都では、ある噂が流れていた。けれど今の私にとって、そんなことなど、どうでもいい。関係ないのだ。いや、そう思いたいからなのかもしれない。今の私にとって、誰が何を噂していようが、関心は別のところにあったからだ。
「千景様、お見えになられました」
簀子縁から待ち人の来訪を知らせる声が聞こえてきた。けれどその声は、私の逸る気持ちとは違い、戸惑いの色が見える。
それもそのはずだ。私の待ち人は、このような夜中にひっそりと屋敷を訪れるような、無粋な人ではない。それを私付きの女房、芹も分かっているのだろう。
だけどあの方から文を受け取ったのは、明朝のこと。今宵の訪問を知らせる文に、どれほど心躍らせたことか。芹は訝しんでいたが、そんなことは関係ない。
なにせ相手は一年振りに会う、初恋の人なのだから。
「お通ししてちょうだい」
「……あの、本当によろしいのでしょうか」
「芹? 何を今更、どうしたというの?」
「申し訳ございません、千景様。後で問題になるのではないか、と思いまして」
「相変わらず芹は臆病なのね。問題になったとしても、すべての責任は私にあるのだから。芹にいくことはないから安心なさい」
それでも芹は「しかし~」と言ったきりで、その場から離れる気配がなかった。私は妻戸を引き、芹を見下ろした。
年は私より上だが、臆病……いや心配性であるため、姉というよりも妹という感覚に近い。今回のように、未婚の私が、男性を通わせるような真似をしているのが気がかりなのだろう。
なにせ私は左大臣家の一の姫。ゆくゆくは入内し、果ては中宮と期待されているのだ。そのような娘が、と芹が心配するのも理解できた。
私はその場にしゃがみ込み、優しく語りかけた。
「お願いよ、芹。私の気持ちは知っているでしょう?」
「はい」
「そして、それを知っているのは芹だけではない、ということも」
「……承知しております」
絞り込むようにしていう芹に、私はニコリと笑った。
「だから大丈夫。さぁ、呼んで来てちょうだい。向こうも首を長くしているかもしれないから」
「その心配はいらないよ」
「え?」
懐かしい声に振り向くと、深緑色の狩衣をまとった公達が立っていた。月明かりに照らされた姿は美しく、思わず幻かと疑ってしまうほどだった。
「惟久、様?」
「ふふふっ、どうして疑問形なんだい?」
「あっ、それは……惟久様が」
あまりにも美しくて、といいかけた口を噤む。おそらく、そのような言葉は何度も聞いているだろう。私はそんなありきたりな言葉を、久しぶりに会った好きな人に投げかけたくはなかったのだ。
「文は送ったはずだけど、千景を驚かせてしまったようだね。あと、迷惑もか」
「……お気になさらず。そのように返事をしたではありませんか。惟久様もお忘れですか?」
「いや。だからこそ、待ちきれずにこうしてやってきてしまったのではないか」
「っ!」
思わず袖で顔を隠す。すると、当然のようにその手を取られ、おそらく赤くなったであろう顔が月明かりの元に晒された。
視線を逸らしても、惟久様が優しい表情をしていることが、手に取るように分かる。なぜなら私たちはいとこであり、幼なじみでもあったからだ。
昔から私が照れると、優しい顔で覗き込み、「可愛い」とおっしゃってくれる。だから今回もそういうのだろうと思っていたら……。
「千景のそのような顔を見るのが、今後も私だけならいいのにな」
「惟久様? それはどういう意味ですか?」
「……ここで長話をする気かい?」
「あっ、いえ、そのようなつもりは」
何かはぐらかされたような気はしたが、惟久様の言う通り、ここで長話をしていたら、芹以外の女房たちに見つかってしまう。私は慌てて、自分の局に惟久様を招き入れた。
「……千景は、私がどうしてこの時期に、都に戻ってきたのか、聞かないのかい?」
「私はどのような理由であれ、惟久様が戻って来てくれたことが嬉しいので」
だから気にしないでいた。もう一人のいとこであり、幼なじみのことを。けれど惟久様の前ではぐらかすことは、失礼に値する。なぜなら惟久様は、そのもう一人の幼なじみの影となり、あちこちを転々としていたからだ。
「……都に流れている噂、のことですよね」
「そうだ。千景は何か知らないかい?」
「いいえ。もしも本当に帝が不在なら、もっと大騒ぎになっているはずです。他はともかく、我が左大臣家ならば」
「そうだね。昔から千景の入内話が出ているんだ。騒がない方がおかしいか」
寂しそうな惟久様のお声。昔から、私の入内は決まっていた。だから私たちが今宵会うことは、背徳の行為であり、芹が心配したのもそのせいだった。
それでも惟久様は、今宵来ることを望み、私はそれを受け入れた。
期待……しても、いいのですよね。
そう思った時にはもう、私は惟久様を抱きしめていた。帝もまた、私の気持ちを知っている。だから入内する前の、最後の我が儘は許されると思っていた。
抱きしめ返してくれる惟久様の腕の中、私は今宵、ひと時の幸せを味わった。この時ばかりは、未来のことなど考えない。抱かれる喜びに浸っていたかった。
けれどその行為が逆に私の入内を早めるとは、この時、誰が想像できただろうか。
私はそっと瞼を閉じた。
「千景様、お見えになられました」
簀子縁から待ち人の来訪を知らせる声が聞こえてきた。けれどその声は、私の逸る気持ちとは違い、戸惑いの色が見える。
それもそのはずだ。私の待ち人は、このような夜中にひっそりと屋敷を訪れるような、無粋な人ではない。それを私付きの女房、芹も分かっているのだろう。
だけどあの方から文を受け取ったのは、明朝のこと。今宵の訪問を知らせる文に、どれほど心躍らせたことか。芹は訝しんでいたが、そんなことは関係ない。
なにせ相手は一年振りに会う、初恋の人なのだから。
「お通ししてちょうだい」
「……あの、本当によろしいのでしょうか」
「芹? 何を今更、どうしたというの?」
「申し訳ございません、千景様。後で問題になるのではないか、と思いまして」
「相変わらず芹は臆病なのね。問題になったとしても、すべての責任は私にあるのだから。芹にいくことはないから安心なさい」
それでも芹は「しかし~」と言ったきりで、その場から離れる気配がなかった。私は妻戸を引き、芹を見下ろした。
年は私より上だが、臆病……いや心配性であるため、姉というよりも妹という感覚に近い。今回のように、未婚の私が、男性を通わせるような真似をしているのが気がかりなのだろう。
なにせ私は左大臣家の一の姫。ゆくゆくは入内し、果ては中宮と期待されているのだ。そのような娘が、と芹が心配するのも理解できた。
私はその場にしゃがみ込み、優しく語りかけた。
「お願いよ、芹。私の気持ちは知っているでしょう?」
「はい」
「そして、それを知っているのは芹だけではない、ということも」
「……承知しております」
絞り込むようにしていう芹に、私はニコリと笑った。
「だから大丈夫。さぁ、呼んで来てちょうだい。向こうも首を長くしているかもしれないから」
「その心配はいらないよ」
「え?」
懐かしい声に振り向くと、深緑色の狩衣をまとった公達が立っていた。月明かりに照らされた姿は美しく、思わず幻かと疑ってしまうほどだった。
「惟久、様?」
「ふふふっ、どうして疑問形なんだい?」
「あっ、それは……惟久様が」
あまりにも美しくて、といいかけた口を噤む。おそらく、そのような言葉は何度も聞いているだろう。私はそんなありきたりな言葉を、久しぶりに会った好きな人に投げかけたくはなかったのだ。
「文は送ったはずだけど、千景を驚かせてしまったようだね。あと、迷惑もか」
「……お気になさらず。そのように返事をしたではありませんか。惟久様もお忘れですか?」
「いや。だからこそ、待ちきれずにこうしてやってきてしまったのではないか」
「っ!」
思わず袖で顔を隠す。すると、当然のようにその手を取られ、おそらく赤くなったであろう顔が月明かりの元に晒された。
視線を逸らしても、惟久様が優しい表情をしていることが、手に取るように分かる。なぜなら私たちはいとこであり、幼なじみでもあったからだ。
昔から私が照れると、優しい顔で覗き込み、「可愛い」とおっしゃってくれる。だから今回もそういうのだろうと思っていたら……。
「千景のそのような顔を見るのが、今後も私だけならいいのにな」
「惟久様? それはどういう意味ですか?」
「……ここで長話をする気かい?」
「あっ、いえ、そのようなつもりは」
何かはぐらかされたような気はしたが、惟久様の言う通り、ここで長話をしていたら、芹以外の女房たちに見つかってしまう。私は慌てて、自分の局に惟久様を招き入れた。
「……千景は、私がどうしてこの時期に、都に戻ってきたのか、聞かないのかい?」
「私はどのような理由であれ、惟久様が戻って来てくれたことが嬉しいので」
だから気にしないでいた。もう一人のいとこであり、幼なじみのことを。けれど惟久様の前ではぐらかすことは、失礼に値する。なぜなら惟久様は、そのもう一人の幼なじみの影となり、あちこちを転々としていたからだ。
「……都に流れている噂、のことですよね」
「そうだ。千景は何か知らないかい?」
「いいえ。もしも本当に帝が不在なら、もっと大騒ぎになっているはずです。他はともかく、我が左大臣家ならば」
「そうだね。昔から千景の入内話が出ているんだ。騒がない方がおかしいか」
寂しそうな惟久様のお声。昔から、私の入内は決まっていた。だから私たちが今宵会うことは、背徳の行為であり、芹が心配したのもそのせいだった。
それでも惟久様は、今宵来ることを望み、私はそれを受け入れた。
期待……しても、いいのですよね。
そう思った時にはもう、私は惟久様を抱きしめていた。帝もまた、私の気持ちを知っている。だから入内する前の、最後の我が儘は許されると思っていた。
抱きしめ返してくれる惟久様の腕の中、私は今宵、ひと時の幸せを味わった。この時ばかりは、未来のことなど考えない。抱かれる喜びに浸っていたかった。
けれどその行為が逆に私の入内を早めるとは、この時、誰が想像できただろうか。
私はそっと瞼を閉じた。



