冷酷軍神の愛しい人〜お飾り妻だと思われていましたが、冷たい夫は私を溺愛していました

 朝霧伯爵家の屋敷は、遠目から見れば西洋風の様式を取り入れた城のような豪邸であった。
 古い門には家紋が掲げられ、長い石畳の先には洋館が静かに佇んでいる。
 けれど、近づいてみればすぐに本当の姿が見えた。
 壁の白はところどころ剥がれ、庭の植え込みは伸び放題で、かつて整えられていたはずの花壇には雑草が揺れている。
 風が吹くたび、枯れかけた葉が乾いた音を立てて転がった。

 澪は、その屋敷の裏手にある薄暗い和室で、静かに膝を揃えて座っていた。畳はところどころ色が変わり、障子の紙には小さな破れがある。
 外から吹き込む冬の風が、紙をかすかに震わせていた。

 冷たいな。
 指先が、少しかじかんでいる。

 澪は自分の袖を握り、そっと息を吐いた。
 そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。

 「澪」

 低く呼ぶ声に、澪は顔を上げる。
 襖の前に立っていたのは、継母の美津子だった。柔らかく結い上げられた髪。上質な着物。薄く引かれた紅。外から見れば、誰もが「気品ある伯爵夫人」と言うだろう。

 だが、その目には刃物のような鋭い光があった。

 「あなた、またそんなみずぼらしい着物を着ているの?」

 澪は自分の袖を見下ろした。
 病て亡くなった母の形見の着物は、何度も繕われている。色も少し褪せて、ところどころ糸が細くなっていた。

 「……これしかありませんから」

 小さく答える。美津子は、ゆっくりと扇子を閉じた。

 「本当に、みすぼらしいわね。汚らしい。伯爵家の娘がそんな姿では、家の恥だわ」
 「申し訳ありません」

 頭を下げる。謝る理由を考えることもなく、反射的に言葉だけが先に出た。

 美津子はしばらく澪を見下ろしていたが、やがて言った。

 「今日は夕食の準備を手伝いなさい」
 「……台所、ですか?」
 「ええ」
 冷たい声だった。
 「あなた、家の役に立つことがほとんどないんだから。せめて使用人を雇う金ぐらい浮かせてちょうだい」

 その言葉に、澪の胸が少しだきゅっと縮んだ。
 ダメよ。考えてはダメ。
 なにも考えなければ、受け入れれば……。

 「わかりました」

 澪は静かに頷いた。
 美津子はその様子を見て、眉をひそめる。

 「本当にあなたは変な子ね。気味が悪い」
 「……?」
 「普通の娘なら、もう少し嫌そうな顔くらいするでしょう」

 澪は少し考えた。
 嫌そうな顔。
 それは、どういう顔なのだろう。
 母が生きていた頃、そんなことを考えたことはなかった。
 澪はゆっくりと口を開いた。

 「……でも台所は、火があって暖かいので。むしろ落ちつきます」

 冬の朝、かまどの火がついている台所は、屋敷のどこよりも暖かい。

 美津子は一瞬、言葉を失った。
 それから、呆れたようにため息をつく。

 「本当に変な子ね」

 そのまま踵を返し部屋を出ていった。
 足音が遠ざかると、部屋にはまた静けさが戻った。
 澪はゆっくり顔を上げる。
 障子の向こうから、冬の光が薄く差し込んでいる。
 外の庭では、風に揺れた枯れ葉がひとつ、ひらりと落ちた。
 それを、澪はぼんやりと見つめる。
 胸の奥に、少しだけ重たいものがある。
 けれど、その形がよくわからない。悲しいのか、寂しいのか、それともただ寒いだけなのか澪には分からなかった。
 少なくとも1つだけ分かることは、母が生きていた頃――のんびりと川を眺めていたごろのような暖かい生活はどこにも残っていないことであった。

 朝霧伯爵家が傾き始めたのは、澪がまだ幼い頃だった。
 澪がまだ十歳のごろ、母が亡くなり、その数年後、父は新しい妻を迎えた。それが、美津子だった。最初の頃、美津子は穏やかな笑顔で澪に接していた。
 だが父の目が届かない場所では、少しずつ扱いが 変わっていった。

 食事はいつの間にか別にされ、量も減らされた。新しい着物は一度も与えられず、母の形見のものを何度も繕って着続けるしかない。
 客が来る日には表へ出ることを禁じられ、屋敷の奥で静かにしていなさいと言われる。

 朝霧家は、もう昔のように豊かではない。
 使用人も減り、屋敷も古び、家の力も弱くなっている。
 そして澪は、この家の娘でありながら、家族ではない。
 それでも澪は、泣かなかった。
 泣き方を、もう忘れてしまったように。
 ただ静かに立ち上がり、冷たい畳を踏む。
 障子の隙間から吹き込む風が、袖を揺らした。