無能の鬼姫〜温かな絆、忍び寄る鬼の因縁〜

学園祭の熱狂が、まだ教室の隅々に微かな余熱として残っている。
あの日を境に、クラスメイトたちとの間にあった見えない壁は音を立てて崩れ、代わりにしなやかで強い絆が結ばれていた。
がらりと教室の扉を開け、自分の席に腰を下ろす。それを合図にしたかのように、周囲からわっとクラスメイトたちが駆け寄ってきた。
「玲花ちゃん、おはよう! ねえ、今日も放課後一緒に勉強しようよ」
「玲花さん、本当にありがとう! お陰で昨日の再テスト、ついに赤点脱出できたんだから!」
次々に投げかけられる親愛の情がこもった言葉。向けられる真っ直ぐで屈託のない笑顔に、私の心も自然と解けていく。
「よかった、力になれて。今日はどの教科から始めましょうか?」
弾むような雑談の輪。その温かな空気の中に身を委ねていた、その時だった。
賑やかな喧騒を切り裂くようにして、冬美がその輪へと割り込んできた。
「玲花ちゃん! 今日の放課後、駅前にできたお店にパフェ食べに行かない?」
冬美が弾んだ声で提案してくる。
「いいよ、冬美。あ……そうだ、神城さんも誘っていいかな?」
「もちろんでしょ! 二人の甘々なデートを特等席で眺めるつもりなんだから、誘ってくれなきゃ困るよ!」
「ちょっ、冬美……っ、恥ずかしいよ」
思わず口ごもる私を、冬美はニマニマと意地の悪い笑みを浮かべて覗き込んできた。
私たちのやり取りを聞いていたクラスメイトたちからも、次々と茶化すような声が飛ぶ。
「玲花さん、デート楽しんできてくださいね!」
「明日の報告、楽しみにしてますから!」
周囲からの祝福混じりの冷やかしに、顔が火を吹くほど熱くなっていく。
耐えきれずに視線を落として俯くと、冬美が追い打ちをかけるように「あはは、玲花ちゃん可愛い~!」と声を上げた。
私は、上気した頬を冷ますように手でパタパタと仰ぐ。それでも、目の前で笑う冬美やクラスメイトたちの温かな表情を見ていると、胸の奥がじんわりと柔らかな幸福感で満たされていくのを感じていた。
(みんなと、こんなにも穏やかで幸せな日々を過ごせている。今の私は、本当に幸せ者だわ)
 胸の内でそっと独りごちたとき、不意に脳裏をかすめたのは、薫の姿だった。
 私が神子として覚醒して以来、あんなに執拗だった彼女からの嫌がらせは、ぴたりと止んでいた。
 平穏が戻ったことに安堵している自分もいる。けれど、あの日を境に薫の顔から生気が失われ、ひどく憔悴しているのが気にかかっていた。特に星華祭が終わってからは、以前にも増して、今にも倒れそうなほど疲れ切った様子を見かけるようになった。
 そんな彼女を心配する気持ちはある。けれど、きっと薫なら大丈夫なはずだ。
 私とは違って、彼女には惜しみない愛情を注いでくれる家族がいる。それに、支えてくれる婚約者だっているのだから。       きっと、今は何かの役目や準備で忙しくて、一時的に疲れているだけなのだろう。
(私も何か手伝ってあげられたらいいんだけど……。でも、薫は私のことを嫌っているし、むやみに近づかないほうが彼女のためよね?)
そう自分に言い聞かせ、私はあえて薫と関わることを避け、凪いだ海のような平穏な日々を送り続けていた。

最後の授業が終わったと共に、教室の緊張感はふわりと解けた。
教室は放課後の穏やかな雰囲気に包まれた。クラスメイトたちとひとしきり笑い合い、心地よい疲れを感じながらノートを閉じる。
そして私と冬美は周りのみんなと「また明日」と笑顔で言葉を交わし、賑やかな余韻の中で鞄を肩にかける。
私は隣に立つ冬美と顔を見合わせ、まだここにはいない神城さんの姿を探して、ゆっくりと放課後の時間を歩き出した。
最近はクラスの輪に混ざる賑やかな時間も増えたためこの三人で何処かへ出かけることが減っていた。勿論、クラスメイトと過ごす日常も好きだ。でも、やはりこの三人で過ごすひとときは、私にとって何物にも代えがたい「特別」だ。、この三人でいる時だけは、心の底から自分らしくいられる。胸の奥で小さく跳ねる期待を感じながら、これから始まる至福の時間に思いを馳せる。
――その時、静寂を切り裂くように、校内放送の無機質なチャイムが響き渡った。
『一年C組、雪乃冬美様。大至急、職員室まで来てください』
スピーカーから流れた無機質な声が消えると、私と冬美は顔を見合わせ、同時に首を傾げた。
――おかしい。本来、私たちのクラスが呼び出されることなんて、まずあり得ない。
「無能」の烙印を押され、期待値ゼロ。先生たちにとって私たちは、名前を呼ぶ価値さえない存在だと言われているほどなのだ。
そんな教師たちからも完全に見放されているはずのCクラスの生徒に、名指しでの「大至急」。
私と冬美の間に流れたのは、言葉にならないほどの強い違和感だった。
「冬美……もしかして、何か心当たりある?」
私の問いに、冬美は困惑したように首を振る。そもそも『無能』のCクラスが呼び出されるのは、不吉な知らせの時くらいだ。
「さぁ……何もしてないはずなんだけど。やっぱり、行ったほうがいいよね?」
小刻みに震える冬美の声。私は強く頷いた。「うん、大至急って言ってたし。早く行かないと」
――けれど、冬美は動かない。その瞳には、私を一人にすることへの深い躊躇いが滲んでいた。
「でも、玲花ちゃんを一人にしちゃうし……もし、何かあったら……」
彼女が心配しているのは、私の中に眠る『神子』の力のことだ。
私は冬美の言葉を聞き、脳裏に、神城さんの険しい表情が蘇る。
『絶対に一人になるな。覚醒した玲花を狙う輩は沢山居るから』――。
その忠告が胸を締め付ける。正直、怖い。
けれど、もし冬美が命令を無視して退学になれば、それこそ取り返しがつかない。それに、神城さんだってすぐここに来るはずだ。
私はそう自分に言い聞かせて、迷いを振り払うように、冬美の目を見て言葉を紡いだ。
「大丈夫だよ。神城さんもすぐにここに来るはずだし……もしものことがあっても、彼に守ってもらうから。だから、迷わず行って」
私は努めて穏やかな声で、冬美の不安を打ち消すように告げた。私の言葉に、冬美は迷いを振り切るように一度だけ深く頷く。
「……わかった。すぐ戻るからね!」
弾かれたように教室を飛び出していく彼女の背中を見送りながら、私は一人、静まり返った教室に立ち尽くした。
冬美の足音が遠ざかり、教室には耳が痛くなるほどの静寂が降り積もった。つい先ほどまでの賑わいが嘘のような、現実味を欠いた空気に、胸の奥がざわりと波立つ。
落ち着かない心をなだめるように、私は窓の外へ目を向けた。昼の青を飲み込んでいく夕焼け空。グラデーションを描く放課後の空は、息を呑むほど綺麗でそのあまりの美しさに、不安さえ忘れて見惚れていた、その時だ。
――背後で、ガラリ、と乾いた音を立てて扉の開く音が響いた。
誰か来た。冬美が用事を済ませたのか、それとも神城さんが駆けつけてくれたのか。
「遅いよ、二人とも……」
弾む声で振り返った私の思考が、瞬時に凍りつく。
振り返った私の視界に飛び込んできたのは、見覚えのない、見知らぬ誰かの姿だった。
その人物は私を捉えた瞬間、射抜くように目を見開いた。向けられた視線の鋭さに心臓が跳ね上がり、私は震える声を絞り出す。
「あの……どちら、様ですか……?」
問いかけは虚空に消え、相手はただ石像のように私を見つめ続けている。
耳が痛くなるほどの沈黙の後、ようやくその唇が不気味に動いた。
「貴方が、鬼龍院玲花か?」
その名が呼ばれた瞬間、神城さんの警告が頭の中で警報のように鳴り響く。
「ち、違います……!」
私は反射的に否定し、弾かれたように出口へ向かって駆け出した。
けれど、扉に手をかけるより早く、腕を掴まれる。
強引に引かれた腕に鋭い痛みが走り、そのまま抗う間もなく、冷たい壁へと押し付けられ、逃げ場を完全に失った。
視界がじわりと滲み、熱い涙がこぼれそうになる。私はそれを必死に堪え、震える声を絞り出した。
「なっ、何なんですか……離してくださいっ!」
威勢よく言い放つつもりだったのに、私の声は情けないほど上ずっていた。
男はそんな私を観察するように見つめ、確信に満ちた声で呟いた。
「隠しても無駄ですよ。貴方が『神子』だ」
「違います……! 私じゃありません、人違いですっ」
縋るような私の否定に、男はふっと表情を緩めた。
「そうか。本当に、違うんだな」
諦めたようなその響きに、私は何度も、何度も頷く。
ようやく腕の力が緩み、解放される――そう安堵した瞬間、男が放った次の一言に、私の思考は真っ白に凍りついた。
「だったら――ここで死ね」
非情な宣告と共に、男の手から放たれた銀色の閃光。
死を悟った私の脳裏に、真っ先に浮かんだのは神城さんの厳しい、けれど優しい横顔だった。
(ごめんなさい、神城さん……)
走馬灯のように駆け巡る記憶の中で、最後に残ったのは彼との約束だった。
守れなかった謝罪を心の中で呟き、私は固く目を瞑り、訪れるはずの衝撃に身を強張らせる。
けれど、いつまで経っても痛みはやってこない。
代わりに感じたのは、凍えそうな心を溶かすような、力強く温かな体温だった。
「……大丈夫か?」
恐る恐る目を開けると、そこには私を強く抱きしめる神城さんの姿があった。耳元で囁く、いつもの甘い声。
けれど、私を見つめるその綺麗な頬には、私を庇ってついた紅い傷が刻まれて一筋の血が流れていた。
私を守るために傷ついたその証が、胸が締め付けられるほど愛おしく、そして苦しい。
男は勝ち目がないと踏んだのか、忌々しげに私たちを睨みつけると、舌打ちを一つ残して、教室の窓から闇へと消えていった。

そして静寂に包まれた教室には今にも泣き出しそうなほど切実な神城さんの声が響いた。
「玲花! よかった、無事で……!」
私を見つめる神城さんの瞳には、激しい動揺が渦巻いていた。差し出された手は痛々しいほど震えていた。
彼は私を強く、けれど大切に抱きしめる。その腕の力強さは、二度と運命に私を奪わせないという決意の表れのようだった。
「すまない、俺の不手際だ。一瞬たりとも、お前から目を離すべきではなかった……許してくれ」
掠れた声で繰り返される懺悔。彼をこれほどまでに追い詰めてしまった事実に、私の胸は鋭く痛んだ。
(また、この人を悲しませてしまった。私、なんて最低な婚約者なの……)
痛いほどに締め付けられる腕の強さが、彼が味わった絶望の深さを物語っていた。
彼の腕から伝わる、止まらない鼓動と震え。
その震えが、私の肌を通じて心までじりじりと伝わってきた。
「ごめんなさい……神城さん。私のせいで、また……」
謝罪を口にする私の唇を、彼の震える指がそっとなぞる。
「謝らないでくれ。玲花が無事なら、それだけでいい。……ただ、お願いだ。もう二度と、俺の視界から消えないでくれ」
普段の冷静さを欠いた、縋るような弱々しい声。私は胸を締め付けられ、ただ黙って頷くことしかできなかった。
その後、私は冬美に手短に事情を話し、神城さんの手で守られるようにして帰宅した。
家に着くなり、彼は私を逃がさないように抱きすくめ、耳元で熱を帯びた言葉を刻みつける。
「これからは一秒たりとも、君を一人にはしない。学校でも、家でも、眠っている間さえもだ。例え玲花が嫌がっても、俺の腕の中に閉じ込めておく。……いいな?」
問いかける彼の瞳には、守護の域を超えた、底知れない独占欲が渦巻いている。その「危うい愛」に気づきながらも、
今の私には彼を拒む術も、意志もなかった。ただ彼を安心させたいという一心で、私は静かにその籠の中へと身を沈めた。


[side 神城]
授業終了を告げるチャイムが、これほど忌々しく感じたことはなかった。
急ぎ足で一年C組の教室へ向かいながら、胸のざわつきが収まらない。
最近の学園生活で、玲花がクラスメイトたちと打ち解けているのは喜ばしいことだ。
だが、それゆえに彼女の周りには隙が生まれていた。
玲花達が待つ教室へ向かっている途中、静寂を破る機械音が校内に響いた。
『一年C組、雪乃冬美様。大至急、職員室まで来てください』
その瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。冬美を呼び出して玲花を一人にする。あまりに露骨で、あまりに不吉な誘い出しだ。
「クソッ……!」
俺はなりふり構わず走り出した。彼女のクラス、C組は「無能」と蔑まれ、教師たちからも無視されている。
そんな場所へ「大至急」の呼び出しなど、裏があるに決まっている。
玲花、一人になるなと言ったはずだ。どうか、動かないでくれ。
教室のドアを乱暴に開け放とうとした瞬間、中から玲花の悲鳴に近い拒絶の声が聞こえた。
「違います! 私じゃありません……人違いですっ」
視界が真っ赤に染まる。
教室の隅、壁に押し付けられた玲花の細い肩と、彼女に刃を向けようとする見知らぬ男の背中が見えた。
「だったら――ここで死ね」
男の手から銀色の閃光が放たれた。
「……っ、玲花!!」
思考より先に体が動いていた。玲花の前に割り込み、飛来する短刀を腕で叩き落とす。
鋭い刃先が俺の頬をかすめ、熱い血が伝う感覚があったが、そんな痛みはどうでもよかった。
俺はそのまま、震える玲花を腕の中に引きずり込んだ。
「……大丈夫か?」
努めて甘く、いつものように囁く。だが、俺の手は情けないほどに震えていた。
もし、あと一秒遅れていたら。もし、俺がここに辿り着けなかったら。
腕の中の温もりが失われていたかもしれないという恐怖が、俺の理性を内側から焼き尽くしていく。
刺客の男は、俺の形相に気圧されたのか、舌打ちを残して窓から闇へと消えていった。追いかける気など失せていた。
今の俺には、この腕の中にある命を確認すること以外、何も手につかない。
「ごめんなさい……神城さん。私のせいで、また……」
玲花が消え入るような声で謝る。その健気さが、余計に俺を追い詰めた。
「謝らないでくれ。玲花が無事なら、それだけでいい。……ただ、お願いだ。もう二度と、俺の視界から消えないでくれ」
自分でも驚くほど弱々しい声が出た。彼女を失うことは、俺の世界が崩壊することと同義だ。
その後は冬美に最低限の事情を説明し、玲花を抱えるようにして家へと連れ帰った。
リビングの灯りの下、俺は再び彼女を強く抱きしめる。今度は、もう二度と離さないという呪いをかけるように。
「これからは一秒たりとも、君を一人にはしない。学校でも、家でも、眠っている間さえもだ。例え玲花が嫌がっても、俺の腕の中に閉じ込めておく」
俺は彼女の瞳をじっと見つめた。
そこには、俺の中に芽生えた異常なまでの独占欲への戸惑いが見えた。
だが、彼女は拒絶しなかった。
「……それでも良いか?」
俺のその言葉に玲花は「はい」という小さな返事を返す。
その瞬間、俺の中で何かが完結した。
神子として覚醒した彼女を狙う輩は、これからも現れるだろう。
ならば、俺が彼女のすべてを管理し、支配し、守り抜くしかない。
たとえそれが、愛という名の「檻」であったとしても。
俺は彼女を、誰の手にも触れさせない。