選ばれなかった冷遇妻は手紙一つ残して消えることにした

 九条家の屋敷で暮らし始めてしばらくすると、澪に向けられる視線は次第に露骨なものへと変わっていった。

「旦那様は奥様の部屋へ行かないらしい」
「離れ住まいの正妻だそうだ」

 噂が広まるのに、時間はかからなかった。
 ある日の朝、澪がなかなか戻らない千代の様子を確認するために台所へ向かうと、女中たちの会話がふっと途切れた。皆が一斉に澪を見て、それから視線を逸らす。

「……おはようございます」

 澪が静かに挨拶しても、返事はない。
 代わりに、小さな笑い声だけが背後で揺れた。


***


 ある日の昼、澪の元へ届けられた食事は冷えきっていた。味噌汁はすでにぬるく、ご飯も固い。
 澪はそれでも、何も言わずに箸を取った。
 その様子を、廊下の向こうで女中たちが見ている。

「文句も言わないのねぇ」
「そりゃそうでしょう。誰も聞いてくれないもの」

 くすくすと笑う声が、澪の耳にも届く。
 それでも澪は顔を上げなかった。

 ただ静かに食事を口へ運ぶ。

 味は、ほとんど分からなかった。

 さらに数日後、離れの庭で澪が草を抜いていると、紅子が通りかかった。

 鮮やかな洋装に身を包み、陽の光の中でひときわ華やかに見える。

 紅子は立ち止まり、澪の姿を眺めた。

「まあ、奥様であろう方が庭仕事?」

 澪は立ち上がり、軽く頭を下げた。

「手入れがあまりされていないようでしたので」

 紅子は扇子を開き、口元を隠した。

「こういうことは慣れていますから」

 紅子の眉がわずかに動いた。

「慣れている?」

 澪は庭の松を見上げた。
 風が吹き、枝が静かに揺れる。
 それから肩をすくめて笑った。

 「本当に変な人ね」

 そう言って去っていく。
 足音が遠ざかる。
 庭には、また静けさが戻った。
 澪はその場に立ったまま、しばらく松の枝を見ていた。
 風に揺れる葉の音が、小さく響く。


――必要とされない。


 その言葉を、胸の中でそっと繰り返す。
 朝霧家でも、そうだった。
 この屋敷でも、同じ。

 澪がいなくても、誰も困らない。

 それなら、自分は何のためにここにいるのだろう。

 澪はゆっくり息を吐き、庭にある池の水面に目を落とす。

 光が揺れている。
 その揺れを見ていると、不意に遠い記憶が浮かんだ。

 まだ幼かった頃のことだ。
 春の終わり、山の近くを流れる川へ行ったことがあった。雪解け水を含んだ流れは澄んでいて、底の石までよく見えた。木々の葉が風に揺れ、その影が水の上でゆっくりと流れていく。

 澪はその川が好きだった。

 石の上に座り、ただ水の流れを見ているだけで、胸の中のざわめきが少し静かになる気がしたからだ。

 あの日だって、特に理由もなく川を眺めていた。

 不意に、水が大きく跳ねる音がした。
 顔を上げると、川の中央で何かがもがいている。人だった。
 少年が、水を掴むように腕を伸ばしている。流れに足を取られたのか、何度も沈みかけていた。

 澪はしばらくその様子を見ていた。
 あの子溺れている。助けないと。
 そう思ったときには、もう立ち上がっていた。
 川の水は冷たかった。裾が濡れ、布が重く沈む。それでも澪は迷わず少年の腕を掴んだ。

「つかまって」

 声は小さかったが、はっきりしていた。
 少年は必死に澪の袖を握りしめる。澪は流れに足を取られないよう慎重に踏みしめながら、ゆっくり岸へ戻った。

 岸に引き上げられた少年は、激しく咳き込みながら水を吐いた。しばらくしてから顔を上げる。
 濡れた髪の隙間から見えた瞳は、思いがけないほど真っ直ぐだった。

 あの子……だれだっけ?