選ばれなかった冷遇妻は手紙一つ残して消えることにした

 翌朝、九条家の本邸はいつになく重たい空気に包まれていた。使用人たちが、ぎこちない態度で澪に頭を垂れる。昨夜、朔弥が行った宣言のせいであろう。

 澪はまだ慣れない本邸の居間で朔弥と談笑していた。
 その時である。廊下の奥から、荒々しい足音が響いてくる。

「どういうことですの、朔弥様!」

 勢いよく扉が開いた。
 扉の向こう側から現れたのは紅子だった。
 豪奢な着物を身にまとい、怒りで頬を紅潮させている。
 その視線は真っ直ぐ澪へ向けられていた。

「昨日から屋敷中が妙な噂で持ちきりですわ。あの女が本邸に移っただなんて……まさか本当なのですか?」

 居間の空気が凍りつく。
 だが朔弥は少しも動じなかった。

 澪の前へ半歩出ると、紅子をまっすぐ見据える。

 「本当だ」

 短い言葉だった。

 紅子の目が大きく見開かれる。

 「な……」

 信じられない、と言いたげに澪を見る。

「冗談でしょう? あの人はただの飾りの妻でしょう? 社交界にも出さず、離れに住まわせていたではありませんか!」

 その言葉に、周囲の使用人たちが息を呑んだ。


 「紅子」

 朔弥の低い声に場の空気が凍りつく。
 
 「言葉を選べ。飾りなどという言葉は二度とつかうな」

 紅子の顔が強張る。

「でも……」
「彼女は俺の妻だ。飾りなどではない正式な伴侶だ」

 その一言は、きっぱりとしたものだった。
 しかし紅子は納得できない様子で首を振る。

「冗談はおやめください。朔弥様か愛して下さっていたのはこの私でしょう? ずっとこの屋敷に置いてくださって、社交界でも隣に立たせてくださって……周囲は皆、私が九条家の奥方になると思っていましたのに!」

 その言葉には、焦りと怒りが混ざっていた。
 だが朔弥の表情は変わらない。
 むしろ、どこか静かなものだった。
 しばらく紅子を見つめたあと、朔弥は淡々と告げた。

「それは、お前の思い違いだ。お前を屋敷に置いていたのは、お前の父親から頼まれたからだ。娘の縁談がうまくいかず行き先がないから、しばらく九条家で預かってほしいとな」

 その言葉に、紅子の眉が動く。
 使用人たちは互いに目を合わせ、頷いた。
 彼らの紅子に対する視線が段々と冷ややかになっていくことが分かる。

「お前の父親と俺の父の友人だった。九条家もいくつか借りがある。だから断らなかっただけだ」

「……では、私をそばに置いてくださったのは?」

 朔弥は迷いなく言った。

「お前の父親との約束だからだ」

 静かな断言だった。
 紅子の顔色がみるみる変わる。
 朔弥はさらに言葉を重ねる。

「勘違いするな。お前を妻にするつもりは最初からない」

 居間が完全に静まり返る。
 朔弥は澪の手を取った。

「俺の妻は、最初からこの人だけだ」

 ずっと昔から決めていたのだ。