九条家の屋敷は、朝霧家とは比べものにならないほど広かった。
長い石畳の先に、重厚な洋館が建っている。
高い窓、白い柱、整えられた庭園。
夕暮れの光の中で、その屋敷は静かに威圧するような存在感を放っていた。
澪は、その玄関の前に立っていた。
黒塗りの馬車が去り、門が閉まると、急に世界が静かになった気がした。
「奥様、こちらへ」
無表情の使用人に案内され、澪は屋敷の中へ入る。
床は磨き上げられた木材で、足音が小さく響いた。壁には絵画が並び、天井の灯りは柔らかな光を落としている。
昔の実家よりすっと大きい。
こんな立派な屋敷に来たのは、初めてだった。
けれど澪の胸には、不思議と感動はなかった。
ただ少しだけ、胸の奥が静かに冷えていく。
案内されたのは、大きな和室だった。
畳は新しく、障子の紙も真っ白だ。
床の間には季節の花が飾られている。
「こちらでお待ちください」
それだけ言うと、使用人は下がった。
静かな部屋に、澪ひとりが残る。
澪は、畳の上に正座した。
手を膝の上に置き、静かに背を伸ばす。
とくになにもせず、今日も天気が良いなと空を眺めていた。なつかしいなぁ。こんなに良い天気の日は、よくお母様と一緒に外出をしたものだ。
やがて、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
静かに襖が開く。
澪は顔を上げた。
そこに立っていたのが、九条朔弥だった。
障子の向こうから入ってきた男を見たとき、澪はほんの一瞬だけ息を止めた。
背は高く、軍服の直線的な仕立てがその体格を際立たせている。
無駄のない肩の線、すっと伸びた背筋、鍛えられているはずなのにどこか静かな佇まい。
まるで長い時間、雪の中に立ち続けてきた木のように、揺るがない気配をまとっていた。
黒い髪は短く整えられ、光を受けてもほとんど色を変えない。
その下にある顔立ちは驚くほど整っているが、優しさよりも鋭さを先に感じさせる造形だった。
特に印象的なのは、目だった。
深い夜のような色をした瞳。どこか遠くを見ているようで、感情を読み取ることが難しい。
口元はほとんど動かず、表情の変化も少ない。
そのせいで、整った顔立ちはいっそう硬質に見えた。
もしこの男が街を歩けば、多くの人が振り返るだろう。
だがその視線は憧れよりも、どこか遠巻きにするようなものになるに違いない。
触れれば指先を切りそうなほど、静かに鋭い存在感だった。
澪はゆっくりと頭を下げる。
「……朝霧澪でございます。本日より、お世話になります」
朔弥は何も言わない。
澪は顔を上げないまま、ただ待っていた。
やがて、朔弥が短く息を吐く。
「……顔を上げろ」
低い声だった。まるで上官として命令するような言い方であった。
澪はゆっくり顔を上げる。
朔弥の視線は澪を見るとすぐに外れた。
まるで、まともに見る必要もないと言うように。
「この婚姻は家同士のいわば契約だ。お前はこの屋敷で静かにしていればいい。なにもする必要はない」
澪は小さく頷く。
「承知しました」
朔弥はそれを聞くと、ほんのわずかに眉を動かした。
まるで拍子抜けしたように。
そして、それ以上は何も言わなかった。
沈黙が、また部屋に落ちる。
やがて朔弥は背を向けた。
「……俺は軍務で忙しい。そろそろ仕事に戻らせて貰う」
澪は静かに答えた。
「お身体には、お気をつけください」
朔弥の足が一瞬だけ止まったが、襖を開け、部屋を出ていってしまった。
足音が遠ざかっていき、やがて完全に消えた。
静かな部屋に、また澪ひとりが残った。
澪は、しばらくそのまま座っていた。
新しい畳の匂いが、かすかに漂っている。
「お母様、九条家にも私の居場所はないみたい」
長い石畳の先に、重厚な洋館が建っている。
高い窓、白い柱、整えられた庭園。
夕暮れの光の中で、その屋敷は静かに威圧するような存在感を放っていた。
澪は、その玄関の前に立っていた。
黒塗りの馬車が去り、門が閉まると、急に世界が静かになった気がした。
「奥様、こちらへ」
無表情の使用人に案内され、澪は屋敷の中へ入る。
床は磨き上げられた木材で、足音が小さく響いた。壁には絵画が並び、天井の灯りは柔らかな光を落としている。
昔の実家よりすっと大きい。
こんな立派な屋敷に来たのは、初めてだった。
けれど澪の胸には、不思議と感動はなかった。
ただ少しだけ、胸の奥が静かに冷えていく。
案内されたのは、大きな和室だった。
畳は新しく、障子の紙も真っ白だ。
床の間には季節の花が飾られている。
「こちらでお待ちください」
それだけ言うと、使用人は下がった。
静かな部屋に、澪ひとりが残る。
澪は、畳の上に正座した。
手を膝の上に置き、静かに背を伸ばす。
とくになにもせず、今日も天気が良いなと空を眺めていた。なつかしいなぁ。こんなに良い天気の日は、よくお母様と一緒に外出をしたものだ。
やがて、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
静かに襖が開く。
澪は顔を上げた。
そこに立っていたのが、九条朔弥だった。
障子の向こうから入ってきた男を見たとき、澪はほんの一瞬だけ息を止めた。
背は高く、軍服の直線的な仕立てがその体格を際立たせている。
無駄のない肩の線、すっと伸びた背筋、鍛えられているはずなのにどこか静かな佇まい。
まるで長い時間、雪の中に立ち続けてきた木のように、揺るがない気配をまとっていた。
黒い髪は短く整えられ、光を受けてもほとんど色を変えない。
その下にある顔立ちは驚くほど整っているが、優しさよりも鋭さを先に感じさせる造形だった。
特に印象的なのは、目だった。
深い夜のような色をした瞳。どこか遠くを見ているようで、感情を読み取ることが難しい。
口元はほとんど動かず、表情の変化も少ない。
そのせいで、整った顔立ちはいっそう硬質に見えた。
もしこの男が街を歩けば、多くの人が振り返るだろう。
だがその視線は憧れよりも、どこか遠巻きにするようなものになるに違いない。
触れれば指先を切りそうなほど、静かに鋭い存在感だった。
澪はゆっくりと頭を下げる。
「……朝霧澪でございます。本日より、お世話になります」
朔弥は何も言わない。
澪は顔を上げないまま、ただ待っていた。
やがて、朔弥が短く息を吐く。
「……顔を上げろ」
低い声だった。まるで上官として命令するような言い方であった。
澪はゆっくり顔を上げる。
朔弥の視線は澪を見るとすぐに外れた。
まるで、まともに見る必要もないと言うように。
「この婚姻は家同士のいわば契約だ。お前はこの屋敷で静かにしていればいい。なにもする必要はない」
澪は小さく頷く。
「承知しました」
朔弥はそれを聞くと、ほんのわずかに眉を動かした。
まるで拍子抜けしたように。
そして、それ以上は何も言わなかった。
沈黙が、また部屋に落ちる。
やがて朔弥は背を向けた。
「……俺は軍務で忙しい。そろそろ仕事に戻らせて貰う」
澪は静かに答えた。
「お身体には、お気をつけください」
朔弥の足が一瞬だけ止まったが、襖を開け、部屋を出ていってしまった。
足音が遠ざかっていき、やがて完全に消えた。
静かな部屋に、また澪ひとりが残った。
澪は、しばらくそのまま座っていた。
新しい畳の匂いが、かすかに漂っている。
「お母様、九条家にも私の居場所はないみたい」



