冷酷軍神の愛しい人〜お飾り妻だと思われていましたが、冷たい夫は私を溺愛していました

 春の終わり、山あいの村を流れる川は、雪解け水を含んでいつもより静かに、そして深く澄んでいた。
水面には若葉の影が揺れ、風が吹くたび、光が細かな鱗のようにきらめく。

 朝霧澪は、その川辺にひとり立っていた。
 まだ幼い少女だったが、同い年の子どもたちのように川に入ったら石を投げて遊ぶことはなかった。
 ただ、静かに流れを見つめている澪を鶯が不思議そうに眺めていた。

「……今日もきれいね。キラキラして宝石みたい」

 小さく呟いた声は、水音に溶けていく。
 澪が川の水面に手を伸ばしたとき――。

 ばしゃり、と水が大きく跳ねた。

 顔を上げる。
 川の中央で、何かが必死に手を動かしていた、
 動物……いや、人か。
 黒い髪の少年が、水面に沈みかけていた。

 溺れている――!

 川の流れは穏やかに見えても、底は深い。
 足がつかない子供にとって川は、いとも簡単に命を奪ってしまう脅威であった。
 
「……あら大変」

 澪は驚くでもなく、ただ一歩、川へ近づいた。

「溺れてるわ。今、助けないと死んじゃうわよね」

 まるで、庭の花がしおれているのを見つけたように呟いてから、澪は躊躇なく川へ入っていた。

 冷たい水が肌を突き刺し、着物の裾が重く沈む。
 それでも澪は迷わなかった。
 溺れている少年の腕を、ぐっと掴む。

「つかまってっ!」

 少年は半ば意識を失いながらも、必死に澪の袖を握った。その重みを引きずりながら、澪はゆっくり岸へ戻った。

 岸へ引き上げられた少年は、しばらく咳き込んだあと、震える目で澪を見上げた。

「……どうして」

 声が掠れている。

「どうして、助けた?」

 お前も死んでいたかもしれないんだぞ、と少年は震える声でつぶやく。澪は濡れた袖を軽く絞りながら、少し考えた。

 そして小さく笑った。

「溺れていたから助けただけよ」

 少年は呆然とした。

「それだけ?」

「うん、それだけ」

 澪は首をかしげる。

「だって、放っておいたらあなた死んじゃうでしょう」

 澪はそう言って、川の水面を見た。
 光がゆらゆら揺れている。

「川は宝石みたいできれいだけど、たまに意地悪なのよ」

 少年はしばらく言葉を失っていた。
 そしてやっと、掠れた声で言う。

「僕は……きみの名前は?」
「私の名前はね……」

 澪はゆっくりと微笑んだ。