋を見つけた。取り出してみると、匂いの元だといわんばかりに爽やかな香りが鼻を掠めた。
「いい匂い。もしかして檜かしら」
中を確認してみると、案の定、木くずが入っていた。
「ふふふっ、このような匂い袋を持ち歩いているなんて、惟久様らしいわね」
何も置いていってくださらなかったと思っていただけに、嬉しさが込み上げてきた。しかも香とは違い、素朴な感じが、なんとも惟久様らしい。
「もしかして、送れぬ文の代わりに、わざと置いていってくれたのかしら」
それだったら嬉しいな、と昨夜の情事を思い出しながら、そっと匂い袋を袖の中に仕舞った。
けれどそんな夢心地に浸っていられたのは、ほんの僅かな間だけ。芹が持って来てくれた朝餉を食べながらのんびりしていると、簀子縁から慌ただしい音が聞こえてきたのだ。
「何事です!? ここが千景様の局の近くだと、分かっているのですか?」
「えっと、その……それが……」
御簾を捲って芹が注意しに行くと、先ほどまでの勢いはどこに行ったのか、やってきた女房らしき女性は言葉を詰まらせる。その場では言い辛いことなのか、それとも私の耳に入れたくないのか。もしくは……。
「私に用があるのなら、入ってもらっていいわよ」
「大丈夫です。どうやら、千景様宛に文を預かっているようですから」
まぁ! と声をあげそうになり、咄嗟に口を手で抑える。けれど局に戻って来た芹の様子では、どうやら私が待ち望んでいた方からの文ではないらしい。ただ静かに、私の前に文を差し出した。
惟久様の文ならば、少しばかり訝しんだ表情をするだろう。そうではない、とするならば一体……誰から?
芹と文を交互に見つめても、誰とは言わない。慌ただしくやって来た女房。昨夜の情事。無言の芹。どう考えても嫌な予感しかしなかった。
それでも受け取りを拒否できないこの現状を恨めしく思ったものの、私は覚悟を決めて、文を受け取った。
「えっ、嘘っ! お祖母様からっ!」
「まさかっ! 北の方様からではないのですか?」
「えぇ。私もてっきり、お母様かお父様のどちらかだと思っていたわ」
それなのにどうして……それもよりによってお祖母様だなんて……。
「不味いわね。一番知られてはいけない人にバレたみたい……」
「そんなはずはありません! 昨夜は念には念を入れたんですよ。それに、屋敷の人間ならいざ知らず、大宮様に知られるなど……もしや!」
「惟久様を疑うの? 私よりも立場が危うくなってしまうのに。あり得ないわ」
「そう、ですね。失礼いたしました」
だけど芹が疑うのも無理はない。お祖母様は前々帝の妹君で、惟久様にとっても祖母に当たる方なのだ。さらにいうと、今上帝の祖母でもある。
文にはただ、昨夜のことについて話がしたい、こちらに来るように、とだけしか書かれていなかった。そのため、本当にバレたのか、までは定かではない。
けれどこのタイミングで疑わない方がおかしい。
「とりあえず、来いということなのだから、支度をしなければね」
どこまでお祖母様が知っているのかも分からないし、困ったらあの噂を切り出せばいいだけのこと。お祖母様だって、孫の一人である帝の情報を、何一つ知らないとは考えにくい。
本当に不在であり、行方不明であるのならば、私の入内話など、あってないようなもの。そうなれば、惟久様と正式に結婚できるかもしれないのだ。そしてお祖母様という、強い後ろ盾を得るチャンスともいえる。
「どのみち、断ることもできないし。もしかしたら、良いお話かもしれないわよ」
「千景様……」
そんな安易な……という心配性な芹の心の声を聞いたような気がした。けれど私に悩んでいる暇はない。残った朝餉を食べ、すぐに支度に取り掛かった。
なんたって、私の未来がかかった大勝負に行くんだから!



