冬の終わり、朝霧伯爵家に一通の手紙が届いた。厚い紙に、九条家の家紋が押されている。
その紋を見たとき、屋敷の空気がわずかに変わった。
九条家。
帝国軍の若き将官を当主に持つ名家。
今や朝霧家とは比べものにならないほどの権勢を誇る家だった。
父はその手紙を震える手で開き、読み終えたあと、しばらく黙っていた。
「……澪」
澪は素早く顔を上げた。
父の表情は、どこか困ったようで、どこか安堵しているようでもあった。
「九条家から……縁談が来ている」
その言葉は、まるで屋敷のどこか遠くから聞こえてくるようだった。
「縁談……ですか」
澪は、ただ静かに聞き返す。
どうして九条家から縁談が?
我が家は軍人の家とはとくに繋がりはないうえに、私自身九条家の方と顔を会わせたことは一度もなかった。
父は頷いた。
「九条伯爵、朔弥殿の妻として迎えたいと」
部屋に沈黙が落ちた。
九条朔弥。
その名を、澪も知っていた。
若くして軍功を挙げ、帝国軍の将官にまで上り詰めた人物。冷酷で近寄りがたいことで有名な男だ。噂によれば鬼のように恐ろしい人だとか。
どうしてそんな人物が、朝霧家の娘に。
澪は不思議に思ったが、口には出さなかった
そのとき、横から柔らかな声がした。
「それは、ありがたいお話ですわね」
美津子であった。
扇子を軽く口元に当て、微笑んでいる。
「九条家ほどの家から望まれるなんて、光栄なことですもの」
父は少しだけ視線を落とした。
「……だが、澪の意思も」
「意思?」
美津子は不思議そうに首を傾げる。
「伯爵家の娘が家のために嫁ぐのは、当然ではありませんか。それに……」
美津子は、まるで品物でも眺めるような目で澪を見た。
「このまま家にいても、何の役にも立ちませんでしょう?」
澪は、何も言わなかった。
美津子は続ける。
「九条家へ嫁げば、朝霧家の名も保たれる。あなたにとっても悪い話ではありませんわ」
その声音は、あくまで穏やかだった。けれども声の裏には悪意が潜んでいた。
澪は助けを求めるように父を見た。しかし、父は視線を逸らしたまま、黙っている。
諦めるしかないのね。
結局私は最後までお義母様のお人形。
しばらくして、澪は小さく頷いた。
「……わかりました」
美津子の口元が、わずかに緩む。
「物分かりのいい子で助かるわ」
それから澪に近づき、袖を軽く整える。
「九条家に行くのだから、恥をかかないようにね」
まるで、ようやく片付く荷物に触れるような手つきだった。
***
数日後。
澪は朝霧家の門の前に立っていた。
冬の空気はまだ冷たい。
荷物は、小さな箱が一つだけだった。
母の形見の着物と、ほんのわずかな身の回りのもの。澪はたったそれだけしか持っていなかった。
門の外には、九条家の馬車が待っている。
黒塗りの立派な馬車だった。
御者が無言で扉を開ける。
澪は一度だけ屋敷を振り返った。
古びた門。
伸び放題の庭木。
壁の白が剥がれた洋館。
生まれ育った家だ。
けれどそこには、もう澪の居場所はなかった。
澪は何も言わず、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
馬の蹄の音が、静かな道に響き始めた。
祝福もなく、
見送りの言葉もなく。
ただ、家の都合だけで決められた結婚だった。
その紋を見たとき、屋敷の空気がわずかに変わった。
九条家。
帝国軍の若き将官を当主に持つ名家。
今や朝霧家とは比べものにならないほどの権勢を誇る家だった。
父はその手紙を震える手で開き、読み終えたあと、しばらく黙っていた。
「……澪」
澪は素早く顔を上げた。
父の表情は、どこか困ったようで、どこか安堵しているようでもあった。
「九条家から……縁談が来ている」
その言葉は、まるで屋敷のどこか遠くから聞こえてくるようだった。
「縁談……ですか」
澪は、ただ静かに聞き返す。
どうして九条家から縁談が?
我が家は軍人の家とはとくに繋がりはないうえに、私自身九条家の方と顔を会わせたことは一度もなかった。
父は頷いた。
「九条伯爵、朔弥殿の妻として迎えたいと」
部屋に沈黙が落ちた。
九条朔弥。
その名を、澪も知っていた。
若くして軍功を挙げ、帝国軍の将官にまで上り詰めた人物。冷酷で近寄りがたいことで有名な男だ。噂によれば鬼のように恐ろしい人だとか。
どうしてそんな人物が、朝霧家の娘に。
澪は不思議に思ったが、口には出さなかった
そのとき、横から柔らかな声がした。
「それは、ありがたいお話ですわね」
美津子であった。
扇子を軽く口元に当て、微笑んでいる。
「九条家ほどの家から望まれるなんて、光栄なことですもの」
父は少しだけ視線を落とした。
「……だが、澪の意思も」
「意思?」
美津子は不思議そうに首を傾げる。
「伯爵家の娘が家のために嫁ぐのは、当然ではありませんか。それに……」
美津子は、まるで品物でも眺めるような目で澪を見た。
「このまま家にいても、何の役にも立ちませんでしょう?」
澪は、何も言わなかった。
美津子は続ける。
「九条家へ嫁げば、朝霧家の名も保たれる。あなたにとっても悪い話ではありませんわ」
その声音は、あくまで穏やかだった。けれども声の裏には悪意が潜んでいた。
澪は助けを求めるように父を見た。しかし、父は視線を逸らしたまま、黙っている。
諦めるしかないのね。
結局私は最後までお義母様のお人形。
しばらくして、澪は小さく頷いた。
「……わかりました」
美津子の口元が、わずかに緩む。
「物分かりのいい子で助かるわ」
それから澪に近づき、袖を軽く整える。
「九条家に行くのだから、恥をかかないようにね」
まるで、ようやく片付く荷物に触れるような手つきだった。
***
数日後。
澪は朝霧家の門の前に立っていた。
冬の空気はまだ冷たい。
荷物は、小さな箱が一つだけだった。
母の形見の着物と、ほんのわずかな身の回りのもの。澪はたったそれだけしか持っていなかった。
門の外には、九条家の馬車が待っている。
黒塗りの立派な馬車だった。
御者が無言で扉を開ける。
澪は一度だけ屋敷を振り返った。
古びた門。
伸び放題の庭木。
壁の白が剥がれた洋館。
生まれ育った家だ。
けれどそこには、もう澪の居場所はなかった。
澪は何も言わず、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
馬の蹄の音が、静かな道に響き始めた。
祝福もなく、
見送りの言葉もなく。
ただ、家の都合だけで決められた結婚だった。



