結婚して数日が過ぎた頃だった。
朝、澪がいつものように静かに廊下を歩いていると、年配の女中が声をかけてきた。
「奥様」
振り返ると、女中は深く頭を下げた。
「お部屋のご用意が整いましたので、ご案内いたします」
「……部屋?」
澪は小さく聞き返した。
「ええ」
女中は丁寧な口調のまま続ける。
「奥様には、これからあちらでお過ごしいただきます」
澪は黙って後をついていく。
廊下をいくつも曲がり、洋館の奥へ進み、やがて外へ出た。
そこから少し歩くと、小さな庭があった。
本邸の整えられた庭とは違い、広くはないが、静かな趣があった。古い松が影を落とし、苔むした石灯籠がひっそりと立っている。
その庭の奥に、古い和館が建っていた。
「こちらです」
女中が襖を開ける。
澪は静かに中へ入った。
部屋は決して粗末ではない。だが本邸の豪奢さとは比べものにならない、どこか寂しい空間だった。
「こちらが奥様のお部屋になります」
女中は淡々と説明する。
「日用品はこちらにご用意しております。何か必要なものがありましたら、呼び鈴でお知らせください」
澪は部屋の中を見渡した。
小さな箪笥と、質素な木の机がひとつ置かれているだけの部屋だった。飾り気はなく、生活の気配もまだ薄い。窓の外には庭の松の枝が揺れ、かすかな光が静かに差し込んでいた。
「……そうですか」
澪は小さく頷いた。
女中は少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。
「本邸は……その、旦那様の執務や来客が多い場所ですので」
けれど澪には十分だった。
屋敷の奥にある、静かな離れ。
人の目に触れない場所。
少なくとも世間の嫌なことからは離れる事ができる。そう心に言い聞かせて、胸の奥に湧く感情を押し殺した。
「わかりました」
澪は穏やかに言った。
その反応に、女中の方が少し驚いた顔をした。
「静かで、きれいなお庭ですね」
***
離れの和館で暮らし始めて、数日が過ぎた頃だった。
澪が庭を眺めながら廊下を歩いていると、前の方から女の笑い声が聞こえてきた。
軽く、甲高い声。
「ねえ、聞いた?」
「ええ、聞きましたとも」
足音を止めると、角の向こうで女中たちが立ち話をしているのが見えた。
「旦那様、あの方の部屋に一度も行っていないんですって」
「結婚したばかりなのに?」
「そうよ。新婚なのに離れ住まい」
「それじゃあ、まるで、ただの飾りじゃない」
笑い声がどんどん大きくなる。
「ご愛人の紅子様の方がよほど奥様らしいわ」
その名前が出たときだった。
廊下の向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。女中たちはすぐに姿勢を正した。
「紅子様」
現れたのは、鮮やかな色の洋装を着た女性だった。
柔らかな栗色の髪は肩のあたりでふわりと巻かれ、西洋風の結い方がよく似合っていた。
白粉を薄くはたいた肌は滑らかで、唇には鮮やかな紅が引かれている。
大きな瞳は常に楽しげに細められ、どこか人を試すような光を宿していた。
洋装のドレスは流行の仕立てで、腰の線を美しく見せる細い帯が結ばれている。歩くたびに軽やかな裾が揺れ、ほのかに甘い香水の香りが廊下に広がった。
香月紅子。
九条家に出入りする令嬢であり、屋敷では半ば当然のように振る舞っている女性だった。
紅子は、ふと足を止めた。
そして澪の姿に気づき、わざとらしく目を丸くした。
「まあ、奥様」
その呼び方からはまったく誠意が感じ取れなかった。
澪は軽く頭を下げた。
紅子は少し近づいて、澪を上から下まで眺めた。まるで品物の価値を確かめるような視線だった。
「離れにお住まいなのね。どおりで全然姿が見えないわけだわ」
その場の女中たちが、また小さく笑う。
紅子は続ける。
「でも、そりゃあそうよね」
「……?」
澪が顔を上げると、紅子は楽しそうに首を傾げた。
「だって旦那様、あなたに全然興味がなさそうだもの」
まるで天気の話でもするように、紅子はさらりと答える。
「お仕事も忙しいでしょうに、仕方ないのかもしれないけれど」
紅子は扇子を開き、口元を隠す。
「かわいそうね」
廊下に、静かな笑い声が広がる。
澪は、何も言いかえさなかった。
紅子はしばらく澪を見つめていた。
それから、ふっと笑う。
「なにも言い返さないのね。本当にお人形みたい」
そう言い残し、廊下を歩いていく。
女中たちも慌ててその後を追った。
足音が遠ざかる。
廊下には、また静けさが戻った。
澪はその場に少しだけ立っていた。
障子の外では、庭の松が風に揺れている。
枝の影が床に落ちて、ゆっくりと揺れた。
「……お飾り」
小さく呟く。
その言葉を、澪はしばらく口の中で転がすように繰り返した。
それから、静かに歩き出す。
離れの和館へ戻るために。
朝、澪がいつものように静かに廊下を歩いていると、年配の女中が声をかけてきた。
「奥様」
振り返ると、女中は深く頭を下げた。
「お部屋のご用意が整いましたので、ご案内いたします」
「……部屋?」
澪は小さく聞き返した。
「ええ」
女中は丁寧な口調のまま続ける。
「奥様には、これからあちらでお過ごしいただきます」
澪は黙って後をついていく。
廊下をいくつも曲がり、洋館の奥へ進み、やがて外へ出た。
そこから少し歩くと、小さな庭があった。
本邸の整えられた庭とは違い、広くはないが、静かな趣があった。古い松が影を落とし、苔むした石灯籠がひっそりと立っている。
その庭の奥に、古い和館が建っていた。
「こちらです」
女中が襖を開ける。
澪は静かに中へ入った。
部屋は決して粗末ではない。だが本邸の豪奢さとは比べものにならない、どこか寂しい空間だった。
「こちらが奥様のお部屋になります」
女中は淡々と説明する。
「日用品はこちらにご用意しております。何か必要なものがありましたら、呼び鈴でお知らせください」
澪は部屋の中を見渡した。
小さな箪笥と、質素な木の机がひとつ置かれているだけの部屋だった。飾り気はなく、生活の気配もまだ薄い。窓の外には庭の松の枝が揺れ、かすかな光が静かに差し込んでいた。
「……そうですか」
澪は小さく頷いた。
女中は少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。
「本邸は……その、旦那様の執務や来客が多い場所ですので」
けれど澪には十分だった。
屋敷の奥にある、静かな離れ。
人の目に触れない場所。
少なくとも世間の嫌なことからは離れる事ができる。そう心に言い聞かせて、胸の奥に湧く感情を押し殺した。
「わかりました」
澪は穏やかに言った。
その反応に、女中の方が少し驚いた顔をした。
「静かで、きれいなお庭ですね」
***
離れの和館で暮らし始めて、数日が過ぎた頃だった。
澪が庭を眺めながら廊下を歩いていると、前の方から女の笑い声が聞こえてきた。
軽く、甲高い声。
「ねえ、聞いた?」
「ええ、聞きましたとも」
足音を止めると、角の向こうで女中たちが立ち話をしているのが見えた。
「旦那様、あの方の部屋に一度も行っていないんですって」
「結婚したばかりなのに?」
「そうよ。新婚なのに離れ住まい」
「それじゃあ、まるで、ただの飾りじゃない」
笑い声がどんどん大きくなる。
「ご愛人の紅子様の方がよほど奥様らしいわ」
その名前が出たときだった。
廊下の向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。女中たちはすぐに姿勢を正した。
「紅子様」
現れたのは、鮮やかな色の洋装を着た女性だった。
柔らかな栗色の髪は肩のあたりでふわりと巻かれ、西洋風の結い方がよく似合っていた。
白粉を薄くはたいた肌は滑らかで、唇には鮮やかな紅が引かれている。
大きな瞳は常に楽しげに細められ、どこか人を試すような光を宿していた。
洋装のドレスは流行の仕立てで、腰の線を美しく見せる細い帯が結ばれている。歩くたびに軽やかな裾が揺れ、ほのかに甘い香水の香りが廊下に広がった。
香月紅子。
九条家に出入りする令嬢であり、屋敷では半ば当然のように振る舞っている女性だった。
紅子は、ふと足を止めた。
そして澪の姿に気づき、わざとらしく目を丸くした。
「まあ、奥様」
その呼び方からはまったく誠意が感じ取れなかった。
澪は軽く頭を下げた。
紅子は少し近づいて、澪を上から下まで眺めた。まるで品物の価値を確かめるような視線だった。
「離れにお住まいなのね。どおりで全然姿が見えないわけだわ」
その場の女中たちが、また小さく笑う。
紅子は続ける。
「でも、そりゃあそうよね」
「……?」
澪が顔を上げると、紅子は楽しそうに首を傾げた。
「だって旦那様、あなたに全然興味がなさそうだもの」
まるで天気の話でもするように、紅子はさらりと答える。
「お仕事も忙しいでしょうに、仕方ないのかもしれないけれど」
紅子は扇子を開き、口元を隠す。
「かわいそうね」
廊下に、静かな笑い声が広がる。
澪は、何も言いかえさなかった。
紅子はしばらく澪を見つめていた。
それから、ふっと笑う。
「なにも言い返さないのね。本当にお人形みたい」
そう言い残し、廊下を歩いていく。
女中たちも慌ててその後を追った。
足音が遠ざかる。
廊下には、また静けさが戻った。
澪はその場に少しだけ立っていた。
障子の外では、庭の松が風に揺れている。
枝の影が床に落ちて、ゆっくりと揺れた。
「……お飾り」
小さく呟く。
その言葉を、澪はしばらく口の中で転がすように繰り返した。
それから、静かに歩き出す。
離れの和館へ戻るために。



