選ばれなかった冷遇妻は手紙一つ残して消えることにした

 春の終わり。遠い昔。

 山あいの村を流れる川は、雪解け水を含んでいつもより冷たく、深かった。
 足を滑らせたのはほんの一瞬だった。だが流れは容赦なく、僕の体をあっという間に川の中央へ引き込んでいく。

 息ができない。
 水が口の中へ入り、肺が焼けるように痛む。

 岸はもう遠い。
 必死に腕を動かしても、体は沈むばかりだった。

 ――ああ、ここで死ぬのか。

 子供ながらに、そんな考えが頭をよぎった。

 そのときだった。

 水の向こうに、小さな影が見えた。

 誰かが川に入ってくる。
 細い腕が、迷いなくこちらへ伸びてくる。

「つかまってっ!」

 必死な声だった。

 僕はもうほとんど意識がなかった。それでもその声にすがるように、目の前の袖を掴んだ。
 冷たい水の中を引きずられるようにして、やがて体が石の上へ倒れ込む。
 激しく咳き込みながら、僕は空気を吸い込んだ。

 生きている。

 その事実に気づくまで、しばらくかかった。

 顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。
 濡れた袖を軽く絞りながら、こちらを覗き込んでいる。
 年は、僕と同じくらいだろうか。
 だが、その表情は妙に落ち着いていた。

 僕は震える声で聞いた。

「……どうして」

 少女は首をかしげる。

「どうして、助けた?」

 僕の声はかすれていた。

「お前も……死んでいたかもしれないんだぞ」

 川は深い。
 子供が入れば簡単に流される。

 それなのに、この少女は躊躇なく飛び込んできた。

 少女は少し考えたように空を見て、そして小さく笑った。

「あなたが溺れていたから助けただけよ」

 呆然とした。信じられない。

「それだけ?」
「うん、それだけ」

 少女は不思議そうに首を傾げる。

「だって、放っておいたらあなた死んじゃうでしょう」

 あまりにも当たり前のように言う。
 まるで特別なことではないと言うみたいに。
 少女は川の方を見た。
 水面が光を受けて揺れている。

「川は宝石みたいできれいだけど、たまに意地悪なのよ」

 その言葉を聞きながら、僕はしばらく何も言えなかった。

 胸の奥が妙に熱くなっていた。

 さっきまで、死ぬと思っていた。
 けれどこの少女は、そんなことまるで大したことではないみたいに僕を引き上げてしまった。

 どうしてだろう。
 この瞬間を、僕は一生忘れない気がした。
 気づけば、自然と口を開いていた。

「僕は……きみの名前は?」

 少女はぱちりと目を瞬かせる。

「私の名前はね……」

 そして、ゆっくり微笑んだ。

 川の光がその笑顔の周りで揺れていた。

「朝霧澪っていうの」

 その名前を聞いた瞬間、なぜか胸の奥に深く刻まれた気がした。

 朝霧澪。

 僕はその名を心の中で繰り返す。

 このとき僕はまだ知らなかった。

 十年後。僕がどれだけその名前を探し続けることになるのかを。

 ただ一つだけ、子供の僕にも分かったことがある。

 もしこの先どこへ行こうと、どんな人生になろうと――この川で出会った少女のことだけは、決して忘れない。

 そう、強く思った。