離れの和館に住むようになってから、澪の身の回りを世話する侍女が一人つけられた。
桜井千代という名だった。
三十前後だろうか。
派手さはないが、落ち着いた顔立ちをしている。髪はきちんと結い上げられ、動きには無駄がない。
ある朝、澪が縁側に座って庭を眺めていると、後ろから控えめな声がした。
「奥様」
振り向くと、千代が湯気の立つ盆を持って立っていた。
「朝のお茶をお持ちしました」
「いつもありがとう。私に仕えていて、周りから嫌がらせは受けていませんか……?」
「それがどうしたっていうんですか。たとえ罵詈雑言を浴びせられようが、着物に泥をかけられようが私は奥様に茶菓子をお持ちしますよ」
千代は当然のように頷いた。
盆の上には湯呑と、小さな菓子がひとつ置かれている。澪はそれを見て、少し戸惑った。
「私が、こういうものを頂いてもいいのでしょうか」
その言葉に、千代は一瞬だけ目を細めた。
「奥様が召し上がらず、誰が召し上がるのです?」
澪は静かに湯呑を手に取る。
湯気が指先を温めた。
「……あたたかい」
ぽつりと呟く。
千代は縁側の少し後ろに控えて立った。
澪が菓子をひと口食べると、ふっと小さく笑う。
「ほんのり甘いですね」
「本邸からこっそり拝借しました」
「あら、怒られないと良いのですが」
澪は少しだけ嬉しそうに頷いた。
その様子を見て、千代は静かに言う。
「奥様、なにか足りないものがありましたら、遠慮なくおっしゃってください」
澪は首を傾げる。
「足りないもの?」
「はい」
澪は少し考えた。
それから、ゆっくり答える。
「……なにもありません。今のままで十分です」
その声は穏やかだった。
千代はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
「奥様は……」
「どうしました?」
澪が問いかけると、千代は首を横に振った。
「いえ」
そして少しだけ、柔らかい声で言った。
「何でもありません」
桜井千代という名だった。
三十前後だろうか。
派手さはないが、落ち着いた顔立ちをしている。髪はきちんと結い上げられ、動きには無駄がない。
ある朝、澪が縁側に座って庭を眺めていると、後ろから控えめな声がした。
「奥様」
振り向くと、千代が湯気の立つ盆を持って立っていた。
「朝のお茶をお持ちしました」
「いつもありがとう。私に仕えていて、周りから嫌がらせは受けていませんか……?」
「それがどうしたっていうんですか。たとえ罵詈雑言を浴びせられようが、着物に泥をかけられようが私は奥様に茶菓子をお持ちしますよ」
千代は当然のように頷いた。
盆の上には湯呑と、小さな菓子がひとつ置かれている。澪はそれを見て、少し戸惑った。
「私が、こういうものを頂いてもいいのでしょうか」
その言葉に、千代は一瞬だけ目を細めた。
「奥様が召し上がらず、誰が召し上がるのです?」
澪は静かに湯呑を手に取る。
湯気が指先を温めた。
「……あたたかい」
ぽつりと呟く。
千代は縁側の少し後ろに控えて立った。
澪が菓子をひと口食べると、ふっと小さく笑う。
「ほんのり甘いですね」
「本邸からこっそり拝借しました」
「あら、怒られないと良いのですが」
澪は少しだけ嬉しそうに頷いた。
その様子を見て、千代は静かに言う。
「奥様、なにか足りないものがありましたら、遠慮なくおっしゃってください」
澪は首を傾げる。
「足りないもの?」
「はい」
澪は少し考えた。
それから、ゆっくり答える。
「……なにもありません。今のままで十分です」
その声は穏やかだった。
千代はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
「奥様は……」
「どうしました?」
澪が問いかけると、千代は首を横に振った。
「いえ」
そして少しだけ、柔らかい声で言った。
「何でもありません」



