「千景様ー!」
惟久様が几帳の奥へ行かれてから、ほんの僅か。待つ暇もなく、小侍従が顔を出した。それも大きな声で駆け寄るものだから、叱責するべきか、それとも労うべきなのか、迷ってしまった。
幸いなことに、声の主が小侍従だったからだろう。弘徽殿を取り仕切る女房の声が響く分には、誰も不思議には思わないらしい。おそらく女房の誰かが粗相をしたのだと思ったのかもしれない。
実際は女房ではなく、弘徽殿の主である私なのだけど。
「良かったです。お目覚めになられて。病弱でもなかったのに、後宮に来てから急に具合が悪くなられるなんて……物の怪の仕業ではないか、と心配しておりました」
「もう、大袈裟ね」
「そんなことはありません。後宮にはそういうものが付きものだといいますし。何より桐壺女御様も、それで神隠しに遭われたのかもしれない、という噂を聞きました」
「でもこの後宮で神隠しだなんて……」
けれど実際に失踪しているのだから、否定できなかった。
「ですから、明日にでも祈祷していただこうかと思っているのですが」
「えっ! 祈禱? どうして!?」
「小侍従、落ち着け」
「惟久様……」
あまりの剣幕にたじろいていると、救いの手がやってきた。けれど、すぐにそれは思い過ごしだと知る羽目になる。
「先に侍医を呼ぶことになっていただろう」
「侍医!?」
「そうでした。惟久様の言う通り、そちらが先ですね。病名が分かれば、祈禱をしてもらうこともないでしょうし」
「いや、病気が重い場合もあるだろう。手配する準備だけでも――……」
「二人とも!」
私を放って白熱する惟久様と小侍従に向かって大声を出す。これで私の言い分も聞いてもらえる、と思いきや、さらなるお小言が飛んできた。
「お体が悪いのに、そのような声を出してはなりません!」
「ちょ、ちょっと体が怠いだけで、他はなんともないわ」
「いや、その怠さが何かの病、という可能性もあるんだ。今は静かに休んだ方がいい」
「そうですわ。惟久様の言う通り、もうお眠りになる方がよろしいかと」
「……安心させるために呼んで来てもらったというのに、ちょっと酷いんじゃない? 惟久様もです」
それでも尚、何か言いたそうにしている二人に向かって、キッと睨んでみせる。けれど体が怠いからなのか、次の瞬間、眩暈に襲われた。
二人が私の名を呼んでいるように見えるが、その顔さえぼやけて何を言っているのか分からない。ただ分かるのは、もう目を開けていられないことだった。
まだまだ二人には文句を言いたいのに……それすら言えないなんて。本当にどうしてしまったのかしら。
その理由を知ったのは、翌日。宣言通り、侍医が帳の内までやってきたのだ。勿論、その場に惟久様はいらっしゃらない。けれどこの時ばかりはいてほしいと願ってしまった。
***
「い、今、なんとおっしゃいましたか?」
侍医の言葉は聞き取れた。けれどそれが嘘であってほしくて、私は再度、尋ねた。
「ご懐妊でございます」
「……誤診、という可能性は?」
「弘徽殿女御様。お認めになりたくないのは分かりますが、事実です。受け入れてくだされ」
「だけど、私が入内したのは数日前よ。帝が不在だという噂以前に、おかしいと怪しまれてしまうわ」
身に覚えがあるのは、惟久様との一夜のみ。そういうこともある、と聞いていたけれど、私の身に振りかかるなんて。それも入内した後。なんて間が悪いの?
こんな状況でなければ、喜んだものを。ううん。常盤院にいたら、誰の子だとお父様に叱られ、産むことすら許してもらえないだろう。
「弘徽殿女御様は、その帝の不在を隠すために入内なさったのでしょう。長く後宮で侍医をしておりますから、耳にしなくても察知しておりました」
「ありがとう。だけどこの子を帝の子として産むわけには……」
「いいえ、お産みください。弘徽殿女御様は帝のいとこです。血筋としては問題もなく、帝がお戻りになるのかも分からぬこの状況。であるのならば、問題はないかと」
「大ありよ! 侍医の言うことよりも、この子を産めば、さらに帝の不在を隠すことはできる。でも、誰が納得するの? こんな短期間で妊娠なんて、あり得ないでしょう? すぐに不貞だと疑われるわ」
この後宮にいられないばかりか、都にだっていられるか分からない。このまま床に伏せて泣きたい気分だった。
「ふむ。そう嘆くことはありません。この侍医。これまでも後宮で、数々の女御様たちを診てきたのですぞ。それくらい、どうということはありません」
「……侍医は、私の不貞を非難しないの?」
「わざわざこの時期に入内なさったのです。帝の不在を隠すこと以外にも、何か抱えているのではないか、と勘繰るのは無理もないことだと思いますよ」
「あっ、そうね。ありがとう」
「いいえ。これからお体が変化し、不安になることも増えましょう。私に出来るのは、弘徽殿女御様の不安要素を取り除くことくらいです」
本当に数多の女性を診てきたのだろう。静かにゆっくりと話す侍医の言葉が、私の心を温かくした。
「当面は、具合が悪いと床に伏せているのがよろしいかと。そしてお腹が大きくなる前に、懐妊宣言をし、そのままご実家にお帰りなさいませ」
「宣言と同時に帰ったら、ますます怪しまれないかしら」
「それは左大臣様次第でしょうな。ギリギリまで娘を入内させなかったのですから、世間では大層可愛がられている、との評判です」
本当は私が入内したくない、と駄々を捏ねていただけなんだけど。
「愛娘の出産となれば、すぐにでも、と思うはず。そうなれば、承香殿女御様も不思議に感じないでしょう。ただ問題なのは、出産後です。まだ先の話ですが、お聞きください」
「……はい」
「あなた様は弘徽殿女御様だ。御子をお産みになった後も、この後宮で過ごさなければならない身。その時は後宮の事情も変わっているやもしれません。どうか、そのお覚悟もなさっておいでください」
「ご忠告、痛み入ります」
侍医の助言は、とても有り難かった。それと共に襲い掛かる、大きな不安。私は何事もなく、この後宮から出られるのだろうか。
惟久様が几帳の奥へ行かれてから、ほんの僅か。待つ暇もなく、小侍従が顔を出した。それも大きな声で駆け寄るものだから、叱責するべきか、それとも労うべきなのか、迷ってしまった。
幸いなことに、声の主が小侍従だったからだろう。弘徽殿を取り仕切る女房の声が響く分には、誰も不思議には思わないらしい。おそらく女房の誰かが粗相をしたのだと思ったのかもしれない。
実際は女房ではなく、弘徽殿の主である私なのだけど。
「良かったです。お目覚めになられて。病弱でもなかったのに、後宮に来てから急に具合が悪くなられるなんて……物の怪の仕業ではないか、と心配しておりました」
「もう、大袈裟ね」
「そんなことはありません。後宮にはそういうものが付きものだといいますし。何より桐壺女御様も、それで神隠しに遭われたのかもしれない、という噂を聞きました」
「でもこの後宮で神隠しだなんて……」
けれど実際に失踪しているのだから、否定できなかった。
「ですから、明日にでも祈祷していただこうかと思っているのですが」
「えっ! 祈禱? どうして!?」
「小侍従、落ち着け」
「惟久様……」
あまりの剣幕にたじろいていると、救いの手がやってきた。けれど、すぐにそれは思い過ごしだと知る羽目になる。
「先に侍医を呼ぶことになっていただろう」
「侍医!?」
「そうでした。惟久様の言う通り、そちらが先ですね。病名が分かれば、祈禱をしてもらうこともないでしょうし」
「いや、病気が重い場合もあるだろう。手配する準備だけでも――……」
「二人とも!」
私を放って白熱する惟久様と小侍従に向かって大声を出す。これで私の言い分も聞いてもらえる、と思いきや、さらなるお小言が飛んできた。
「お体が悪いのに、そのような声を出してはなりません!」
「ちょ、ちょっと体が怠いだけで、他はなんともないわ」
「いや、その怠さが何かの病、という可能性もあるんだ。今は静かに休んだ方がいい」
「そうですわ。惟久様の言う通り、もうお眠りになる方がよろしいかと」
「……安心させるために呼んで来てもらったというのに、ちょっと酷いんじゃない? 惟久様もです」
それでも尚、何か言いたそうにしている二人に向かって、キッと睨んでみせる。けれど体が怠いからなのか、次の瞬間、眩暈に襲われた。
二人が私の名を呼んでいるように見えるが、その顔さえぼやけて何を言っているのか分からない。ただ分かるのは、もう目を開けていられないことだった。
まだまだ二人には文句を言いたいのに……それすら言えないなんて。本当にどうしてしまったのかしら。
その理由を知ったのは、翌日。宣言通り、侍医が帳の内までやってきたのだ。勿論、その場に惟久様はいらっしゃらない。けれどこの時ばかりはいてほしいと願ってしまった。
***
「い、今、なんとおっしゃいましたか?」
侍医の言葉は聞き取れた。けれどそれが嘘であってほしくて、私は再度、尋ねた。
「ご懐妊でございます」
「……誤診、という可能性は?」
「弘徽殿女御様。お認めになりたくないのは分かりますが、事実です。受け入れてくだされ」
「だけど、私が入内したのは数日前よ。帝が不在だという噂以前に、おかしいと怪しまれてしまうわ」
身に覚えがあるのは、惟久様との一夜のみ。そういうこともある、と聞いていたけれど、私の身に振りかかるなんて。それも入内した後。なんて間が悪いの?
こんな状況でなければ、喜んだものを。ううん。常盤院にいたら、誰の子だとお父様に叱られ、産むことすら許してもらえないだろう。
「弘徽殿女御様は、その帝の不在を隠すために入内なさったのでしょう。長く後宮で侍医をしておりますから、耳にしなくても察知しておりました」
「ありがとう。だけどこの子を帝の子として産むわけには……」
「いいえ、お産みください。弘徽殿女御様は帝のいとこです。血筋としては問題もなく、帝がお戻りになるのかも分からぬこの状況。であるのならば、問題はないかと」
「大ありよ! 侍医の言うことよりも、この子を産めば、さらに帝の不在を隠すことはできる。でも、誰が納得するの? こんな短期間で妊娠なんて、あり得ないでしょう? すぐに不貞だと疑われるわ」
この後宮にいられないばかりか、都にだっていられるか分からない。このまま床に伏せて泣きたい気分だった。
「ふむ。そう嘆くことはありません。この侍医。これまでも後宮で、数々の女御様たちを診てきたのですぞ。それくらい、どうということはありません」
「……侍医は、私の不貞を非難しないの?」
「わざわざこの時期に入内なさったのです。帝の不在を隠すこと以外にも、何か抱えているのではないか、と勘繰るのは無理もないことだと思いますよ」
「あっ、そうね。ありがとう」
「いいえ。これからお体が変化し、不安になることも増えましょう。私に出来るのは、弘徽殿女御様の不安要素を取り除くことくらいです」
本当に数多の女性を診てきたのだろう。静かにゆっくりと話す侍医の言葉が、私の心を温かくした。
「当面は、具合が悪いと床に伏せているのがよろしいかと。そしてお腹が大きくなる前に、懐妊宣言をし、そのままご実家にお帰りなさいませ」
「宣言と同時に帰ったら、ますます怪しまれないかしら」
「それは左大臣様次第でしょうな。ギリギリまで娘を入内させなかったのですから、世間では大層可愛がられている、との評判です」
本当は私が入内したくない、と駄々を捏ねていただけなんだけど。
「愛娘の出産となれば、すぐにでも、と思うはず。そうなれば、承香殿女御様も不思議に感じないでしょう。ただ問題なのは、出産後です。まだ先の話ですが、お聞きください」
「……はい」
「あなた様は弘徽殿女御様だ。御子をお産みになった後も、この後宮で過ごさなければならない身。その時は後宮の事情も変わっているやもしれません。どうか、そのお覚悟もなさっておいでください」
「ご忠告、痛み入ります」
侍医の助言は、とても有り難かった。それと共に襲い掛かる、大きな不安。私は何事もなく、この後宮から出られるのだろうか。



