九条家の広い屋敷は昼間の騒ぎが嘘のように静まり返り、長い廊下の灯りだけがぽつぽつと残っている。庭では、雨に濡れた石畳と木々が月明かりを受けて淡く光っていた。昼の雨の名残で空気はまだ湿っているが、どこか澄んだ冷たさがあり、遠くで虫の声が小さく聞こえる。
澪は縁側に腰を下ろし、庭をぼんやりと眺めていた。昼間からあまりに多くのことが起きた。
紅子との対峙。朔弥の宣言。使用人たちの態度の変化。そして、今こうして本邸の部屋にいる自分。
ほんの昨日まで、離れでひっそりと暮らしていたのに。その事実が、まだ現実として胸に落ちてこない。
濡れた庭石に映る月を見つめながら、澪はそっと息を吐いた。
――私は、本当にここにいていいのだろうか。
離れで過ごした日々は長かった。
誰にも必要とされていないのではないかという不安を、何度も胸の奥で押し殺してきた。
そして昨日。自分は川へ向かった。
すべてを終わらせるつもりだったのだ。
あの冷たい水面が、ふと脳裏をよぎる。
思わず肩が小さく震えたとき、背後で静かに障子が開く音がした。
振り向くと、朔弥が立っていた。
軍服ではなく、家の中で着る落ち着いた色の着物姿だった。
澪は慌てて立ち上がろうとしたが、朔弥は軽く手を上げてそれを制した。澪の隣へ来ると、同じように庭を見下ろす。
風が木の葉を揺らし、雨の雫がぽたりと落ちた。
やがて朔弥が低く口を開いた。
「……今日は澪に不快な思いをさせてしまい、本当にすまなかった」
澪はゆっくり朔弥を見た。
朔弥は庭に視線を向けたまま続ける。
「紅子のことも、屋敷での扱いも、全部だ。本当ならもっと早く整理しておくべきだった。俺はずっと、距離を置くことがお前を守ることだと思っていた。九条家の当主の妻になれば、社交界の噂も、政治の駆け引きも、敵意も……全部背負うことになる。お前はそういう世界とは無縁のまま生きていける方がいいと、勝手に決めつけていた」
朔弥の指がわずかに握られる。
「だがその結果、お前を孤独にした」
澪の胸がチクリと痛む。
朔弥はそこでようやく澪の方を向いた。
月明かりが横顔を照らす。
「……俺の判断が間違っていた」
その言葉には、はっきりとした後悔があった。
澪はしばらく何も言えなかった。
朔弥の表情をこんなに近くで見るのは初めてかもしれない。今までの彼はいつも遠く、届かない場所にいた。
けれど今は違う。
同じ縁側に座り、同じ庭を見ている。
「さっき、お前は言ったな。俺の隣に立ちたいと」
澪は小さく頷いた。
「……俺はずっと恐れていたんだ。戦場でも政敵との戦いでも、怖いと思ったことはほとんどない。だが、お前のことになると話が別だ。怖くて、恐ろしくて仕方がない」
彼の声には自嘲のようなものが混じっていた。
「危険な場所に立たせたくない。嫌な噂も、敵意も、お前には向けたくない。だから全部俺一人で背負えばいいと思っていた」
澪の胸が静かに震える。
ゆっくりと息を吸うと庭の夜気が肺に満ちた。
「はい。でも私はそれが嫌でした。要らないと見捨てられたようで……孤独で仕方なくて……離れで一人でいることも、仕方のないことだと自分に言い聞かせてきました」
胸の奥の記憶が、ゆっくりほどけていく。
「でも、昨日分かりました。朔弥様は私を遠ざけていたのではなく、守ろうとしてくださっていたのだと」
澪は少しだけ微笑んだ。
「それだけで、十分すぎるほど嬉しかったのです」
朔弥の瞳がわずかに揺れる。澪は続けた。
「危険があるなら、一緒に背負います。社交界の視線も、噂も、全部受け止めます。それでも……私は九条家の妻ですから」
澪は朔弥を真っ直ぐ見上げた。
「どうか、私を隣に立たせてください」
沈黙の中で、朔弥はしばらく澪を見つめていた。やがてゆっくりと手を伸ばし、両腕で澪の体をを包み込んだ。
「……分かった」
澪は縁側に腰を下ろし、庭をぼんやりと眺めていた。昼間からあまりに多くのことが起きた。
紅子との対峙。朔弥の宣言。使用人たちの態度の変化。そして、今こうして本邸の部屋にいる自分。
ほんの昨日まで、離れでひっそりと暮らしていたのに。その事実が、まだ現実として胸に落ちてこない。
濡れた庭石に映る月を見つめながら、澪はそっと息を吐いた。
――私は、本当にここにいていいのだろうか。
離れで過ごした日々は長かった。
誰にも必要とされていないのではないかという不安を、何度も胸の奥で押し殺してきた。
そして昨日。自分は川へ向かった。
すべてを終わらせるつもりだったのだ。
あの冷たい水面が、ふと脳裏をよぎる。
思わず肩が小さく震えたとき、背後で静かに障子が開く音がした。
振り向くと、朔弥が立っていた。
軍服ではなく、家の中で着る落ち着いた色の着物姿だった。
澪は慌てて立ち上がろうとしたが、朔弥は軽く手を上げてそれを制した。澪の隣へ来ると、同じように庭を見下ろす。
風が木の葉を揺らし、雨の雫がぽたりと落ちた。
やがて朔弥が低く口を開いた。
「……今日は澪に不快な思いをさせてしまい、本当にすまなかった」
澪はゆっくり朔弥を見た。
朔弥は庭に視線を向けたまま続ける。
「紅子のことも、屋敷での扱いも、全部だ。本当ならもっと早く整理しておくべきだった。俺はずっと、距離を置くことがお前を守ることだと思っていた。九条家の当主の妻になれば、社交界の噂も、政治の駆け引きも、敵意も……全部背負うことになる。お前はそういう世界とは無縁のまま生きていける方がいいと、勝手に決めつけていた」
朔弥の指がわずかに握られる。
「だがその結果、お前を孤独にした」
澪の胸がチクリと痛む。
朔弥はそこでようやく澪の方を向いた。
月明かりが横顔を照らす。
「……俺の判断が間違っていた」
その言葉には、はっきりとした後悔があった。
澪はしばらく何も言えなかった。
朔弥の表情をこんなに近くで見るのは初めてかもしれない。今までの彼はいつも遠く、届かない場所にいた。
けれど今は違う。
同じ縁側に座り、同じ庭を見ている。
「さっき、お前は言ったな。俺の隣に立ちたいと」
澪は小さく頷いた。
「……俺はずっと恐れていたんだ。戦場でも政敵との戦いでも、怖いと思ったことはほとんどない。だが、お前のことになると話が別だ。怖くて、恐ろしくて仕方がない」
彼の声には自嘲のようなものが混じっていた。
「危険な場所に立たせたくない。嫌な噂も、敵意も、お前には向けたくない。だから全部俺一人で背負えばいいと思っていた」
澪の胸が静かに震える。
ゆっくりと息を吸うと庭の夜気が肺に満ちた。
「はい。でも私はそれが嫌でした。要らないと見捨てられたようで……孤独で仕方なくて……離れで一人でいることも、仕方のないことだと自分に言い聞かせてきました」
胸の奥の記憶が、ゆっくりほどけていく。
「でも、昨日分かりました。朔弥様は私を遠ざけていたのではなく、守ろうとしてくださっていたのだと」
澪は少しだけ微笑んだ。
「それだけで、十分すぎるほど嬉しかったのです」
朔弥の瞳がわずかに揺れる。澪は続けた。
「危険があるなら、一緒に背負います。社交界の視線も、噂も、全部受け止めます。それでも……私は九条家の妻ですから」
澪は朔弥を真っ直ぐ見上げた。
「どうか、私を隣に立たせてください」
沈黙の中で、朔弥はしばらく澪を見つめていた。やがてゆっくりと手を伸ばし、両腕で澪の体をを包み込んだ。
「……分かった」



