帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 侍医から懐妊の話を聞いた、その夜。小侍従の手引きで惟久様がやってきた。そう、私が小侍従に頼んで、手配してもらったのだ。
 惟久様は惟久様で、侍医からすでに話を聞いていたらしい。帳の内にやって来た時の表情が青かった。

「千景! 体は……体は大丈夫なのか?」
「ふふふっ、なんだか惟久様の方が大丈夫ではなさそうですね」

 その慌てっぷりを見たからか、思わず笑みがこぼれた。

「何を呑気なことを……侍医から話を聞いて、小侍従から連絡をもらっても尚、生きた心地がしなかったというのに」
「それは……嬉しくなかった、ということですか?」
「違う。ややこができたこと自体は嬉しい。望んではいけない、と思っていたからね」

 望んではいけない……惟久様は、あの夜が最初で最後だと思ってやって来たのかもしれない。ううん。お祖母様と賭けをしていたのだから、そのような覚悟で来たわけではないだろう。きっとその先も望んでいたはずだ。
 だけど私が入内したから、望んではいけない、と思ったのかもしれない。

「問題は千景だ」
「侍医から対応は聞きました。それのどこに、問題がありましたか?」
「……私も聞いたが、それはあくまでも経緯であって、周りの協力は得ていないだろう?」
「あっ」

 確かに、里帰り先……お父様の承諾を、私はまだ得ていないのだ。
 とりあえず、近々里帰りしたく、と文で連絡を……いや、入内したばかりで里帰りしたいだと? と言われ兼ねない。とはいえ、妊娠したから、と馬鹿正直に書けば、怒鳴りにやってくる可能性もあった。

 そしたら大騒ぎになって、弘徽殿どころか、後宮内に伝わってしまうわ。下手したら内裏の方まで……。

「どうしましょう。お父様の協力なくして、里帰りはできませんし、物忌みで後宮から出たとしても、そんな長くは空けてはいられません。お祖母様のいる宝泉寺でも、同じですわ」
「……いや、千景が入内する前に、お祖母様は『一番の問題は別のところにある』とおっしゃっていた。私と千景の関係を知っていたことも考慮すると……この可能性も視野にあったのかもしれない」
「もしも入内せずにいたら、今頃、常盤院で発覚……下手したら都から追い出されていたかもしれません」
「仮に上手くいったとして、左大臣様が私と千景の結婚を認めてくださっても、下賤な噂で千景が傷物扱いされるのは嫌だしね」
「それくらい私は構いませんが……」

 入内以外の結婚を望むのなら、それなりの覚悟をしなければならないのは当たり前のこと。左大臣家の一の姫に生まれた宿命である。
 けれど悲しそうに見つめる惟久様の顔を見ていると、これ以上強く言うことはできなかった。さらに惟久様は垂れ布を押し、几帳の後ろで待機している小侍従まで、私の視界に晒す。

「……私も千景様が、そのような噂の的になるは嫌でございます」
「小侍従……」
「分かったかい。私が強引な手を使わなかった理由が」
「では、どうしてあの夜、私を抱いたのですか? 結婚するつもりがそもそもなかったのであれば、容赦なく振ってくださればよかったのです。いつまでも駄々を捏ねず、入内した方がいい、と」

 帝が不在になるよりも先に、そう告げてくれれば私だって諦めがついた。そうすれば尚侍だって、承香殿女御に手を焼くこともなかったのだわ。

「千景。今後のことが不安で、落ち着かないのは分かる。私を非難したい気持ちも。だけど私だって、千景のことを諦めきれなかったんだ。帝に渡したくない、と思えるほどに」
「惟久様……」
「だからあの日、お祖母様と賭けをしたんだ。千景がまだ私を好きでいてくれたら、私の想いを受け止めてくれるのなら、力を貸してほしい、と」

 けれどその望みを叶えてもらうどころか、なぜか私の入内話が進んでしまい、賭けの勝敗など無意味になってしまったのだ。

 そもそもお祖母様は、賭けの勝敗どころか賭け自体、するつもりなどなかったのだろう。どちらに転んでも、私が入内しない道はなかったのだ。帝が都にいようがいまいが、関係なくこの世が回っているのと同じように。

「結局、お祖母様は力どころか、私たちの望まない形に事を運んだではありませんか」
「そうかもしれない。だけどあの時、お祖母様はこうもおっしゃっていた。『望みを叶えるために動いてやりたかった』と。そして『これが最善策だということを忘れないで』とも」
「これのどこが最善策だというのですか!?」

 あの時はこんな未来になるなんて思わなかったから……ううん。何が最善策なのかも分からない子どもだったのだ。幼い頃からの初恋に固執し、夢を見て、我が儘をいうただの子ども。
 お父様の言う通り、素直に入内していればこんなことにならなかったんだわ。

「千景様。あまり興奮なされては、体に障ります」

 気がつくと小侍従は、私の傍に来て宥めてくれた。

「惟久様も、これ以上、千景様を刺激しないでください」
「そんなつもりはなかったんだが……」
「惟久様になくとも、妊娠中は感情の起伏が激しくなる、と侍医から注意を受けています。ですから、今後の対策はこちらで――……」
「ううん、それには及ばないわ。どのみち、お父様に連絡しなければ、里帰りすることもできないのだから。あと、お祖母様にも。私を入内させたのだから、責任を取ってもらわないとね。お父様を説得する、という責任を」

 これくらいしてもらわなければ、割に合わない。

「いや、左大臣様への説得は私がしよう。お祖母様への文も私が届ける」
「惟久様が、ですか?」
「あぁ。責任、という立場なら、私が負うべきものだ。そうだろう、千景」

 あの日、惟久様の文が届かなければ、こんなことにはならなかった。けれど一番は、私が惟久様の誘いに乗ったのが悪い。

「……お父様には、正直にその旨を伝えます。それでも私の文をお父様に届けてくださいますか?」
「勿論。そして左大臣様からの文を、千景に届けに戻って来るよ」
「では明日、文をしたためますので、今夜と同じ時間にここへ来てください」
「分かった」

 そうして私は、小侍従の手を借りながら、体を横にした。妊娠が分かってから数刻。それなのにもう、自分の体と心がこんなにも変化してしまったとは思わなかった。

 こんな……嫌な感情を惟久様にぶつけてしまうなんて……自分が醜い何かになってしまったような気がした。