千景の不安は無理もなかった。何一つ分からない、帝と桐壺女御様の失踪。そこに来て、自分自身の予想外の妊娠だ。
私に感情をぶつけて来ない方が、そもそもおかしいのだ。
けれど文を受け取りに行った翌日の晩。千景は私の前にすら、姿を現してはくれなかった。
局に手引きしてくれる小侍従が、文を二枚、私に渡してきたのだ。また、私に八つ当たりするのが怖いから、だという。
私は千景に会えれば、なんだって構わない。たとえ、そこに笑顔がなくとも……。けれど強引に忍び込めば、千景に不審がられるかもしれない。千景はまだ、私の役職を知らないからだ。
諸国を周り、帝にその旨を報告する。ただそれしか伝えていないからだ。
その晩は大人しく引き下がり、翌日になってから宝泉寺へと向かった。
「いくら私の孫でもね、気軽に尼寺に来るんじゃないの。千景ならともかく」
「その千景からの文を届けに来たんです」
「あら、惟久はいつから千景の文使いになったの?」
「嫌味はいいですから」
これを、とお祖母様に差し出す。急遽用意したものだから、色紙といった洒落たものでも、文箱のような仰々しいものでもない。けれどこの文が、どんな意味を含んでいるのか、お祖母様も察したのだろう。口では茶化していたが、受け取る時の表情には憂いが見えた。
「今更、後悔しても仕方がないけれど、おまえから賭けを持ち出された時に、反対するべきだったわね」
「千景からも言われてしまいました。結婚する気がないのなら、振ってくれればよかった、と」
「ただ契っただけで終われば、綺麗な思い出で済む。けれどそれだけでは済まないのが、世の常。二人とも、今回のことで身に染みたのではなくて?」
「分かっています。ただ好きなだけではいけないことも、守るだけでもいけないことも」
「……障害を排除しようと考えていたことも?」
不意を突かれ、思わず息を呑んでしまった。
「それとも、もう排除してしまったのかしら」
「……してはいませんが、どこでそれを?」
「あらあら、こんなことで口を滑らすなんて、惟久もまだまだね。千景に固執しているおまえなら、やり兼ねないと思って言ったまでよ」
「カマをかけたのですか?」
千景のことで、どう対処するべきか、そこに気を取られていたとはいえ、不覚を取った。まさかお祖母様に勘繰られていたとは……。
「そうしなければ惟久は、秘密にしたまま事を成そうとしたでしょう? けれどそれが露見した時はどうするの? さらに千景から非難を浴びることになるのよ」
「覚悟の上です」
「馬鹿なことはおやめなさい。誰も幸せになれないわ」
「……最悪の事態は避けられます」
千景が帝の御子を生み、中宮になる未来は……。
「それはおまえにとってのでしょう!」
「千景にとってもです。そうでなければ、とっくの昔に入内し、今頃は……」
「だから千景と同じ立場の女性を探し出し、入内させたというの? 帝に分からせるために」
「お祖母様はすでに、桐壺女御様のことをお調べになったのですね」
「おまえが来る前に、小侍従から文が届けられたのよ。桐壺女御は千景と同じ立場だったと。望まぬ入内をさせられただけではなく、恋人と別れさせられてと聞いたわ」
「それでどうして、私が裏にいると思ったのですか?」
誰もが承香殿女御のような女性ではないことは知っている。権力を掴み、何不自由ない生活と贅沢をしたい、という人間も数多くいるが、千景のように幼い時からそのような生活をしていた者にとっては関係ない。興味が湧かないのだ。
慎ましやかでも、自分の望みを優先する。それは私も同じだった。
「帝の間諜として、諸国を回るおまえでなければ、そのような都合のいい女性を探し出すことは困難だからよ。小侍従からの文を読んで、すぐにおまえが裏にいると分かったわ。おそらく小侍従もそう思ったのでしょう。だから千景に知らせる前に、私に文を送ってきたのよ」
そうか。小侍従は後宮内にいる桐壺女御様の女房たちから事情を聞いたはいいが、千景にどう報告すればいいのか悩んだのだ。その結果、お祖母様に連絡。返事を待っている間に、まさかの千景の妊娠。ますます報告できずにいた、というわけか。
すでに千景が知っていたのならば、私にお祖母様と左大臣様への文を託すようなことはしなかったはずだ。
「それでいかがなされるおつもりですか? 仮に私が裏いるとして、千景に知らせますか?」
「今は身重の千景に、そのような負担を強いるつもりはないわ」
「それは良かったです。私のことはともかく、千景の味方でいてくれるようなので」
「……千景が一番、危うい立場にいるから、今は優先になっているだけよ。私は同じ孫である惟久、お前の味方でもあるつもりよ。犯罪ではないけれど、桐壺女御と帝にした仕打ちは、許されるものではない。そっちの話も、後々しないとね」
さすがはお祖母様。前々帝の妹、というお立場は伊達ではないのだろう。このような事態を作った私のことまで考えてくださるとは。
「それで千景のことですが、これから左大臣様のところへ行き、事情をお話しに行くところです。お祖母様に渡したものと同じ、千景の文を持って」
「まぁ! 正直に言いに行くつもりなの?」
「千景が安心して子を産むためです。左大臣様がどのような態度を取られるかは分かっていますが、背に腹は代えられませんので」
「呆れた。自分のためだったら平気で非道なことができるのに、千景のこととなると、どんな仕打ちを受けても構わなくなるんだから」
その通り過ぎて、返す言葉もなかった。
「でも、まぁいいわ。ある意味、惟久も罰を受けることになるのだから。千景も今回のことで、大いに反省していることだし。私からも文を書きましょう」
「ありがとうございます」
「その代わり、桐壺女御と帝のことは、あとでたっぷり話をしないとね。勿論、千景も交えて。いいわね」
「……はい」
お祖母様の言葉に返事をしつつ、藪をつついて蛇を出してしまったような気分になった。けれど最優先事項は変わらない。そこに子どもも加わっただけのこと。
そう、私の子どもが。夢にまで見た、千景との。そのためならなんだってする。左大臣様に、無理難題を押しつけられようとも……してみせる覚悟はあった。
私に感情をぶつけて来ない方が、そもそもおかしいのだ。
けれど文を受け取りに行った翌日の晩。千景は私の前にすら、姿を現してはくれなかった。
局に手引きしてくれる小侍従が、文を二枚、私に渡してきたのだ。また、私に八つ当たりするのが怖いから、だという。
私は千景に会えれば、なんだって構わない。たとえ、そこに笑顔がなくとも……。けれど強引に忍び込めば、千景に不審がられるかもしれない。千景はまだ、私の役職を知らないからだ。
諸国を周り、帝にその旨を報告する。ただそれしか伝えていないからだ。
その晩は大人しく引き下がり、翌日になってから宝泉寺へと向かった。
「いくら私の孫でもね、気軽に尼寺に来るんじゃないの。千景ならともかく」
「その千景からの文を届けに来たんです」
「あら、惟久はいつから千景の文使いになったの?」
「嫌味はいいですから」
これを、とお祖母様に差し出す。急遽用意したものだから、色紙といった洒落たものでも、文箱のような仰々しいものでもない。けれどこの文が、どんな意味を含んでいるのか、お祖母様も察したのだろう。口では茶化していたが、受け取る時の表情には憂いが見えた。
「今更、後悔しても仕方がないけれど、おまえから賭けを持ち出された時に、反対するべきだったわね」
「千景からも言われてしまいました。結婚する気がないのなら、振ってくれればよかった、と」
「ただ契っただけで終われば、綺麗な思い出で済む。けれどそれだけでは済まないのが、世の常。二人とも、今回のことで身に染みたのではなくて?」
「分かっています。ただ好きなだけではいけないことも、守るだけでもいけないことも」
「……障害を排除しようと考えていたことも?」
不意を突かれ、思わず息を呑んでしまった。
「それとも、もう排除してしまったのかしら」
「……してはいませんが、どこでそれを?」
「あらあら、こんなことで口を滑らすなんて、惟久もまだまだね。千景に固執しているおまえなら、やり兼ねないと思って言ったまでよ」
「カマをかけたのですか?」
千景のことで、どう対処するべきか、そこに気を取られていたとはいえ、不覚を取った。まさかお祖母様に勘繰られていたとは……。
「そうしなければ惟久は、秘密にしたまま事を成そうとしたでしょう? けれどそれが露見した時はどうするの? さらに千景から非難を浴びることになるのよ」
「覚悟の上です」
「馬鹿なことはおやめなさい。誰も幸せになれないわ」
「……最悪の事態は避けられます」
千景が帝の御子を生み、中宮になる未来は……。
「それはおまえにとってのでしょう!」
「千景にとってもです。そうでなければ、とっくの昔に入内し、今頃は……」
「だから千景と同じ立場の女性を探し出し、入内させたというの? 帝に分からせるために」
「お祖母様はすでに、桐壺女御様のことをお調べになったのですね」
「おまえが来る前に、小侍従から文が届けられたのよ。桐壺女御は千景と同じ立場だったと。望まぬ入内をさせられただけではなく、恋人と別れさせられてと聞いたわ」
「それでどうして、私が裏にいると思ったのですか?」
誰もが承香殿女御のような女性ではないことは知っている。権力を掴み、何不自由ない生活と贅沢をしたい、という人間も数多くいるが、千景のように幼い時からそのような生活をしていた者にとっては関係ない。興味が湧かないのだ。
慎ましやかでも、自分の望みを優先する。それは私も同じだった。
「帝の間諜として、諸国を回るおまえでなければ、そのような都合のいい女性を探し出すことは困難だからよ。小侍従からの文を読んで、すぐにおまえが裏にいると分かったわ。おそらく小侍従もそう思ったのでしょう。だから千景に知らせる前に、私に文を送ってきたのよ」
そうか。小侍従は後宮内にいる桐壺女御様の女房たちから事情を聞いたはいいが、千景にどう報告すればいいのか悩んだのだ。その結果、お祖母様に連絡。返事を待っている間に、まさかの千景の妊娠。ますます報告できずにいた、というわけか。
すでに千景が知っていたのならば、私にお祖母様と左大臣様への文を託すようなことはしなかったはずだ。
「それでいかがなされるおつもりですか? 仮に私が裏いるとして、千景に知らせますか?」
「今は身重の千景に、そのような負担を強いるつもりはないわ」
「それは良かったです。私のことはともかく、千景の味方でいてくれるようなので」
「……千景が一番、危うい立場にいるから、今は優先になっているだけよ。私は同じ孫である惟久、お前の味方でもあるつもりよ。犯罪ではないけれど、桐壺女御と帝にした仕打ちは、許されるものではない。そっちの話も、後々しないとね」
さすがはお祖母様。前々帝の妹、というお立場は伊達ではないのだろう。このような事態を作った私のことまで考えてくださるとは。
「それで千景のことですが、これから左大臣様のところへ行き、事情をお話しに行くところです。お祖母様に渡したものと同じ、千景の文を持って」
「まぁ! 正直に言いに行くつもりなの?」
「千景が安心して子を産むためです。左大臣様がどのような態度を取られるかは分かっていますが、背に腹は代えられませんので」
「呆れた。自分のためだったら平気で非道なことができるのに、千景のこととなると、どんな仕打ちを受けても構わなくなるんだから」
その通り過ぎて、返す言葉もなかった。
「でも、まぁいいわ。ある意味、惟久も罰を受けることになるのだから。千景も今回のことで、大いに反省していることだし。私からも文を書きましょう」
「ありがとうございます」
「その代わり、桐壺女御と帝のことは、あとでたっぷり話をしないとね。勿論、千景も交えて。いいわね」
「……はい」
お祖母様の言葉に返事をしつつ、藪をつついて蛇を出してしまったような気分になった。けれど最優先事項は変わらない。そこに子どもも加わっただけのこと。
そう、私の子どもが。夢にまで見た、千景との。そのためならなんだってする。左大臣様に、無理難題を押しつけられようとも……してみせる覚悟はあった。



