帝不在の平安後宮〜それでも私が入内する理由〜

 結局、何も得られないまま、尚侍を下がらせた。分かったのは、この異常事態に、承香殿女御が知らないということだけだった。それを哀れだとは思うものの、お近づきにはなりたくなかったため、私も尚侍たちに倣うことにした。

 だって、自業自得なんだもの。

 脇息(きょうそく)に肘をかけ、そんな考えに浸っていると、簀子縁から布を引きずる音が聞こえてきた。誰の先触れがないことから、おそらくこの弘徽殿にいる女房の誰かだろう。
 密かにそれが小侍従だったらいいな、と思っていると、御簾の向こう側から声が聞こえてきた。

「女御様。小侍従にございます。よろしいでしょうか」
「えぇ、大丈夫よ」

 そっと局に入って来る小侍従の姿を見るだけで、先ほどまでの緊張の糸が解けていく。ずっと傍にいてくれていたお陰か、小侍従がいるだけでまるで我が家のように感じるからだ。

 ふと、そのような人物が、帝にはいなかったのか、と思ってしまう。幼なじみなのに、帝のことを何も知らない。惟久様のことなら、なんでも知りたいのに。

「どうかされましたか? 顔色がよくありませんが」
「尚侍に話を聞いたんだけど、思うような成果が得られなかったのよ」

 得たのは、お祖母様と惟久様から聞いた話の信憑性が高まったこと。そして承香殿女御に対しては、より慎重になることを、改めて実感させられたのだ。

 あとは帝の人となりだろうか。直接交流があったのは幼少期で、その後は文のやり取りをするくらいだった。その文を持って来てくれるのは、惟久様だったから、頻度は少ないけれど。

 よくよく考えてみれば、そのやり取りをしていたのだから、惟久様が内裏、いやこの後宮で顔が利くのは無理もない話だった。
 諸国の情報を帝に報告しているのだって、内政を知らなくては、どの情報が有益無益なのか判別のつきようがない。だから尚侍といった女官たちと、親しい間柄である必要があったのだ。

 そんな愚痴を話していると、小侍従が袖で口元を隠しながら、クスリと笑った。

「少し心配していたのですが、これならば私が忠告しなくてもよさそうですね」
「そんなことはないわ。昨日今日、後宮に入ったばかりの新参者なのだから、皆、様子を見ているだけよ」
「だから安心した、と申し上げたのです。常盤院にいた時と比べると、お人が変わったかのように見えまして」
「あ、当たり前じゃない。こんな……弘徽殿に入れられて、昔のように振る舞うことなんてできないわ」

 帝がいようがいまいが、弘徽殿という品格を、私が落とした、なんて言われたくはない。これは左大臣家の一の姫としてではなく、歴代の女御様に対する想い。
 『源氏物語』ではあまり良い印象がないけれど、それでも私にとっては憧れの殿舎だった。

「それよりも、小侍従の方はどうだったの?」
「私の方も、新参者であるため、すぐには心を開いてはもらえませんでした。けれど承香殿女御様を牽制する役として、女御様に期待している、という声を多く聞きました」
「……尚侍からは忠告と嫌味のようなことは言われたけど、他の者は違うのね」
「それは……尚侍様がご苦労されているからだと思います。帝は承香殿女御様よりも、桐壺女御様に、随分と御心を砕いてお出でのようでしたから」
「だけど桐壺女御様は失踪してしまわれた。やはり原因は承香殿女御?」

 これまでの話を総合すると、どうしてもそこに行きついてしまう。実際、帝の寵愛を受けていたのか、は定かではない。尚侍も小侍従も、断言していないのだ。けれど桐壺女御様が特別扱いを受けている、と承香殿女御が考えていたとしてもおかしくはない状況であったことは確かだ。

「嫌がらせがあったのは、事実のようです。桐壺女御様の方では支度ができない式典を、わざと開いたり、聞こえるようにお衣装を貶したりしていた、とお聞きしました」
「……そのようなことをすれば、ますます帝に嫌われるようなものを」

 自分の立場をさらに悪くしてどうするのかしら。お陰で私が嫌味を……ううん、そこは関係ないわよね。私は後宮の内情を、本当に知らなかったんだから。

「女御様。この話は一旦やめましょう」
「どうして? まだ報告があるのなら、聞くわよ」
「いえ、本当に顔色がよくないので、お加減が優れないのかと」
「そんなことはないわよ」

 でも小侍従は、局に入ってくる前から、同じことを言っていた。私自身は、特に体調が悪いとは感じていない。

「やはりお話は明日にしましょう。今はもうお休みになられた方がいいです。自覚症状がない、というところが余計に怖いですから」
「えっ、でも、これから猫を受け取る予定があるのよ。寝てなんかいられないわ」
「猫? あぁ、そうでした。どうしましょう。明日にしてもらえるか、お聞きしますので、ひとまず今は、どうか小侍従の言うことを聞いてくださいませ」

 小侍従には、猫を貰い受けることがどういうことなのか、事前に説明してある。それなのにも拘わらず、どうしても私を休ませたいらしい。
 ますますもって不可解なことだったが、ここは大人しく従うことにした。私以上に私のことを知っている小侍従が言うのだ。間違いないだろう。

「そうね。小侍従の言う通り、もう休むことにするわ」
「ではすぐにお支度をいたします」

 いつものようにお辞儀をし、立ち上がる小侍従。私の身の回りは常に小侍従が整えてくれているため、弘徽殿に来ても、それは変わらない。慣れた手つきで準備をしている小侍従だが、どこか嬉しそうだった。

 珍しく私が、大人しく引き下がったからだろう。脇息を枕代わりにうつ伏せにしていると、瞼が自然と下りた。御簾を下ろす音。何かを移動させている音が聞こえるが、几帳なのか屏風なのか、までは分からない。
 けれどその音は、実家である常盤院と何も変わらなかった。