選ばれなかった冷遇妻は手紙一つ残して消えることにした

その日、澪は久方ぶりに本邸へ呼び出された。
 今夜は伯爵家主催の夜会が開かれるという。

 千代に結われた髪を整えながら、澪は鏡の中の自分を見つめた。質素な着物に、飾り気のない簪。離れで暮らす者には、この程度で充分だ。離れのタンスにはいくらか豪華な着物もあったが、昔から着飾らない生活をしてきた澪にとってはこの程度で充分だった。

「本当に……私が出てもよろしいのでしょうか」

 小さく呟くと、千代は優しく微笑んだ。

「奥方様は伯爵様の奥方でございます。堂々となさってくださいませ」

 その言葉に背を押されるようにして、澪は夜会の広間へ足を踏み入れた。

 しかし——

 瞬間、空気がわずかにざわめいた。

 絹のドレスに宝石を纏った令嬢たちの視線が、一斉に澪へ向く。
 そしてすぐに、扇の影で隠された嘲笑が広がった。

「まあ……あれが伯爵様の奥方ですって?」

「離れに住んでいるという噂の……」

「ずいぶんと地味な方ね」

 ひそひそと囁く声は、隠しているつもりでも澪の耳にははっきり届く。

 澪は俯き、手を強く握りしめた。
 この場に自分がいてはいけないのではないか。そんな思いが胸の奥からじわりと広がる。

 そのとき、軽やかな笑い声が響いた。

「皆様、ご覧になって」

 声の主は紅子だった。華やかな紅の着物に身を包み、まるでこの夜会の主役のように人々の中心に立っている。

 紅子は扇を口元に当てながら、澪へ視線を向けた。

「ご紹介いたしますわ。こちらが朔弥様の……奥方様だそうです」

 わざとらしい間を置いたその言葉に、周囲からくすくすと笑いが漏れる。

「まあ、本当に?」

「お可哀想に……」

「伯爵様もお気の毒ですわね」

 言葉は柔らかいのに、刃のように鋭かった。

 澪は何も言えないまま立ち尽くす。
 逃げたい。けれど、足が動かなかった。

 紅子はゆっくりと近づき、澪の袖をつまむ。

「奥方様、そのような格好で夜会に出てはいけませんわ。伯爵家の恥になってしまいますもの」

 そして、誰にでも聞こえる声で囁いた。

「……まあ、伯爵様があなたを人前に出さない理由も分かりますわね」

 その瞬間、広間の空気が一斉に澪を刺した。

 澪の胸がきゅっと締めつけられる。

 自分はここにいてはいけない。
 自分は、朔弥の妻であってはならない。

 澪は深く頭を下げた。

「……申し訳ございません」

 それだけ言うと、踵を返して広間を後にする。

 背後から、笑い声が小さく追いかけてきた。

 夜風の吹く廊下に出た瞬間、澪はやっと息を吐いた。
 胸が苦しくて、立っているのも辛い。

 朔弥様の奥方。

 そう呼ばれるたび、胸が痛む。

 ——私は、本当に。

 ——あの方の妻でいてもいいのでしょうか。

 澪は庭の暗がりを見つめながら、静かに唇を噛みしめた。