帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 夕日に染まった清涼殿(せいりょうでん)。普段ならば大臣や官人が帰り、女官たちが出入りしている時間帯だ。主がいないせいか、その姿は見えない。

 けれど内裏には、その者たち以外にもいる。警備をしている近衛少将(このえしょうしょう)たちもそうだが、未だ帰らず、内裏をうろうろしている者たちの姿もある。おそらく女官か、後宮にいる女房たち目当ての者か、もしくは通っている者なのかもしれない。
 お陰で私が内裏を歩いていても、怪しむ者はいなかった。

「惟久様」

 清涼殿から後宮に向かって歩いている時だった。欄干越しに、簀子縁から呼び止められた。顔を向けると、尚侍が辺りを確認しながら、欄干に近づく。私もそれに合わせるようにして近づくと、尚侍の手から、小さくて可愛い猫が顔を覗かせた。

「この猫かい? 随分と大人しい子だね」
「惟久様が直々にお渡しに行きたい、となれば、このような猫が妥当かと思ったのです」
「そうだね。途中で鳴かれては困ってしまう」

 夕暮れ時で、さらに帝が不在の中、身内でもないのに、後宮に官人が出入りするわけにはいかない。尚侍を始め、女官たちは私を知っているが、下手に騒がれても困るのだ。

 帝がいれば言い訳もできるが……千景の負担にはなりたくない。私は今からその千景の元に、この猫を届けに行くのだから。

「それに、三毛猫というのがまたいい」

 宝泉寺の境内で千景が見つけた母猫もまた、三毛猫だった。柄もなんとなくだが、似ているような気もする。
 後宮に入ったばかりか、色々とやることの多い千景のことだ。今頃、疲れているのではないだろうか。そんな時に、この懐かしさを思い浮かぶ猫を見たら、気が晴れるかもしれない。

「千景が喜びそうだ」
「……女御様を大切に思われているのですね」
「入内など、させたくないくらいにね」
「そうでしたか。だから、この時期に入内を。惟久様もお人が悪いことで」
「なに、帝も知っていることだよ? だから千景の入内を強引に進めなかったのさ。帝もまた、千景に嫌われたくないからね」

 当の千景は、そんな帝の気持ちに、一切気づいていないようだけど。

 帝は常に人の感情、特に負の感情が渦巻くところにいるからか。ご自分にそういう感情をぶつけることも、向けることもしない千景をお気に召したのだろう。それが恋なのか、好意なのかは気づいていらっしゃらない。ただ千景に嫌われることを恐れていた。唯一、気軽に話せる私に対しても。
 だから尚侍の言うことにも、一理あった。

「そんな女御様であっても、帝の行方はご存じないのですね」
「千景の反応を見ても、帝から何かを受け取っていた様子はなかったよ。筒井筒としての心配はしているようだけど、それ以上の感情はないどころか、自分の入内話が消えたのではないか、と思っていたくらいだからね」
「まぁ。それなのに入内を。私ったら、そんなことも知らずに、恨み節のようなことを言ってしまいました」
「千景に?」
「そんなに怒らないでくださいませ。ただ承香殿女御様には、お気をつけるように忠告したまでです」

 おおかた、弘徽殿に入った千景に、どうしてもっと早く入内してくれなかったのか、と遠回しに言ったのだろう。そんなことで傷つく千景ではないが、後宮に入って早々、恨み節を言われれば多少なりと動揺するだろう。

 これは早々に千景の元へ行かねば。だが、こちらも一言、忠告しなければ気が済まなかった。

「出は似ているが、千景は承香殿女御とは違う。まさか同じだと、侮っていたとはな」
「そ、そのようなことはっ!」
「千景は帝にとっても大事な筒井筒。あまり無礼を働けば……分かっているな」
「……誠心誠意を持ってお仕えさせていただきます」
「そう願うよ」

 尚侍は私の言葉を聞くと、踵を返し、清涼殿の中へと消えていった。

 私の言葉は帝の言葉ではない。けれど尚侍も私が影武者になると思っているのだろう。そうなるかどうかは、まだ分からぬ未来だが、私は来ないことを祈っている。

 もしかしたら、その前に帝が戻るかもしれないからだ。


 ***


 警備の目を掻いくぐり、弘徽殿に近づくことは容易かった。ここまで堂々と入り込むからには、後宮にいる者の縁の者か、従者か、と思われ易いからだ。下手に捕まえて、己の首が飛ぶのが怖いともいえる。

 そもそも内裏の警備の方が厳しいため、その後ろにある後宮の警備が緩くなってしまうのだ。帝の妻たちに手を出すこと自体が罪だからだ。

「ん?」

 千景が休んでいると思われる局に着くと、なぜか蔀戸(しとみど)も妻戸も閉じている。どうしたものか、と悩んでいると、妻戸が開き、中から芹が出てきた。

「あっ、惟久様。ちょうど良いところに来られました」
「ちょうどいい? 何かあったのかい?」

 芹の慌てように、一瞬、嫌な予感が過ぎる。先ほど、尚侍と話をしていたからだろうか。承香殿女御と揉め事でも起こしたのではないか、と思ったのだ。

「実は……いえ、こちらに上がって来てもらえないでしょうか。説明するより、見ていただいた方が速いかと思われます」
「分かった。急いでそちらへ行く」

 私は近くの(きざはし)を駆け上がり、芹の元へ行く。そのまま開け放たれた妻戸の奥へと入り、芹の脇を通り過ぎる。後ろから妻戸を閉じる音が聞こえたが、芹を待っている暇が惜しかった。私は御簾を開け、局の中へと入る。

「っ!」

 脇息にうつ伏せになっている千景の姿を見て、思わず声が出そうになった。なるべく静かに来たつもりでも、妻戸や御簾を上げる音は耳に入るだろう。それなのに、千景は顔を上げるどころか、無反応だった。

「何があった?」
「私が知る限りでは何もありませんでした。ただ女御様の顔色がよくなかったため、早目の就寝を勧めたのです。その準備をしている間に、このようなことに」
「すまないが、猫を預かっていてもらえるか?」
「えっ、あっ、はい」

 そっと近づき、千景の口元に耳を寄せる。すると、静かで整った呼吸が聞こえ、ただ眠っているだけだと分かった。

「大丈夫。呼吸が乱れている様子はない。だけど芹、いや小侍従だったか。おまえの言う通り、顔色がよくないね」
「そうなのです。だから……」
「あとで侍医を寄こしてもらう。今は千景を寝かせなければ。このままにはしておけない」
「はい」

 私が千景を抱き上げると、小侍従が奥にあった几帳を横にずらす。そっと敷き畳の上に置き、(うちぎ)を脱がして、そのまま(ふすま)をかけた。

「小侍従。侍医は明日になったら呼んでくれ」
「それは構いませんが、なぜですか?」
「今宵は私がここで千景を診ているからだ。何かあれば、すぐに知らせる。駄目だろうか?」
「……私は簀子縁で待機しておきます。尚侍様より、承香殿女御様を気をつけるように、と言付かったためだと言えば、不審に思われないかと」
「助かるよ」
「いえ、私も惟久様がお傍にいてくださる方が、心強いので」

 いくらしっかりした小侍従でも、慣れない後宮では不安なのだ。それは千景もまた同じ。早々に尚侍と対面して、気疲れしたのではないだろうか。
 幼い頃から元気な姿しか見ていなかったために、このような千景の姿を見るだけで、胸が絞めつけられるようだった。