選ばれなかった冷遇妻は手紙一つ残して消えることにした

 澪は欄干に手をかけた。
 木の表面は雨で冷えきっている。

 足をかければ、簡単に越えられる高さだった。
 不思議と怖くはなかった。
 澪はゆっくりと欄干に足をかける。

 その瞬間だった。

「――澪!」

 声が、夜の雨を裂いた。
 鋭く、必死な声だった。
 澪の体が止まる。

 振り返る前に、腕を強く引かれた。
 体がぐらりと揺ぎ、澪は誰かの胸の中に引き寄せられていた。

 強い力だった。逃がさないとでも言うように、腕が背中を抱き締める。

 荒い息が、すぐ近くで聞こえた。

「……なにをしている」

 低い声が、震えていた。
 澪はゆっくり顔を上げる。
 雨に濡れた髪の向こうで、朔弥の瞳がこちらを見ていた。
 以前見た冷徹な表情ではない。
 息を乱し、肩で呼吸をしている。
 まるで、澪を助けるために必死に走ってきたようだった。

 澪は小さく瞬きをした。

「……どうして」

 声がうまく出ない。
 朔弥の腕が、さらに強くなる。

「死ぬ気か」
「……私がいなくても、困る人はいません」

 その言葉を聞いた瞬間、朔弥の顔がわずかに歪んだ。

「ふざけるな」

 澪の肩を掴み、まっすぐに見つめる。
 雨が二人の間に降り続いていた。

「お前を、どれだけ探したと思っている」

 澪は息を止めた。

「……え?」

 朔弥は澪を見つめたまま、低く呟く。

「やっと見つけたのに」

 その声には、長い時間の重さが滲んでいた。
 澪は言葉を失う。
 朔弥の瞳は、暗い雨の夜の中でもはっきりと揺れていた。

「それなのに……」

 朔弥は苦しそうに息を吐く。

「十年前の俺のように冷たい川の中に沈ませるものか」

 澪の胸が強く打つ。

「じゅうねんまえ?」

 澪は朔弥を見上げた。濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、いつも屋敷で見る冷たいものとは違っていた。何かを必死に押し留めているような、苦しい色をしている。

「……どういう、ことですか」
「覚えていないのか?」

 その声には、どこか諦めに似た響きが混じっていた。

「山の近くの川で、お前は一人の子供を助けた」

 澪の胸が小さく揺れる。
 雨の音が、ふっと遠くなった気がした。

 澪の脳裏に、遠い景色が浮かぶ。
 澄んだ水の流れ。石の上に座って見ていた水面の光。そして、流れの中でもがいていた少年。

 濡れた髪、必死に伸ばされた手。

「溺れていた……男の子?」

 朔弥の瞳が、はっきりと揺れた。

「そうだ」

 短い言葉だった。
 澪は言葉を失ったまま、目の前の男を見つめる。

 雨に濡れた軍服。鋭い眼差し。九条家の当主として、誰もが恐れる若き軍人。

 けれど、その顔の奥に、ふと重なるものがあった。
 あの日の少年の瞳。
 まっすぐで、強い光を宿していた目。
 川の水面みたいにキラキラとした綺麗な目。

「まさか、貴方が……」

 朔弥はゆっくり頷いた。

「そうだ。俺だ」
「……朔弥、様が」

 信じられない。突如告られた事実に脳が理解を拒もうとしていた。澪は思わず目を伏せたが。朔弥は視線を逸らさなかった。
 そうだ、忘れていた。たしか少年を助けたあと彼は九条朔弥と名乗っていた。澪はすっかり忘れていたが、朔弥はずっと覚えていてくれたらしい。

 低い声で続ける。

「あの日、俺は死ぬところだった。流れに足を取られて、息もできなくて……もう終わりだと思った。そこにお前が来てくれたんだ」

澪はしばらく何も言わず、ただ朔弥を見上げていた。
胸の奥で渦巻いていた感情が、なぜか今は妙に静まっている。先ほどまで死ぬつもりだったからだろうか。恐怖も、恥も、遠慮も、すべてどこかへ流されてしまったようだった。

やがて澪は、ゆっくりと息を吐いた。

「……そう、だったのですね。あのとき川で助けた子供が、朔弥様だったなんて……」

雨が睫毛に溜まり、ぽたりと落ちる。
だが涙ではない。澪の瞳は、不思議なくらい静かだった。

「それで、やっと分かりました」

 小さく首を傾け、どこか遠くを見るように言う。

「どうして私が九条家に嫁ぐことになったのか」

 その言葉に、朔弥の眉がわずかに寄る。

 澪は一歩、朔弥に近づいた。濡れた着物の裾が足にまとわりつく。川の冷たい空気が、肌を刺すようだった。

「最初からご存知だったのですね。私が、あの川で貴方を助けた娘だと」

 視線を逸らさず、まっすぐ問いかける。

「だから私を嫁に迎えた……そういうことなのでしょう?」

 澪は、ふっと小さく笑った。それは喜びでも照れでもなく、どこか乾いた笑みだった。

「……でも、それなら、なおさら分からないのです。命を助けた相手だから、恩返しのつもりで妻にしたのでしょうか。それとも、借りを返すために形だけの結婚をした……そんなところでしょうか」

 朔弥の表情がわずかに硬くなる。
 澪は止まらなかった。
 胸の奥に溜まっていたものが、静かにあふれ出していく。

「だって、そうでしょう。もし本当に……私が特別だったのなら、どうしてあのような扱いをなさるのですか。嫁に迎えたのに、私はずっと離れに一人で住まされていました。屋敷の中でお顔を見ることもほとんどなくて、社交界では隣に立つことすら許されない。まるで最初から存在しない妻のように扱われて……それなのに今になって、命の恩人だったとおっしゃるのですか?」

 胸がじわりと痛む。
 けれど、もう抑える気にはならなかった。
 どうせ、さっきまで死ぬつもりだったのだ。
 今さら何を失うというのだろう。
 澪は静かに続けた。

「……私は、ずっと考えていました。どうして私はここにいるのだろうと。どうして九条家に嫁いだのだろうと。何か意味があるのかもしれないと、何度も思いました。けれど結局、分からなかったのです」

 雨が頬を流れる。

「ただ、必要とされていないことだけは、よく分かりました。だから……もう、どうでもよくなったのです」

 朔弥の瞳が揺れる。澪はそれに気づかないまま、静かに言った。

「さっき、川に入ろうとしたとき、不思議と怖くありませんでした。ああ、これで全部終わるのだと思ったら、やっと楽になれる気がして……」

 朔弥の目を真っ直ぐ見た。

「ですから、今さら本当の理由を聞いても、もうどう受け止めればいいのか分からないのです……ただ一つだけ、教えてください」

 澪の瞳は静かだった。
 静かすぎるほどに。

「もし最初から私だと知っていたのなら……どうして私を嫁に迎えたのですか。そして、どうしてあんなふうに一人にしたのですか」

「……すまない」

 短い言葉だったが、それは軍人としての形式的な謝罪ではなかった。朔弥は澪の肩を掴んだまま、逃げずにその瞳を見つめ続けている。

「お前を離れに住まわせたことも、屋敷の中で一人にしたことも、社交界で隣に立たせなかったことも……全部、俺が決めたことだ。お前がどれだけ孤独だったのか、どれだけ苦しんでいたのか、本当は分かっていたはずなのに、俺はそれでも距離を置く方を選んだ。だからまず謝らせてくれ。すまなかった。使用人がお前の書き残した遺書を見つけるまで、俺は自分がどれだけ愚かなことをしていたのか、まともに理解していなかった」

 朔弥の後ろをよく見ると千代が3人分の傘を持ちながら涙を浮かべて立っていた。どうやら彼女が澪の遺書を見つけて朔弥に伝えてくれたらしい。
 
「だが一つだけ誤解するな。お前を嫁に迎えた理由は、恩返しなんかじゃない。確かに俺はあの日、お前に命を救われた。だが俺の中に残ったのは借りや義務なんかじゃなかった。川の水の冷たさも、溺れていた恐怖も、全部いつかは薄れていったが……あのとき手を差し伸べてきたお前の姿だけは、どうしても消えなかった。どこの誰かは分からない。分かるのは名前だけ。ただ一度会っただけの娘なのに、気がつけば何年も頭の中に残り続けていた。だから俺は探した。何年かかってもいいと思った。どこの家の娘なのか、どこにいるのか、必ず見つけ出すと決めていた。軍に入ったのも、家を継いだのも、出世しようとしたのも、理由はいくつもあるが、その中には確かに“お前を見つけるため……不自由のない生活を送らせるための力が必要だった”という思いがあった」

雨の向こうで川が低く流れている。

朔弥の声は静かだったが、その奥には抑えきれないものが滲んでいた。

「そしてやっと見つけた。お前が九条家に嫁ぐ話が持ち上がったとき、俺がどれだけ安堵したか、お前には分からないだろう。お前を妻にしたのは、誰かに命じられたからでも、借りを返すためでもない。俺が望んだからだ。お前を手放したくなかったからだ。きっと、あの時俺はお前に恋をしていたのだ。……だが、結果はこの通りだ。愚かなことに俺は守るつもりだった存在を孤独に追い込んだ」

 朔弥の指が、わずかに強く澪の肩を掴む。

「澪。お前がどう思っていようと構わない。恨まれてもいい。だがこれだけは覚えておけ。俺がお前を妻にしたのは義務でも恩返しでもない。ただ、お前を手放したくなかったからだ。衣食住には困らず、妻の責務を追わせず、なに不自由なく平穏な一生を送って欲しかったのだ」

 頭の中が真っ白になってから、刹那――澪はやっと告られた言葉の意味を理解した。

 ――ああ、そうだったのか。

 澪はゆっくりと目を伏せた。
 雨が睫毛を濡らし、静かに落ちる。
 朔弥が何も言わなかった理由。屋敷で距離を置き続けていた理由。離れで一人にしていた理由。

それは拒絶ではなく――守るためだった。

「……申し訳ありません」

 朔弥の眉がわずかに動く。澪は続けた。

「私は、ずっと自分が必要とされていないのだと思っていました。だから先ほどのようなことまで言ってしまいました。ですが……今、ようやく分かりました」

 雨の中で、澪はまっすぐ朔弥を見た。

「朔弥様は、私を遠ざけていたのではなく……守ろうとしてくださっていたのですね……それなのに私は、そのお気持ちも知らずに責めてしまいました。本当に……申し訳ありません」

「お前が謝る必要は……」

 澪は小さく頭を下げた。雨が髪を濡らし、肩を伝って落ちる。しばらくそのまま黙っていたが、やがてゆっくり顔を上げた。

「ですが……もし、まだお許しいただけるのなら……お願いがあります」

 朔弥の瞳が澪を捉える。
 澪は少しだけ手を握りしめた。

 胸がはち切れそうなぐらいドクドクと高鳴っている。
 けれども、もう逃げたいとは思わなかった。

「私はこれまで、九条家の妻として何一つ果たしてきませんでした。離れで守られて、ただ静かに日々を過ごしていただけです。でも――それでは、もう嫌なのです。どうか、私に妻の責務を背負わせてください。九条家の女として、この家を支える役目を与えてください」

 ここまでしっかりと自分の意思を示せたのは何年ぶりであろう。ずっと、ずっと、全てを諦めて口を閉ざしてきた。でも、やっと伝えられたのだ、

「私は朔弥様の隣に立ちたいのです」

 朔弥は放心したように眉を上げてから微笑んだ。
 彼の笑顔からは冷徹な軍人のごとき冷たさはなくら今澪の目の前にいたのは、どこにでもいる一人の男であった。

「分かった」

 朔弥は何も言わず、そっと澪を腕の中へ引き寄せた。雨に濡れた体を包み込むように強く、けれど壊れ物に触れるように優しく抱きしめる。その胸の奥で、長く押し殺してきた想いがようやくほどけていった。