選ばれなかった冷遇妻は手紙一つ残して消えることにした

 夜更けの執務室には、紙をめくる乾いた音だけが静かに響いていた。九条邸の広い屋敷の中でも、この部屋だけはまだ灯りが落とされていない。机の上には軍務の書類が整然と積まれ、作戦図や報告書が幾重にも重なっている。帝国軍の若き将官としての仕事は山ほどあり、本来なら他のことに気を取られている余裕などないはずだった。

 九条朔弥は椅子に深く腰掛けたまま、黙々と書類に目を通していた。鋭い視線が行間を追い、必要な箇所にだけ迷いなく印をつけていく。その動きはいつも通り冷静で、無駄がない。だがふとした瞬間、ペン先がぴたりと止まった。

 理由は自分でも分かっていた。

 視線が、机の端に置かれた湯呑へ落ちる。いつの間にか運ばれていたらしい茶はすでに冷め、湯気も消えている。朔弥はそれをしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

 冬の夜は冷えるな。

 そう思ったとき、自然と脳裏に浮かんだのは離れの和館だった。本邸よりも庭の奥に建つあの古い建物は、風がよく通る。昼間ならまだしも、夜になれば底冷えするに違いない。あの女は、寒さに強いのだろうか。火鉢はきちんと用意されていたか――そこまで考えて、朔弥はわずかに眉を寄せた。

「俺はなにを考えている?」

 低く呟いた声は、自分自身へのものだった。

 澪のことを考える必要はない。そう思っている。そう決めたのも自分だったはずなのに。

 廊下の向こうに立っていた澪の姿。女中たちの笑い声の中で、あの女はただ静かに立っていた。怒るでもなく、言い返すでもなく、ただその場にいるだけのように。

 あの瞳が、妙に胸に残っている。

 困っているようでもなければ、泣きそうでもない。ただ、どこか遠くを見ているような目だった。まるで全て諦めているような。

 朔弥は椅子の背に体を預け、ゆっくりと天井を見上げた。

 普通の女なら怒る。あるいは泣くだろう。少なくとも、あんなふうに平然としていられるものではない。

 だが澪は違った。何も感じていないわけではないはずなのに、まるで最初からそういう扱いを受けることに慣れているかのようであった。

 朔弥は目を閉じ、静かに息を吐いた。

「……嫁ぎに来るまでの間、澪の身になにがあった?」

 誰に向けたわけでもない問いが、ぽつりと零れる。答えが返ってくるはずもない。部屋には自分一人しかいないのだから。

 しばらくして朔弥は目を開け、窓の外へ視線を向けた。夜の庭は暗く沈み、木々の枝が風に揺れている。その奥に、離れの和館が小さく見えた。薄い灯りが一つだけ灯っている。

 まだ起きているらしい。
 朔弥はしばらくその灯りを見つめていた。

 胸の奥に、わずかな焦れにも似た感情が残る。それを振り払うように、彼はゆっくりと体を起こした。机の上の鈴を鳴らすと、ほどなくして使用人が部屋へ入ってくる。

「お呼びでしょうか」

 朔弥は書類に視線を戻したまま言った。

「別館に火鉢、あと体が温まりそうな食べ物を持っていってやれ」

 使用人は一瞬だけ戸惑ったようだった。

「ささっとしろ」
「承知いたしました」

 朔弥は淡々と続ける。

 「夜は冷える」

 それだけ言うと、再び書類に目を落とした。まるでそれ以上の理由は必要ないと言うように。

 朔弥はしばらく書類を読み進めていたが、ふと顔を上げた。窓の外の離れを見る。灯りはまだ消えていなかった。
 その小さな光を、ほんのわずかな時間だけ見つめてから、朔弥は再び書類へ視線を落とした。