選ばれなかった冷遇妻は手紙一つ残して消えることにした

 夜半、離れの和館はひどく静かだった。
 雨が降っているらしく、屋根を打つ音が途切れず続いている。庭の松が風に揺れ、濡れた枝が障子に影を落としていた。

 澪は机の前に座っていた。
 小さな行灯の灯りが、紙の上を淡く照らしている。机の上には白い便箋が一枚、まっさらなまま置かれていた。
 澪はしばらく、その紙を見つめていた。
 胸の奥が、ひどく静かだった。
 泣きたいとも、苦しいとも思わない。ただ、何かがすっかり抜け落ちてしまったような、空っぽの感覚だけが残っている。

 筆を取る。
 墨を含ませると、指先がわずかに震えた。
 なにを書けばいいのだろう。

 しばらく考えて、澪はゆっくり筆を走らせた。

 九条朔弥。

 自分の夫の名を、こうして書くのは初めてかもしれない。

 思い出すのは結婚初日。朔弥は澪をほとんど見ずに部屋を出て行った。

 あの背中。
 振り返ることもなく、静かに扉が閉まった音。
 それでも澪は、少しの間だけ待っていた。
 もしかしたら戻ってくるのではないかと。
 けれど扉が開くことは、結局一度もなかった。
 それからの日々は、静かに過ぎていった。

 離れの和館。
 使用人たちの笑い声。
 紅子の冷たい言葉。
 それでも、澪は怒らなかった。
 怒る理由が、よく分からなかったからだ。
 もともと自分は、誰かに必要とされる人間ではない。そう思って生きてきた。全て受け入れて、諦めてきたねだ。

 だから、この結婚も同じだったのだろう。

 ただ、少しだけ、ほんの少しだけ……もしも、あの人が一度だけでも自分の名前を呼んでくれたなら、必要としてくれたら。

 澪はゆっくり瞬きをした。
 視界が少し滲む。
 それでも筆を置かなかった。

 妻として何もできず、申し訳ありませんでした。

 書き終えると、しばらくその文字を見つめていた。

 そっと深呼吸をしてから、ただ一つだけ、付け足す。
 どうか、幸せになってください。

 筆を置く。

 墨の匂いが、静かな部屋に広がった。
 澪は紙をそっと畳み、机の上に残した。

 行灯の灯りが揺れる。
 外では、雨の音が少し強くなっていた。
 澪は静かに立ち上がる。

 もう、やることは残っていない。

 障子を開けると、冷たい夜の空気が流れ込んできた。雨は細く、けれど途切れることなく降り続いている。

 澪は一度だけ、部屋を振り返った。

 小さな箪笥。
 簡素な机。
 窓の外の庭。

 ここで過ごした時間は短かった。
 それでも、不安に苛まれなくて良いこの場所にはほんの少しだけ愛着があった。

 縁側に降り、雨の中へ足を踏み出す。
 足元で、濡れた石がかすかに光った。
 ただ静かに、屋敷の門を出た瞬間、雨の匂いが澪を包んだ。

 夜の町は静まり返っている。昼間は人で賑わう通りも、この時間になると灯りがまばらに残るだけだった。軒先に吊された行灯が、濡れた石畳の上にぼんやりと光を落としている。

 澪は足を止めずに歩いた。

 雨は細く、けれど絶え間なく降り続いている。着物の袖がすぐに重くなり、髪の先から雫が落ちた。
 それでも、寒いとは思わなかった。

 ただ静かに、足を前へ出す。

 下駄の音が、濡れた石畳に小さく響く。
 その音さえ、夜の町に吸い込まれるように消えていった。

 ふと、店の軒下に灯りが見えた。小さな甘味処らしい。戸は閉まっているが、奥の灯りがまだ消えていない。

 その前を通り過ぎたとき、中から笑い声が聞こえた。

「そんなこと言わないでくださいよ」
「いいじゃないか。今日はよく働いたんだろう?」

 夫婦なのだろうか。穏やかな声だった。
 澪は足を止めなかった。
 ただ、その声を聞きながら歩く。
 胸の奥に、ほんのわずかな痛みが生まれる。

 ――ああ。分かった。

 人は、ああして笑うのだ。

 誰かと一緒に、誰かと同じ時間を過ごして、そんな当たり前のことを、澪はほとんど知らなかった。

 朝霧家でも、九条家でも。

 雨はまだ降り続いている。
 町の灯りが、濡れた路地に滲んでいた。

 澪は川の方へ向かって歩いていた。

 橋が見えてくる。黒い水が、夜の中で静かに流れていた。欄干の上に落ちる雨粒が、小さな波紋を広げている。

 澪は橋の手前で立ち止まった。
 しばらく水面を見つめる。
 川の流れは暗く、底は見えない。灯りが揺れて、細く歪んでいた。
 その光を見ていると、遠い記憶が胸の奥に浮かぶ。
 昔、同じように川の水を見ていたことがあった。
 あのときは昼だった。水は透き通っていて、光がきらきら揺れていた。

 けれど今は違う。

 暗い水が、静かに流れているだけだ。
 澪はゆっくりと橋へ歩いた。
 雨が頬を伝い、顎から落ちる。
 それが涙なのかどうか、自分でも分からなかった。
 ただ一つだけ、静かな思いが胸の奥にあった。

 ――もう、いいや。諦めた。

 誰にも必要とされないまま生きていくより、きっとその方が楽なのだろう。

 澪は欄干の前で足を止めた。
 川の流れが、夜の中で低く音を立てている。
 風が吹き、雨が少し強くなった。

 澪は目を閉じた。