「弘徽殿女御様は、帝よりも先に、桐壺女御様がこの後宮から失踪したことはご存知ですか?」
後宮の内情を知らない、と言った手前、ここはやはり確認が必要なのだろう。私は再び扇を広げた。
「えぇ。でもお祖母様は、この二つの失踪に因果関係はない、というお考えだったわ。尚侍はどうなの? 帝の話よりも先に、桐壺女御様の話をした、ということは、やはり関係があるのかしら」
「私は……あると思っています」
「理由を聞かせてちょうだい」
「はい。桐壺女御様が失踪する前日の夜、帝は淑景舎でお休みになられたからです。おそらくその原因を帝は知っておられたからこそ、桐壺女御様の失踪を隠したのではないか、と思ったのです」
惟久様が都に戻ってきたのは、その桐壺女御様の行方を捜させるためだとおっしゃっていた。尚侍がそのような答えに行きつくのも、無理はないだろう。けれどお祖母様は違うという見解に至った。それは帝の残した文と辻褄が合わなかったからだ。
「では、『しばらく一人になりたい』という文を残したのはなぜかしら? 失踪した桐壺女御様を探しに行かれたのだとしたら、護衛の一人くらい伴ってもいいはずだわ」
帝は諸国を旅している惟久様とは違い、そこまで腕に自信がある方ではない。宝泉寺で共にいた頃も、帝を中心にする遊びはもっぱら絵を描くことだった。かくれんぼや木登りのような体を使った遊びは、あまり得意ではなかったからだ。
「それとも、帝と桐壺女御様の関係が良かったから?」
「……少なくとも承香殿女御様よりかは、桐壺女御様のところの方へよく行かれてました」
「まぁ。それでは桐壺女御様も大変だったのでは? 話を聞く限り、承香殿女御様は自尊心がお高いようだから」
さすがに我が儘とはいえず、言葉を濁した。下手に承香殿女御の耳に入り、ここ弘徽殿に乗り込んでこられでもしたら、堪ったものではない。私は帝の寵愛を争うために入内したのではないのだから。
けれど尚侍にとっては、驚くようなことだったのだろう。少し間を置いてから口を開いた。
「申し訳ございません。帝と同じように表現なさるものですから。本当に筒井筒の仲なのですね。いえ、疑っていたわけではないのですが」
「ふふふっ。いいのよ。それに私はただ単に、争いごとを避けたかっただけ。帝は……お優しいから、そのような言葉を使ったのでしょう」
「はい。私どももそのように感じましたので、桐壺女御様に対しては、格別に配慮いたしました。帝もご承知の上です」
「だけど桐壺女御様は失踪してしまわれた。置き文を見つけた時、後宮内はどのような様子だったの? 帝を最後に見たのはいつ?」
どんなご様子だった? と矢継ぎ早に出そうになった質問をグッと呑み込み、扇で口元を隠した。いくら気になる、といっても、さすがにこれはやり過ぎだと思ったからだ。
「ここからは順を追って説明いたします」
***
帝の置き文を見つけたのは、桐壺女御様が失踪してから二週間後のことだったという。それまでの帝は、惟久様に捜索を頼む文を送ったことから分かるように、内裏にいる者たちにも、密かに命じていたという。
憔悴した様子はあるものの、桐壺女御様の失踪が外部に漏れないように、睨みを利かせていたようだ。だから尚侍も、さほど心配していなかったらしい。
帝はお優しいし、私の入内話が出ていても、無理に進めることはない、と尊重してくださる方なのだ。おそらく後宮の女官、女房達に対しても、そうだったのだろう。そうでなければ、帝の不在を隠しはしない。
帝の座を狙う兄弟宮、その後ろ盾となり、力を得ようとする者たちが後を絶たないのだから。
そのような者たちに、後宮の秩序を乱されることを恐れた可能性も否定できないけれど、ここは前向きに考えたかった。
「桐壺女御様の失踪を、ご自分の責任だとおっしゃられていましたし、帝の性格から、無理に連れ戻そうという感じには見えませんでした。おそらく形ばかりの捜索をし、桐壺女御様のことは、そっとしてあげようとしていたのではないか。私どもは、そのように考えておりました」
「それはどうかしら。そっとしてあげたい気持ちは分かるけれど、主のいない淑景舎にいる女房たちが哀れだわ。彼女たちのことも考えるのならば、里に返すなり、次のお勤め先を斡旋してあげるために、桐壺女御様の失踪を公にする必要があると思うの」
失踪を公にせず、桐壺女御様に仕えている女房達が、次々に後宮から出て行けば、誰だって怪しむ。特に何の理由もない、となれば女房の方に問題が? と疑われてしまうからだ。
それなら返って公にした方がいい。桐壺女御様の後見人である八の宮様は、お父様や右大臣ほどの野心はないのだから。
「弘徽殿女御様のような方がいらっしゃれば、帝にそのように進言できたでしょう。けれどそうなると、後宮にいる女御様は承香殿女御様、ただお一人。そこを帝も察しておられたのでしょう」
尚侍のいうことも一理ある。対抗馬のいなくなった後宮など恐れるものなど何もなし、と思った承香殿女御がどのように動くか。想像しなくても、皆、不安になったことが手に取るように分かった。
「つまり、それに耐え切れず、帝もこの後宮から出て行ってしまわれたのかしら」
「承香殿女御様と渡り合える姫様はおらず、宮家の姫様を養女にして入内させる公卿もおりませんでしたから」
暗に私のせいだといわれているようで、気まずくなった。
「けれど置き文を残される日まで、帝はいつも通りでございました。思いつめている雰囲気や、憔悴しきったご様子もなく。ただただ私どもは驚くしかなかったのです」
「感情を表に出さず、ずっと内に込めていたものを、突然爆発させる者はいるわ。分からなかったけれど、帝もそういう人間だったのかもしれないわね」
「……では、どうすれば良かったのでしょうか。私どもは、帝に甘え過ぎて――……」
「尚侍も私も。できることは限られているわ。それに後宮がこのような状態であっても、帝は強引に私の入内を進めなかった。つまり、帝が求めたのは、私たちではなかったのよ」
片や幼なじみとして、片や仕えていた者として、それは寂しいことだけど、私も尚侍も、どうすることもできなかったのだ。
なぜ帝は桐壺女御様の失踪を隠し、自らも行方知れずになってしまったのか。結局のところ、その御心を知る者など、誰一人いなかったのだ。
そう、誰一人。御心を癒す者がいない後宮で、帝は……疲れてしまったのかもしれない。けれど現実は残酷で、桐壺女御様のようにそっとしてあげることはできないのだ。
帝が不在の中、東宮を立てること以外は……。
後宮の内情を知らない、と言った手前、ここはやはり確認が必要なのだろう。私は再び扇を広げた。
「えぇ。でもお祖母様は、この二つの失踪に因果関係はない、というお考えだったわ。尚侍はどうなの? 帝の話よりも先に、桐壺女御様の話をした、ということは、やはり関係があるのかしら」
「私は……あると思っています」
「理由を聞かせてちょうだい」
「はい。桐壺女御様が失踪する前日の夜、帝は淑景舎でお休みになられたからです。おそらくその原因を帝は知っておられたからこそ、桐壺女御様の失踪を隠したのではないか、と思ったのです」
惟久様が都に戻ってきたのは、その桐壺女御様の行方を捜させるためだとおっしゃっていた。尚侍がそのような答えに行きつくのも、無理はないだろう。けれどお祖母様は違うという見解に至った。それは帝の残した文と辻褄が合わなかったからだ。
「では、『しばらく一人になりたい』という文を残したのはなぜかしら? 失踪した桐壺女御様を探しに行かれたのだとしたら、護衛の一人くらい伴ってもいいはずだわ」
帝は諸国を旅している惟久様とは違い、そこまで腕に自信がある方ではない。宝泉寺で共にいた頃も、帝を中心にする遊びはもっぱら絵を描くことだった。かくれんぼや木登りのような体を使った遊びは、あまり得意ではなかったからだ。
「それとも、帝と桐壺女御様の関係が良かったから?」
「……少なくとも承香殿女御様よりかは、桐壺女御様のところの方へよく行かれてました」
「まぁ。それでは桐壺女御様も大変だったのでは? 話を聞く限り、承香殿女御様は自尊心がお高いようだから」
さすがに我が儘とはいえず、言葉を濁した。下手に承香殿女御の耳に入り、ここ弘徽殿に乗り込んでこられでもしたら、堪ったものではない。私は帝の寵愛を争うために入内したのではないのだから。
けれど尚侍にとっては、驚くようなことだったのだろう。少し間を置いてから口を開いた。
「申し訳ございません。帝と同じように表現なさるものですから。本当に筒井筒の仲なのですね。いえ、疑っていたわけではないのですが」
「ふふふっ。いいのよ。それに私はただ単に、争いごとを避けたかっただけ。帝は……お優しいから、そのような言葉を使ったのでしょう」
「はい。私どももそのように感じましたので、桐壺女御様に対しては、格別に配慮いたしました。帝もご承知の上です」
「だけど桐壺女御様は失踪してしまわれた。置き文を見つけた時、後宮内はどのような様子だったの? 帝を最後に見たのはいつ?」
どんなご様子だった? と矢継ぎ早に出そうになった質問をグッと呑み込み、扇で口元を隠した。いくら気になる、といっても、さすがにこれはやり過ぎだと思ったからだ。
「ここからは順を追って説明いたします」
***
帝の置き文を見つけたのは、桐壺女御様が失踪してから二週間後のことだったという。それまでの帝は、惟久様に捜索を頼む文を送ったことから分かるように、内裏にいる者たちにも、密かに命じていたという。
憔悴した様子はあるものの、桐壺女御様の失踪が外部に漏れないように、睨みを利かせていたようだ。だから尚侍も、さほど心配していなかったらしい。
帝はお優しいし、私の入内話が出ていても、無理に進めることはない、と尊重してくださる方なのだ。おそらく後宮の女官、女房達に対しても、そうだったのだろう。そうでなければ、帝の不在を隠しはしない。
帝の座を狙う兄弟宮、その後ろ盾となり、力を得ようとする者たちが後を絶たないのだから。
そのような者たちに、後宮の秩序を乱されることを恐れた可能性も否定できないけれど、ここは前向きに考えたかった。
「桐壺女御様の失踪を、ご自分の責任だとおっしゃられていましたし、帝の性格から、無理に連れ戻そうという感じには見えませんでした。おそらく形ばかりの捜索をし、桐壺女御様のことは、そっとしてあげようとしていたのではないか。私どもは、そのように考えておりました」
「それはどうかしら。そっとしてあげたい気持ちは分かるけれど、主のいない淑景舎にいる女房たちが哀れだわ。彼女たちのことも考えるのならば、里に返すなり、次のお勤め先を斡旋してあげるために、桐壺女御様の失踪を公にする必要があると思うの」
失踪を公にせず、桐壺女御様に仕えている女房達が、次々に後宮から出て行けば、誰だって怪しむ。特に何の理由もない、となれば女房の方に問題が? と疑われてしまうからだ。
それなら返って公にした方がいい。桐壺女御様の後見人である八の宮様は、お父様や右大臣ほどの野心はないのだから。
「弘徽殿女御様のような方がいらっしゃれば、帝にそのように進言できたでしょう。けれどそうなると、後宮にいる女御様は承香殿女御様、ただお一人。そこを帝も察しておられたのでしょう」
尚侍のいうことも一理ある。対抗馬のいなくなった後宮など恐れるものなど何もなし、と思った承香殿女御がどのように動くか。想像しなくても、皆、不安になったことが手に取るように分かった。
「つまり、それに耐え切れず、帝もこの後宮から出て行ってしまわれたのかしら」
「承香殿女御様と渡り合える姫様はおらず、宮家の姫様を養女にして入内させる公卿もおりませんでしたから」
暗に私のせいだといわれているようで、気まずくなった。
「けれど置き文を残される日まで、帝はいつも通りでございました。思いつめている雰囲気や、憔悴しきったご様子もなく。ただただ私どもは驚くしかなかったのです」
「感情を表に出さず、ずっと内に込めていたものを、突然爆発させる者はいるわ。分からなかったけれど、帝もそういう人間だったのかもしれないわね」
「……では、どうすれば良かったのでしょうか。私どもは、帝に甘え過ぎて――……」
「尚侍も私も。できることは限られているわ。それに後宮がこのような状態であっても、帝は強引に私の入内を進めなかった。つまり、帝が求めたのは、私たちではなかったのよ」
片や幼なじみとして、片や仕えていた者として、それは寂しいことだけど、私も尚侍も、どうすることもできなかったのだ。
なぜ帝は桐壺女御様の失踪を隠し、自らも行方知れずになってしまったのか。結局のところ、その御心を知る者など、誰一人いなかったのだ。
そう、誰一人。御心を癒す者がいない後宮で、帝は……疲れてしまったのかもしれない。けれど現実は残酷で、桐壺女御様のようにそっとしてあげることはできないのだ。
帝が不在の中、東宮を立てること以外は……。



