翌朝、隣を歩く神城さんの気配を感じながら登校する私を、冷ややかな視線と密やかな囁き声が追いかけてきた。
(なに……? また、悪い噂でも流れているの)
そんな不吉な予感に胸をざわつかせていると、「おはよう、玲花ちゃん!」と弾んだ声が響き、冬美が勢いよく抱きついてきた。
「おはよう、冬美。ねぇ……なんだか皆さん様子がおかしくない? 私を見て何か話しているようだけれど、心当たりはある?」
私の問いに、冬美は小首をかしげて少し考え込んだあと、ポンと手を打った。
「あ、もしかして! 廊下の掲示板に定期テストの結果が貼り出されたから、それじゃないかな」
彼女に促されるまま掲示板へ向かうと、そこには人だかりができていた。
私は人混みをかき分け、最前列に立つ。 貼り出された成績上位者のリストは、例年通りAクラスの秀才たちと、わずかなBクラスの生徒たちで埋め尽くされていた。
けれど、その頂点――。
「一位 Cクラス・鬼龍院 玲花」
燦然と輝くその文字が、一番高い場所に刻まれていた。
昨日の返却時に自分が学年一位であることは知っていたけれど……まさか、全校生徒の晒し者になるなんて聞いていない!
驚き冷めやらぬまま順位表を辿れば、そこには冬美の名前もしっかりと刻まれていた。 彼女も死に物狂いで食らいついた甲斐あって、見事二十位にその名を刻んでいた。
傍らで掲示板を見上げていた神城さんが、柔らかな、けれど真っ直ぐな視線を私たちに向けた。
「……大したものだ。胸を張っていいぞ、二人とも」
朝一番に彼から贈られたその言葉が、熱を持って胸の奥に染み渡る。 喜びを噛み締めながら、神城さんと別れて冬美と教室の扉をくぐった。
教室内に入った瞬間、いつも以上に密度の濃い視線が突き刺さるのを感じた。
(……やっぱり、筒抜けなのね)
居心地の悪さを感じながら席に着くと、周囲の話し声がさざ波のように耳に届く。
「学年一位って、本当に玲花様なんだな」
「Cクラスからトップが出るなんて快挙だよ。まさに俺たちの誇りだ!」
「流石は神子様……霊力だけでなく学業まで完璧だなんて、溜息が出てしまうわ」
聞こえてくるのは棘のある陰口ではなく、純粋な称賛と驚きだった。
ようやく安堵の息をついた私は、冬美と並んでテストの解き直しを始めることにした。
けれど、間違えた箇所があまりに少なすぎて、振り返りは一瞬で終わってしまう。 それは冬美も同様だったようで、私たちは自然と談笑に興じていた。
すると、遠巻きに様子を伺っていたクラスメイトたちが、堰を切ったように私の席へと押し寄せてきた。
「玲花様! 学年一位、本当におめでとうございます!」
「一体、どんな魔法を使えばあんな点数が取れるんですか!?」
「普段、どのようなお勉強をなさっているのか、ぜひ教えてください!」
興奮気味に詰め寄る彼らを「まずは落ち着いてください」と宥めながら、私は頬を朱に染め、気恥ずかしさを隠せないまま、たどたどしく答え始める。
「そんな……大したことではないです。私はこれまで、皆様に多大なるご迷惑をかけてきました。だから、せめて学問の面くらいは、足を引っ張らぬよう努めただけで……今回は、運が味方してくれたに過ぎません」
謙虚に微笑む私の姿は、クラスメイトたちの目にはどう映ったのだろう。 彼らは一様に胸を打たれたような面持ちで沈黙し、やがて一人の男子生徒が、意を決したように一歩前へ踏み出した。
「あの、玲花様……! 俺に勉強を教えていただけないでしょうか。このままじゃ単位が危なくて……っ」
絞り出すような彼の言葉を皮切りに、堰を切ったように次々と周囲の生徒が頭を下げた。
「私も、お願いします!」
「俺も! このままだと留年しちまうんだよ……!」
切実な懇願の嵐に、私がどう応えるべきか戸惑っていると、冬美が凛とした足取りで私の前に立った。
「ちょっと待ちなさいよ。お願いをする前に、まずは今まで玲花ちゃんにしてきたことを謝るのが先じゃないの?」
「……冬美」
彼女の鋭くも真っ当な指摘に、教室内は一瞬で静まり返った。
クラスメイトたちの脳裏に、かつての自分たちの姿が苦い記憶として蘇る。 無能だと蔑み、心ない言葉を投げかけ、彼女の心を深く傷つけてきた日々。
すると、先ほどの男子生徒が、今度は謝罪のために勢いよく頭を下げた。
「……今まで、本当に申し訳ありませんでした!!」
それを合図に、一人、また一人と頭を下げる輪が広がっていく。
「すみませんでした!」
「ひどいことばかり言って、本当に……っ」
教室中に響く謝罪の言葉。 冬美の不器用なまでの優しさに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、私は改めて、深く頭を下げる彼らと真っ直ぐに向き合った。
「皆さん……顔を上げてください」
私の静かな制止に、クラスメイトたちは恐る恐る視線を上げた。その瞳には、後悔の色が濃く滲んでいる。
「確かに、私は皆さんの何気ない言葉に、何度も心を傷つけられてきました。苦しくて、悲しくて……一時は、生きることさえ嫌になってしまったこともあります」
私の告白に、彼らは罪悪感からビクリと肩を震わせ、俯きそうになる。けれど、私はそれを許さぬように言葉を紡ぎ続けた。
「でも、私はずっと……皆さんと仲良くなりたかった。無能だとか、神子だとか、そんな肩書きではない一人の女の子としての私を見てほしかった。……だから、皆さん。これからは過去を悔いるのではなく、互いに助け合いながら、歩み寄ってはいただけませんか?」
それは、私の我儘な願いだった。
拒絶されるかもしれない――そんな不安を他所に、クラスメイトたちは弾かれたように顔を上げ、何度も大きく頷いた。
「はい……! これからは、絶対に仲良くさせてください。本当に、ごめんなさいっ」
「ごめんなさい、玲花様。あんなに酷いことをしたのに……。これからは絶対に、あなたを一人になんてさせません!」
感極まったような謝罪の声が次々と上がる。 ふと冬美の方へ視線を向けると、彼女は誇らしげに口角を上げ、力強く親指を立ててみせた。
(ありがとう、冬美……)
彼女が背中を押してくれたおかげで、入学当初からの密かな夢が、今ようやく形になった。 神子としてではなく、一人の「鬼龍院玲花」として皆と友達になるという、贅沢な夢が。
滲む涙で視界が潤んでいく。私は溢れ出しそうな想いを声に乗せた。
「……皆さん、もう気にしないでください。これからは『クラスメイト』として、一緒に頑張りましょう」
私の言葉を合図に、教室を支配していた重苦しい空気は霧散した。
クラスメイトたちが一斉に駆け寄り、温かな輪が私を中心に広がっていった。
「ありがとうございます、玲花様。こちらこそ、これからよろしくお願いします!」
晴れやかな笑顔が教室中に広がり、冬美も私の隣に並んで「良かったね、玲花ちゃん」と優しく肩を叩いてくれた。 親友の温もりに、張り詰めていた心の糸がふわりと解けていく。
しかし、冬美はすぐに「さあ皆! 泣いてる場合じゃないよ!」とパンと手を叩き、クラスの空気を一変させた。 そして私にだけ聞こえるような小さな声で、「……後はよろしくね、玲花先生?」と悪戯っぽく囁いた。
私はその言葉に力強く頷き、期待の眼差しを向けてくる皆へ向かって、凛とした声を上げた。
「では、皆さん、教科書を開いてください。早速、一緒に勉強を始めましょう!」
「はいっ!」という威勢のいい返事が響き、クラスメイトたちは一斉に自分の席へと戻っていく。 カバンから教科書を取り出す音、ページをめくる音、隣同士で教え合う声。
(これからは、皆さんと一緒に歩んでいける……)
胸に広がる確かな喜びを噛み締めながら、私は教卓に自らの教科書を広げた。もう、そこには孤独な影などどこにもなかった。
放課後の教室は、かつての静寂が嘘のように、活気に満ちた明るい熱気に包まれていた。
私は皆さんが躓いた問題の解法を伝えながら、机の間を忙しく回る。 教える側も教わる側も真剣で、そこには確かな絆が芽生え始めていた。
ふと教室の入り口に目を向けると、神城さんが静かに立っていた。
どうやら、いつものお迎えの時間になったらしい。けれど、解説はあともう少しで一通り終わるところなのだ。
私は彼のもとへ駆け寄り、申し訳なさを抱えながら言葉を紡いだ。
「神城さん、すみません。……もしよければ、お迎えの時間を少しだけ遅らせてくれませんか?」
「玲花。どうした、急に。時間の調整はいくらでも可能だが……理由を聞かせてもらえるか?」
神城さんは不思議そうに眉を寄せた。私は背後の教室を振り返りながら答える。
「実は、皆さんにテストの解説をしていたんです。もう少しで全員分が終わるんです。なので……どうか、お願いします」
いつものように甘やかしてくれるだろう。そう信じて彼を見上げた。
しかし、私の言葉を聞いた瞬間、神城さんの表情が険しく一変した。 それは、普段の彼からは想像もつかないような、冷徹で烈火の如き怒りの形相だった。
「玲花、なぜだ。なぜ……あんな奴らと馴れ合っている」
神城さんの声は、低く、地這うような怒りに満ちていた。彼は私を遮るように一歩踏み込み、鋭い視線を教室の面々へと向ける。
「言ったはずだ。あいつらは玲花の神子としての肩書きに群がっているに過ぎない。お前を傷つけ、利用しようと狙っている可能性だってあるんだぞ」
「で、でも……神城さん、皆さん本当に反省して……っ」
「『でも』じゃない! 俺はお前を守るために言っているんだ。玲花、俺との約束を破るつもりか?」
突き放すような冷たい言葉が胸に突き刺さる。
ようやく手にした、クラスメイトとの温かな絆。 けれど、それを否定する神城さんの瞳には、私への執着にも似た過保護なまでの危惧が渦巻いていた。
(せっかく、みんなと笑い合えたのに……。また、あの孤独な日々に逆戻りなんて嫌……!)
けれど、神城さんにまで見放されてしまったら、私は……
葛藤に押し潰されそうになり、視界が涙で歪み始めたその時――。
「任せて、玲花ちゃん」
不意に、隣から心強い声がした。冬美が私の耳元でそう囁くと、毅然とした態度で神城さんの前に立ちはだかった。
「ねぇ……神城様。少し、言い過ぎじゃないですか?」
静かではあるけれど、真っ向から彼を射抜く冬美の声。 神城さんはその言葉を撥ねつけるように、さらに鋭利な視線を彼女へと突き刺した。
「雪乃さん。貴方にも釘を刺しておいたはずだ。玲花が神子として覚醒した以上、周囲への警戒を怠るなと。……それに、俺との約束はどうした。玲花に変な虫がつかぬよう見守ってほしいと頼んだはず。それなのに、虫どころか、こんな有象無象の群れに玲花を投げ出すなど」
氷点下の温度を帯びた神城さんの言葉に、教室の空気は凍りつく。 あまりの迫力に、クラスメイトの何人かは青ざめ、震えながら立ち尽くしていた。
それでも、冬美は一歩も退かなかった。神城さんの威圧感を正面から受け止め、毅然と言い返す。
「確かに、神城様の仰る通りです。私だって、今まで玲花ちゃんを蔑んできた人たちと仲良くさせるなんて、これっぽっちも思っていませんでした。けれど……」
冬美は言葉の途中でふと私を振り返ると、慈しむような柔らかな笑みを浮かべた。
そして、再び神城さんの方を向き、その瞳に譲れない決意を宿して真っ直ぐに見据えた。
「玲花ちゃんが、クラスの皆と仲良くしたいって心から願ったから……! だから私は、彼女の背中を押したんです。私は、玲花ちゃんにいつも笑っていてほしいから。神城様だって、同じでしょう!?」
冬美の叫ぶような訴えに、神城さんは弾かれたように目を見開いた。その瞳に一瞬、動揺が走る。
けれど、彼は依然として頑ななまま、消え入りそうなほど微かな、切実な声を漏らした。
「……だが、玲花に何かあってからでは遅いんだ。私は……もう二度と、彼女を失いたくない」
その声に含まれたあまりに深い孤独と恐怖に、私は息を呑んだ。
神城さんは、私が思っていた以上にずっと、私がいなくなることを、私という存在が壊れてしまうことを、何よりも恐れていたのだ。
私は、盾となってくれた冬美に「ありがとう」と瞳で精一杯の感謝を伝えると、震える脚で神城さんの隣へと歩み寄った。
そして、彼の手を、逃がさないように両手でぎゅっと握りしめる。
「神城さん、私の話を聞いてください……」
伝わる体温。私は自分の想いを、一言ずつ丁寧に彼へ紡ぎ始めた。
「神城さん……確かに私は、貴方ほど強くはありません。普通の女の子と同じで、弱くて、すぐに傷ついて、悲しい思いをすることだってたくさんあります」
私の言葉に、神城さんは「玲花……」と、胸を締め付けられるような切ない声を漏らした。 けれど、私は神城さんの手をさらに強く握り、言葉を重ねた。
「でも、神城さんが私のおかげで変わったと言ってくださったように、私も神城さんのおかげで変わることができたんです。無能で役立たずだと蔑まれ、誰からも疎まれていた私を……神城さんが見つけ出してくれたから、私の世界は色付いたんですよ」
「俺の……おかげ、だと?」
驚きに揺れる彼の瞳を、私は真っ直ぐに見つめ返した。
「はい! 全て神城さんのおかげです。神城さんが隣にいてくださるから、私は安心して今日という日を笑って過ごせる。幸せな毎日を噛み締めることができるんです。神子として覚醒して以来、周囲の目が変わり、神城さんも不安の中で必死に私を守ろうとしてくれていたんですよね……」
私は少し背伸びをして、子供をあやすように彼の頭を優しく撫でた。
「でも、今の私は貴方が思っている以上に成長しています。だから、どうか安心してください。私の周りには心強い護衛の方々もいますし、何より……世界で一番信頼できる神城さんが、側にいるんですから」
「玲花……」
神城さんの強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「あっ、でも! もし何か困ったことがあったら、すぐに神城さんを頼ります。だから、どうか信じてください。私は絶対に、神城さんの側を離れたりしません。私も……神城さん以外の方と人生を歩むなんて、考えられません」
最後の方は、自分でも顔が熱くなるのがわかるほど必死に伝えた。
私の言葉を最後まで静かに受け止めていた神城さんは、やがて、憑き物が落ちたような、いつもの穏やかで慈愛に満ちた笑みをその唇に浮かべた。
「あぁ、そうだな……すまない、玲花。君を守ることばかりに固執して、一番大切な君の気持ちを蔑ろにしていた」
「いいんですよ。これからは、もっとお互いに話し合っていきましょう? ……ふふっ、このお話、前にも一度しましたね」
「そうだったな。ははっ、本当に玲花らしい」
張り詰めていた空気がふわりと解け、私たちは顔を見合わせて笑い合った。そして、仲直りの証として、子供のように小指を絡め合う。
「神城さん、これからもよろしくお願いします」
「玲花……。あぁ、こちらこそよろしくな」
ようやく教室に、先ほどのような柔らかく温かな陽だまりが戻ってきた。
そんな私たちの様子を、少し離れた場所から「ごっほん!」と大仰な咳払いが遮る。
振り返ると、そこには聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべた冬美が、ゆっくりと近づいてくるところだった。
「玲花ちゃん、よく言ったわね。本当に頑張ったじゃない」
「冬美……ありがとう。冬美のおかげよ、本当に」
私の心からの感謝に、彼女は「全然いいってことよ!」と快活に笑い、指で綺麗なオッケーサインを作ってみせた。
神城さんも、バツが悪そうにしながらも、冬美に向かって真摯に頭を下げる。
「雪乃さん、先ほどは失礼なことを言った。すまなかったな。……君のおかげで、こうして玲花と向き合うことができた」
その言葉に、冬美は可笑しそうに肩を揺らして答えた。
「へへっ、全然いいですよ! これからも玲花ちゃんと仲良くしてあげてくださいね」
「っ、あぁ……! 本当に、ありがとう」
神城さんは照れくさそうに冬美へ深く感謝を伝えると、改めて私の方へと向き直った。 その瞳には、先ほどまでの刺々しさは微塵も残っていない。
「玲花……本当にすまなかった。これからは、クラスメイトの皆とも仲良くしていい。玲花の望む学園生活を、心から応援する」
「はい! ありがとうございますっ」
「だが……嫌なことをされたら、絶対に隠さず言うんだぞ? いいな」
「ふふ、分かりました。必ず、一番に神城さんに相談します」
ようやく得られた許しに胸を弾ませていると、神城さんは教室に残っていた生徒たちの方を向き、「これから、玲花をよろしく頼む」と、守護者として、そして一人の人間として、深く丁寧にお辞儀をした。
クラスメイトたちは、あの威厳ある神城さんからの思わぬ言葉に、「は、はいっ!」「こちらこそ!」と、慌てて背筋を伸ばして頭を下げた。
「じゃあ、問題も解決したことだし! ラストスパート、いくわよー!!」
冬美にぐいっと手を引かれ、私は再び黒板の前に立たされた。
神城さんは私の空いた席に腰を下ろすと、まるで宝物でも眺めるような、どこまでも温かな眼差しをこちらに向ける。
(……神城さん、見すぎです)
背中に突き刺さる熱烈な視線の気恥ずかしさに、顔が赤くなるのを必死に耐えながら、私はチョークを手に取った。
幸せな喧騒が戻った教室で、私は最高に誇らしい気持ちで、再び授業の続きを始めるのだった。
テストの喧騒が去ったばかりの教室に、再びペンが走る音と微かな熱気が戻っていた。
数週間前から始まった、Cクラス全員での勉強会。
私たちが早々にペンを握り直したのには理由がある。学園側から突如として、「クラス対抗実力テスト」の開催が告げられたからだ。
それは単なる個人の成績を競う定期試験とは一線を画す。クラス全員の平均点で順位が決まる、いわば「団結力」を測るための試練。 上位に食い込めば、学食の優先利用権や図書カードの支給、さらには『学年最優秀クラス』という至高の栄誉までもが手に入る、エトワール学園きっての一大イベントなのだ。
「……とはいえ、ね」
私は心の中で小さく溜息をついた。
かねてより「万年最下位」と揶揄されてきたこのCクラス。私の指導だけで、果たしてこの逆境を覆せるのだろうか。 そんな消えない不安を胸の端に追いやりながら、私は今日も教壇に立ち、仲間たちと共に机に向かい続けている。
一日の指導を終え、いつものように神城さんと共に帰路につく。
夕闇に包まれ始めた街並みを窓の外に眺めながら、高級車の柔らかなシートに身を委ねていた。
ふと思い立ち、車内の静寂を破って「クラス対抗実力テスト」の話題を切り出す。
「神城さんのクラスは、いつも何位くらいなんですか?」
私の問いかけに、隣に座る彼は迷うことなく即答した。
「一位だ。……認めがたいことだが、Aクラスの連中は確かに優秀な者が揃っているからな」
「そう、ですか……」
想定していた答えではあったが、あまりの格差に声が自然と沈んでしまう。 すると、私のわずかな変化を察した神城さんが、覗き込むように視線を向けてきた。
「どうした。何か心配事か?」
その鋭くも優しい洞察力に、胸の奥がじんわりと温かくなる。私の機微をすぐに見抜いてくれることが、今はたまらなく嬉しかった。
私はその温もりに背中を押されるように、今抱えている不安と、Cクラスの現状を静かに語り始めた。
「実は……Cクラスの皆さんに勉強を教えているんですけど、過去に一度も最優秀を取ったことがないと聞いて。私一人の指導で、本当に大丈夫なのかなって不安になっちゃって」
打ち明けた悩みに、神城さんは少しの間、思考を巡らせるように黙り込んだ。そして、静かに口を開く。
「そうだな……もし俺で良ければ、Cクラスの連中に勉強を教えてもいいが、どうだろうか?」
「えっ、いいんですか? 神城さん、お忙しいんじゃ……」
驚きに目を見開く私に、彼はふっと表情を和らげた。
「構わない。それに、玲花と一緒に勉強できるなんて、俺にとってはご褒美のようなものだからな」
「もう、神城さん……! 恥ずかしいこと言わないでください」
頬に熱が昇るのを感じて、私は照れ隠しに軽い文句を返した。 けれど、先ほどまで胸を占めていた霧は、いつの間にか綺麗に晴れ渡っている。
神城さんと一緒に、目標に向かって歩める。ただそれだけで、心は幸福感で満たされていくようだった。
彼と心強い約束を交わして帰宅した後も、私は机に向かった。 テストに出そうな要点をまとめた自作のプリントを、一枚一枚丁寧に作り上げていく。
ペンを走らせる音だけが響く夜。充実した自習の時間を終えた私は、明日に向けていつも通りの、けれどどこか心弾む夜を過ごした。
翌朝、私はいつもより数段早いアラームの音で目を覚ました。
昨日、クラスメイトたちから「朝学習をしよう」という提案があったからだ。彼らのやる気が消えないうちに、私もその熱に応えたい。
手早く支度を済ませてリビングへ向かうと、そこには既に端正に制服を着こなした神城さんの姿があった。
「神城さん、おはようございます」
「ああ、おはよう。今日は朝学習だろう? さあ、早く朝食を済ませて学園へ向かうぞ」
彼の言葉に促されるように、私は急いでテーブルについた。目の前に並んだ食事を口に運ぶけれど、向かい側に座る神城さんが、私の様子をどこか微笑ましそうに眺めている。その穏やかな視線が少しだけ面はゆくて、なんだかいつもより食事が喉を通りにくい。
そんな、こそばゆいほど幸せな朝のひとときを過ごした後、私たちは迎えの車に乗り込み、活気付き始めた学園へと向かった。
神城さんと共に教室の扉を開けると、そこには既に熱気が満ちていた。
クラスメイトたちはそれぞれの机に教科書や参考書を広げ、私たちの到着を今か今かと待ち構えている。
「すみません、皆さん! すぐに準備しますから!」
慌てて教壇へ向かおうとする私に、冬美が「大丈夫、そんなに急がなくても」と優しく声をかけてくれた。 周りのみんなも、その言葉に同意するように深く頷いてくれる。
けれど、冬美の視線が私の隣に立つ人物に留まった瞬間、彼女の表情が劇的に凍りついた。
「あ、あの……玲花ちゃん。なんで、神城様がここに……?」
冬美は信じられないものを見たというように、目を見開いて絶句している。 その問いに私が答えようとするよりも早く、隣から低く落ち着いた声が響いた。
「今日だけだが、お前のたちに勉強を教えに来た」
神城さんの淡々とした、けれど絶対的な存在感を放つ宣言。
その言葉が教室の隅々にまで届いた刹那、水を打ったように静まり返っていた空間が、地鳴りのような驚愕の声に包まれた。
「ええええええっ!?」
クラス全員の叫びが一つになり、朝の静かな校舎を激しく揺らした。
「えっ、本当にあの神城様が教えてくれるのか?」
「嘘だろ……夢でも見てるんじゃないか」
どよめきが収まらないクラスメイトたちを前に、神城さんは静かに、けれど明確な理由を口にした。
「玲花一人にすべてを任せすぎるわけにはいかないからな。一日限りの助力だが、彼女の負担を少しでも減らしたいと思っただけだ」
そう言って、彼は私にだけ柔らかな微笑みを向ける。
その眼差しに含まれた深い慈しみを感じて、私の心臓は跳ねるように脈打った。 胸のときめきが抑えられず、指先まで熱くなっていくのがわかる。
ところが、その甘い空気を切り裂くように冬美の茶化すような声が響いた。
「はいはい、お二人さん! イチャイチャするのは後にしてくださーい!」
「ふぇっ!? ち、違っ……!」
クラス中から飛んでくる温かな冷やかしに、私は顔を真っ赤にしながら慌てて教材を広げた。 こうして、熱気と少しの照れくささが混じった特別授業が幕を開ける。
授業が始まると、教室の空気は一変した。
今日はいつも以上に学習範囲が驚くほどの速さで進んでいく。クラスメイトたちの理解力も、目に見えて向上しているのが分かった。
(……やっぱり、神城さんのおかげだわ)
Aクラスの中でも随一の才覚を誇る神城さんの教え方は、驚くほど的確で無駄がない。 さっきまで難しい顔をしてペンを止めていた子たちが、魔法にかけられたかのように、次々と問題を解き進めていく。
彼の鮮やかな手腕と、それに応えようとするみんなの熱意。その光景を隣で見守りながら、私は確かな手応えを感じていた。
神城さんの鮮やかな手際を尊敬の眼差しで見つめながら、私も負けていられないと冬美や他の生徒たちの元を回る。 神城さんが全体を底上げし、私が細かな躓きをフォローする——。その連携は驚くほどスムーズだった。
「なるほど、そういうことか……!」
「あ、分かった! 玲花ちゃん、ありがとう!」
あちこちで理解の産声が上がる中、あっという間に朝学習の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
クラスメイトたちは、かつてないほどの達成感を顔に浮かべ、次々と神城さんの元へ歩み寄っていく。
「神城様、本当にありがとうございました!」
「すごく分かりやすかったです!」
口々に感謝を述べるみんなに、神城さんは傲ることなく静かに頷いていた。
その後始まった通常授業でも、教室に漂う集中力は途切れることがなかった。 朝の熱が冷めないまま時間は過ぎ、やがて放課後のチャイムが放課後の訪れを告げる。
放課後の勉強会も、引き続き神城さんが協力してくれた。
彼の存在は、荒波を導く灯台のように確固としていた。 おかげで、いつもなら説明に時間がかかる難問も驚くほど効率的に進み、私はかつてないほど楽に、そして深くみんなに教えることができたのだった。
神城さんとの特別授業を経て、瞬く間に日々は過ぎ去った。そして、ついに「クラス対抗実力テスト」の前日。
私たちは放課後の学園カフェに集まり、最後の大詰めとなる勉強会を開いていた。
カフェのテーブルは、広げられた教科書や使い込まれた参考書、書き込みで埋まったノートで埋め尽くされている。 柔らかな照明が灯る空間には、試験を目前に控えた独特の緊張感と、それを上回るほどの熱気が渦巻いていた。
私は、連日夜遅くまで机に向かって作り上げた「最終対策プリント」を全員に手渡した。
「玲花様、この問題の解き方をもう一度教えていただけますか?」
「ここは、この公式を当てはめてみてください。複雑に見えますけど、パズルのピースを嵌めるみたいに考えれば大丈夫ですよ!」
「玲花様! 次はこちらをお願いします!」
「はい、今行きますね!」
あちこちから上がる声に応え、私は一人ひとりの席を回っていく。
慌ただしく立ち働く中で、ふと気づいた。
最初は不安げにペンを動かしていたクラスメイトたちの瞳に、今は揺るぎない自信が宿っていることに。
私の言葉一つひとつを真剣に聞き入り、自力で正解に辿り着いた瞬間にパッと表情を輝かせる。 そんな彼らの姿を見て、私の中にあった「私だけの指導で大丈夫だろうか」という迷いは、いつの間にか消え去っていた。
「玲花ちゃん、ここの関係代名詞の書き換え、もう一回だけお願い!」
窓の外が完全に夜の帳に包まれても、誰一人として席を立つ者はいなかった。疲労の色が滲み始めたクラスメイトたち。けれど、その指先は一度も止まることなく、知識を吸収しようと貪欲に紙面を走っている。
彼らの限界を超えた熱量に、私も全身全霊の指導で応えた。
「もちろんです! ここを指で隠して、パズルみたいに当てはめてみて……。ほら、完璧です!」
「わっ、本当だ、できた! 玲花ちゃんに教わると、霧が晴れるみたいに仕組みがわかるよ」
目の前でパッと表情を明るくする仲間の姿に、胸が熱くなる。
そんな中、冬美が立ち上がり、疲れの見え始めた生徒たちの背中を力強く叩いた。
「さあ、あと一踏ん張りよ! 玲花ちゃんが夜な夜な作ってくれたこの予想問題。これさえ完璧にすれば、私たちは絶対に勝てるわ!」
冬美の凛とした、それでいて包容力のある鼓舞がカフェに響き渡る。その声に弾かれたように、生徒たちの瞳に再び闘志の火が灯った。
「そうだな、玲花様があれだけ頑張ってくれたんだ。俺たちが負けるわけにはいかない!」
再び一斉にペンが走り出す音。めくられる紙の音。
互いに励まし合い、高め合うその空間は、かつて「万年最下位」と揶揄されたCクラスの姿ではなかった。
冷たい夜風が窓を叩く中、カフェの中だけは確かな希望と絆に満たされていた。
それは間違いなく、Cクラスにとって過去最高の、そして最も熱い「決戦前夜」となった。
ついに迎えた、運命のテスト当日。
前回の定期テストの時に教室を覆っていた「どうせ俺たちなんて」という諦めの泥濘は、どこにもなかった。今の教室に満ちているのは、「絶対に最優秀クラスを獲るんだ」という、刃のように研ぎ澄まされた自信。それはこれまでの過酷な勉強会、そして何より私を信じてついてきてくれた、みんなの努力の結晶だった。
やがて、静寂を切り裂くように試験開始のチャイムが鳴り渡る。
一斉に答案を裏返す、乾いた音。
私も一呼吸置き、問題用紙に視線を落とした。
(……あ!)
視界に飛び込んできたのは、夜を徹してプリントにまとめ、みんなと繰り返し解いた数式、あの英単語、そして冬美と一緒に確認した文法事項。
そこには、私たちが積み上げてきた時間のすべてが刻まれていた。
ふと顔を上げると、クラスメイトたちも同じ手応えを感じているのが分かった。 「これ、知ってる!」「解ける!」という確信に満ちた表情で、迷いなくペンを走らせている。 かつては難問を前に止まっていた彼らの背中が、今はとても頼もしく、眩しく見えた。
(みんな……!)
胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、私は再びペンを握り直す。
一人じゃない。クラス全員の想いを乗せたペン先は、驚くほど軽やかだった。
試験から数日が過ぎ、ついに運命の瞬間が訪れた。
「クラス別対抗・実力テスト」の結果が掲示される昼休み。私たちCクラスは、祈るような心地で掲示板へと足を運んだ。 誰もが口を数センチ開けたまま、心臓の鼓動を聞きながら群衆の先を見つめる。
掲示板の前にたどり着いたその時だった。
「……えっ?」
誰かが掠れた声を漏らす。その困惑を含んだ響きに心臓を跳ねさせながら、私は慌てて順位表の最上段へ視線を走らせた。
『第一位 Cクラス』
目に飛び込んできたのは、力強く刻まれたその文字。
信じられずに平均点へ目を移すと、そこには二位のAクラスを大きく引き離す、圧倒的な数字が並んでいた。
「やったぁぁぁぁぁ!!」
刹那、静まり返っていた廊下に、鼓膜を震わせるほどの歓喜が爆発した。
「嘘だろ!? 本当に一位だ!」「やった、やったぞ!」
クラスメイトたちは掲示板を見上げながら、ある者は抱き合い、ある者は拳を突き上げ、弾けるような笑顔で勝利の味を噛み締めている。
「玲花ちゃん、私たち……本当に、やったんだね……っ」
隣を見ると、冬美が溢れる涙を拭いもせずに泣き笑っていた。
彼女の震える肩に触れながら、私もまた、視界が熱く滲むのを止められなかった。
ふと周囲に目を向ければ、そこには絶句して石像のように固まったAクラスやBクラスの生徒たちがいた。 万年最下位の逆襲という「事件」を前に、誰もが言葉を失っている。
その驚愕の視線を背に受けながら、私はかつてない達成感と、仲間たちへの誇らしさで胸をいっぱいに満たしていた。
狂喜乱舞する私たちの元へ、苛立ちを隠せない他クラスの生徒たちが詰め寄ってきた。
「Cクラスが一位だなんて、ありえないわ! 玲花様お一人が高得点ならまだしも、クラス全員がこんな数字を出すなんて……。何か不正でもしたんじゃないの!?」
心ない疑いの言葉。けれど、冬美はそれを鼻で笑い、毅然とした態度で一蹴した。
「不正? 冗談はやめて。この結果はね、玲花ちゃんが私たちを見捨てずに注ぎ続けてくれた努力と、私たちがそれに応えようと必死で食らいついた証よ! ね、玲花ちゃん?」
冬美に同意を求められ、私は少し照れくささを感じながらも、疑いの目を向ける他クラスの生徒たちを真っ直ぐに見据えた。
「これは、みんなが自分を信じて最後まで走り抜いた結果です。……他のクラスの皆さんも、私たちを疑うことに時間を使うより、次に向けてクラスメイト同士で切磋琢磨してみてはいかがでしょうか」
私の言葉には、もう以前のような迷いはなかった。 凛としたその一言に、詰め寄っていたA・Bクラスの生徒たちは気圧されたように言葉を失い、やがて渋々といった様子で自分たちの教室へと引き上げていった。
「玲花ちゃん、最高にかっこよかったよ! 本当に、本当にありがとうね!」
再びクラスのみんなに囲まれ、称賛と感謝の輪の中心に身を置く。私は今、これ以上ないほど幸せな笑みを浮かべていた。
学年一位という個人の栄冠よりも、クラス全員で泥臭く足掻き、共に掴み取ったこの勝利。
それは私にとって、どんな宝石よりも価値があり、何倍も誇らしいものだった。
放課後。教室には、神城さんの姿があった。
神城さんは集まったCクラスの面々を見渡し、満足そうに目を細めて告げた。
「よく頑張ったな。お前たちの努力は、この結果にふさわしいものだ」
学園の至宝とも称され雲の上の存在である彼からの真っ直ぐな称賛に、クラスメイトたちは顔を輝かせ、喜びを爆発させる。 そのまま教室は、勝利を祝う「最優秀おめでとうパーティー」の会場へと早変わりした。
「そういえば、今回の立役者! 玲花ちゃん、何か欲しいものはない? 私たちが叶えられる範囲なら、なんでも言っちゃって!」
いつも以上に上機嫌な冬美が、ジュースのコップを片手に問いかけてくる。 皆の視線が期待を込めて私に集まる中、私は少し考えてから、ずっと胸に秘めていた願いを口にした。
「……それじゃあ、一つだけ。皆さん、私の『様』付けをやめてほしいんです」
「ええっ、それだけでいいの!?」
冬美の驚愕の叫びが響く。けれど、私にとっては切実な願いだった。
「様付けだと、なんだか距離がある気がして……。これからはもっと気軽に『ちゃん』付けで呼んでほしいんです。どうしても抵抗がある人は『さん』付けでもいいので。……もっと、皆さんと近くなりたいんです」
私の控えめな、けれど精一杯のお願いに、クラスメイトたちは一瞬呆気に取られた後、温かな微笑みを浮かべて深く頷いてくれた。
「玲花ちゃんってば、どこまで謙虚なのよ」
冬美は可笑しそうに笑うけれど、私は本気だった。
今回の「クラス対抗実力テスト」が私たちにくれたのは、勝利の称号だけじゃない。 共に苦楽を乗り越えたことで、クラスの絆はかつてないほど強固に結ばれた。
呼び名が変わる。 ただそれだけのことが、新しく始まった私たちの関係を象徴しているようで、私は胸の奥が温かな幸福感で満たされるのを感じていた。
Cクラスが実力テストで学年首位を奪取したというニュースは、またたく間に学園全土へと波及し、激しい衝撃を与えた。
その立役者が学年トップの玲花であり、彼女の指導が「神がかっている」という噂は、もはや隠しきれるものではなくなっていた。
翌日の昼休み、Cクラスの教室前には異様な光景が広がっていた。 他クラスの生徒たちが、ノートや参考書を手に、まるで聖地巡礼でもするかのような長い列を作っていたのだ。
「あの……玲花さん、少しだけでいいので、この問題を教えてもらえませんか?」
「玲花さん、僕たちも次の小テストの範囲がわからなくて……! お願いします!」
窓際で静かに本を読んでいた私の元へ、次々と他クラスの生徒たちが押し寄せる。 突然の事態に目を白黒させながらも、持ち前の断れない性格が顔を出す。
「ええと、あ、はい。……ここなら、こう考えれば解けると思います」
困惑しつつも、私は結局ペンを手に取り、一人ひとりに丁寧に教え始めてしまった。
その様子を、Cクラスの面々は複雑な表情で見守っていた。
「私たちの玲花ちゃん」が、自分たちだけの特別な存在ではなくなっていくような、誇らしさと少しの独占欲。
教室には、熱狂的な他クラスの活気と、Cクラスの仲間たちの微妙な沈黙が、奇妙に混ざり合っていた。
「……なんだよ、あいつら。自分たちが今まで玲花ちゃんのこと『無能』扱いしてたくせにさ」
一人の男子生徒が、苦々しげに吐き捨てた。自分たちが頭を下げて謝罪し、カフェで共に汗を流してようやく勝ち取った「玲花先生の特別授業」。それを、喉元過ぎればと言わんばかりに横から掻きさらっていく他クラスの無遠慮さに、憤りを感じずにはいられなかった。
「そうだよ。玲花ちゃんは優しいから、困ってる人を放っておけないんだから……」
冬美は不機嫌そうに腕を組み、廊下まで伸びる列に鋭い視線を突き刺す。Cクラスにとって、玲花はただの成績優秀者ではない。 自分たちの過ちを許し、共に高みを目指してくれた、かけがえのない精神的支柱なのだ。
「ちょっと、そこまでになさい!」
ついに、冬美が動いた。玲花を守るように、他クラスの生徒たちとの間に毅然と割って入る。
「いい? 玲花ちゃんは私たちのクラスの『教育委員』なの。あんたたちに教える義理なんてないし、彼女にだって休む時間は必要でしょ? 質問なら、まずは自分たちのクラスの一位に聞きに行きなさいよ!」
冬美の放つ凄まじい迫力に、他クラスの生徒たちは一瞬たじろぎ、言葉を失う。しかし、彼らもまた必死だった。Cクラスの劇的な躍進を目の当たりにした今、その「奇跡の源」に縋りたいという切実な想いが、彼らを突き動かしていた。
「でも、Cクラスの平均点があんなに跳ね上がったのは、玲花さんのおかげだって聞いたんです……! 僕たちだって、今のままじゃいけない、変わりたいんです!」
必死に訴えかける他クラスの生徒。 その言葉が呼び水となったのか、教室内で静観していたCクラスの面々が、示し合わせたように一斉に立ち上がった。
「……変わりたいなら、まずは自分たちの足で立てよ。これ以上、玲花さんに甘えるな」
「そうだ。玲花ちゃんは、俺たちのために削らなくていい時間まで削ってくれたんだ。これ以上、彼女に負担をかけるのは俺たちが許さない!」
それは単なる独占欲などではなかった。 かつて自分たちが彼女に強いてしまった苦労を知っているからこそ抱く、切実な「守りたい」という保護者意識。
私は、自分の前に立ちはだかって盾となってくれるクラスメイトたちの背中を見つめ、そっと胸に手を当てた。 かつては私を疎み、遠ざけていたはずの彼らが、今は私のために声を荒らげ、矢面に立ってくれている。 その事実が、何よりも、どんな称賛の言葉よりも嬉しかった。
私はそっと冬美の肩に手を置き、彼女の隣へ並ぶ。 そして、期待と焦燥の入り混じった瞳でこちらを見つめる他クラスの生徒たちに向かって、穏やかに、けれど芯の通った声で語りかけた。
「皆さん、ありがとうございます。……でも、私はCクラスの皆さんと一緒に勉強する時間が、何よりも大切なんです。だから、お昼休みや放課後は、まずはクラスのみんなとの約束を優先させてください。……ごめんなさい」
きっぱりとした、けれど柔らかな拒絶。その言葉に、食い下がろうとしていた他クラスの生徒たちも、最後には肩を落として静かに去っていった。
「……玲花ちゃん、かっこいい! 言うようになったじゃない!」
冬美が茶化すように笑いかけると、周りのクラスメイトたちも「そうだよ、玲花ちゃんは俺たちの勝利の女神なんだから!」と口々に囃し立てる。
「もう……女神だなんて、大げさですよ。ほら、冷やかしはおしまい。次の単元の予習、始めちゃいますよ?」
私がいつものようにノートを広げると、Cクラスの生徒たちは「はーい!」と、かつてないほど元気な返事で応えた。
他クラスの生徒たちが遠巻きに眺めるその光景は、もはや羨望の的となる「聖域」のようだった。
玲花という温かな光を中心に、Cクラスの絆は、誰にも踏み込めないほど強固なものへと進化を遂げていた。
(なに……? また、悪い噂でも流れているの)
そんな不吉な予感に胸をざわつかせていると、「おはよう、玲花ちゃん!」と弾んだ声が響き、冬美が勢いよく抱きついてきた。
「おはよう、冬美。ねぇ……なんだか皆さん様子がおかしくない? 私を見て何か話しているようだけれど、心当たりはある?」
私の問いに、冬美は小首をかしげて少し考え込んだあと、ポンと手を打った。
「あ、もしかして! 廊下の掲示板に定期テストの結果が貼り出されたから、それじゃないかな」
彼女に促されるまま掲示板へ向かうと、そこには人だかりができていた。
私は人混みをかき分け、最前列に立つ。 貼り出された成績上位者のリストは、例年通りAクラスの秀才たちと、わずかなBクラスの生徒たちで埋め尽くされていた。
けれど、その頂点――。
「一位 Cクラス・鬼龍院 玲花」
燦然と輝くその文字が、一番高い場所に刻まれていた。
昨日の返却時に自分が学年一位であることは知っていたけれど……まさか、全校生徒の晒し者になるなんて聞いていない!
驚き冷めやらぬまま順位表を辿れば、そこには冬美の名前もしっかりと刻まれていた。 彼女も死に物狂いで食らいついた甲斐あって、見事二十位にその名を刻んでいた。
傍らで掲示板を見上げていた神城さんが、柔らかな、けれど真っ直ぐな視線を私たちに向けた。
「……大したものだ。胸を張っていいぞ、二人とも」
朝一番に彼から贈られたその言葉が、熱を持って胸の奥に染み渡る。 喜びを噛み締めながら、神城さんと別れて冬美と教室の扉をくぐった。
教室内に入った瞬間、いつも以上に密度の濃い視線が突き刺さるのを感じた。
(……やっぱり、筒抜けなのね)
居心地の悪さを感じながら席に着くと、周囲の話し声がさざ波のように耳に届く。
「学年一位って、本当に玲花様なんだな」
「Cクラスからトップが出るなんて快挙だよ。まさに俺たちの誇りだ!」
「流石は神子様……霊力だけでなく学業まで完璧だなんて、溜息が出てしまうわ」
聞こえてくるのは棘のある陰口ではなく、純粋な称賛と驚きだった。
ようやく安堵の息をついた私は、冬美と並んでテストの解き直しを始めることにした。
けれど、間違えた箇所があまりに少なすぎて、振り返りは一瞬で終わってしまう。 それは冬美も同様だったようで、私たちは自然と談笑に興じていた。
すると、遠巻きに様子を伺っていたクラスメイトたちが、堰を切ったように私の席へと押し寄せてきた。
「玲花様! 学年一位、本当におめでとうございます!」
「一体、どんな魔法を使えばあんな点数が取れるんですか!?」
「普段、どのようなお勉強をなさっているのか、ぜひ教えてください!」
興奮気味に詰め寄る彼らを「まずは落ち着いてください」と宥めながら、私は頬を朱に染め、気恥ずかしさを隠せないまま、たどたどしく答え始める。
「そんな……大したことではないです。私はこれまで、皆様に多大なるご迷惑をかけてきました。だから、せめて学問の面くらいは、足を引っ張らぬよう努めただけで……今回は、運が味方してくれたに過ぎません」
謙虚に微笑む私の姿は、クラスメイトたちの目にはどう映ったのだろう。 彼らは一様に胸を打たれたような面持ちで沈黙し、やがて一人の男子生徒が、意を決したように一歩前へ踏み出した。
「あの、玲花様……! 俺に勉強を教えていただけないでしょうか。このままじゃ単位が危なくて……っ」
絞り出すような彼の言葉を皮切りに、堰を切ったように次々と周囲の生徒が頭を下げた。
「私も、お願いします!」
「俺も! このままだと留年しちまうんだよ……!」
切実な懇願の嵐に、私がどう応えるべきか戸惑っていると、冬美が凛とした足取りで私の前に立った。
「ちょっと待ちなさいよ。お願いをする前に、まずは今まで玲花ちゃんにしてきたことを謝るのが先じゃないの?」
「……冬美」
彼女の鋭くも真っ当な指摘に、教室内は一瞬で静まり返った。
クラスメイトたちの脳裏に、かつての自分たちの姿が苦い記憶として蘇る。 無能だと蔑み、心ない言葉を投げかけ、彼女の心を深く傷つけてきた日々。
すると、先ほどの男子生徒が、今度は謝罪のために勢いよく頭を下げた。
「……今まで、本当に申し訳ありませんでした!!」
それを合図に、一人、また一人と頭を下げる輪が広がっていく。
「すみませんでした!」
「ひどいことばかり言って、本当に……っ」
教室中に響く謝罪の言葉。 冬美の不器用なまでの優しさに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、私は改めて、深く頭を下げる彼らと真っ直ぐに向き合った。
「皆さん……顔を上げてください」
私の静かな制止に、クラスメイトたちは恐る恐る視線を上げた。その瞳には、後悔の色が濃く滲んでいる。
「確かに、私は皆さんの何気ない言葉に、何度も心を傷つけられてきました。苦しくて、悲しくて……一時は、生きることさえ嫌になってしまったこともあります」
私の告白に、彼らは罪悪感からビクリと肩を震わせ、俯きそうになる。けれど、私はそれを許さぬように言葉を紡ぎ続けた。
「でも、私はずっと……皆さんと仲良くなりたかった。無能だとか、神子だとか、そんな肩書きではない一人の女の子としての私を見てほしかった。……だから、皆さん。これからは過去を悔いるのではなく、互いに助け合いながら、歩み寄ってはいただけませんか?」
それは、私の我儘な願いだった。
拒絶されるかもしれない――そんな不安を他所に、クラスメイトたちは弾かれたように顔を上げ、何度も大きく頷いた。
「はい……! これからは、絶対に仲良くさせてください。本当に、ごめんなさいっ」
「ごめんなさい、玲花様。あんなに酷いことをしたのに……。これからは絶対に、あなたを一人になんてさせません!」
感極まったような謝罪の声が次々と上がる。 ふと冬美の方へ視線を向けると、彼女は誇らしげに口角を上げ、力強く親指を立ててみせた。
(ありがとう、冬美……)
彼女が背中を押してくれたおかげで、入学当初からの密かな夢が、今ようやく形になった。 神子としてではなく、一人の「鬼龍院玲花」として皆と友達になるという、贅沢な夢が。
滲む涙で視界が潤んでいく。私は溢れ出しそうな想いを声に乗せた。
「……皆さん、もう気にしないでください。これからは『クラスメイト』として、一緒に頑張りましょう」
私の言葉を合図に、教室を支配していた重苦しい空気は霧散した。
クラスメイトたちが一斉に駆け寄り、温かな輪が私を中心に広がっていった。
「ありがとうございます、玲花様。こちらこそ、これからよろしくお願いします!」
晴れやかな笑顔が教室中に広がり、冬美も私の隣に並んで「良かったね、玲花ちゃん」と優しく肩を叩いてくれた。 親友の温もりに、張り詰めていた心の糸がふわりと解けていく。
しかし、冬美はすぐに「さあ皆! 泣いてる場合じゃないよ!」とパンと手を叩き、クラスの空気を一変させた。 そして私にだけ聞こえるような小さな声で、「……後はよろしくね、玲花先生?」と悪戯っぽく囁いた。
私はその言葉に力強く頷き、期待の眼差しを向けてくる皆へ向かって、凛とした声を上げた。
「では、皆さん、教科書を開いてください。早速、一緒に勉強を始めましょう!」
「はいっ!」という威勢のいい返事が響き、クラスメイトたちは一斉に自分の席へと戻っていく。 カバンから教科書を取り出す音、ページをめくる音、隣同士で教え合う声。
(これからは、皆さんと一緒に歩んでいける……)
胸に広がる確かな喜びを噛み締めながら、私は教卓に自らの教科書を広げた。もう、そこには孤独な影などどこにもなかった。
放課後の教室は、かつての静寂が嘘のように、活気に満ちた明るい熱気に包まれていた。
私は皆さんが躓いた問題の解法を伝えながら、机の間を忙しく回る。 教える側も教わる側も真剣で、そこには確かな絆が芽生え始めていた。
ふと教室の入り口に目を向けると、神城さんが静かに立っていた。
どうやら、いつものお迎えの時間になったらしい。けれど、解説はあともう少しで一通り終わるところなのだ。
私は彼のもとへ駆け寄り、申し訳なさを抱えながら言葉を紡いだ。
「神城さん、すみません。……もしよければ、お迎えの時間を少しだけ遅らせてくれませんか?」
「玲花。どうした、急に。時間の調整はいくらでも可能だが……理由を聞かせてもらえるか?」
神城さんは不思議そうに眉を寄せた。私は背後の教室を振り返りながら答える。
「実は、皆さんにテストの解説をしていたんです。もう少しで全員分が終わるんです。なので……どうか、お願いします」
いつものように甘やかしてくれるだろう。そう信じて彼を見上げた。
しかし、私の言葉を聞いた瞬間、神城さんの表情が険しく一変した。 それは、普段の彼からは想像もつかないような、冷徹で烈火の如き怒りの形相だった。
「玲花、なぜだ。なぜ……あんな奴らと馴れ合っている」
神城さんの声は、低く、地這うような怒りに満ちていた。彼は私を遮るように一歩踏み込み、鋭い視線を教室の面々へと向ける。
「言ったはずだ。あいつらは玲花の神子としての肩書きに群がっているに過ぎない。お前を傷つけ、利用しようと狙っている可能性だってあるんだぞ」
「で、でも……神城さん、皆さん本当に反省して……っ」
「『でも』じゃない! 俺はお前を守るために言っているんだ。玲花、俺との約束を破るつもりか?」
突き放すような冷たい言葉が胸に突き刺さる。
ようやく手にした、クラスメイトとの温かな絆。 けれど、それを否定する神城さんの瞳には、私への執着にも似た過保護なまでの危惧が渦巻いていた。
(せっかく、みんなと笑い合えたのに……。また、あの孤独な日々に逆戻りなんて嫌……!)
けれど、神城さんにまで見放されてしまったら、私は……
葛藤に押し潰されそうになり、視界が涙で歪み始めたその時――。
「任せて、玲花ちゃん」
不意に、隣から心強い声がした。冬美が私の耳元でそう囁くと、毅然とした態度で神城さんの前に立ちはだかった。
「ねぇ……神城様。少し、言い過ぎじゃないですか?」
静かではあるけれど、真っ向から彼を射抜く冬美の声。 神城さんはその言葉を撥ねつけるように、さらに鋭利な視線を彼女へと突き刺した。
「雪乃さん。貴方にも釘を刺しておいたはずだ。玲花が神子として覚醒した以上、周囲への警戒を怠るなと。……それに、俺との約束はどうした。玲花に変な虫がつかぬよう見守ってほしいと頼んだはず。それなのに、虫どころか、こんな有象無象の群れに玲花を投げ出すなど」
氷点下の温度を帯びた神城さんの言葉に、教室の空気は凍りつく。 あまりの迫力に、クラスメイトの何人かは青ざめ、震えながら立ち尽くしていた。
それでも、冬美は一歩も退かなかった。神城さんの威圧感を正面から受け止め、毅然と言い返す。
「確かに、神城様の仰る通りです。私だって、今まで玲花ちゃんを蔑んできた人たちと仲良くさせるなんて、これっぽっちも思っていませんでした。けれど……」
冬美は言葉の途中でふと私を振り返ると、慈しむような柔らかな笑みを浮かべた。
そして、再び神城さんの方を向き、その瞳に譲れない決意を宿して真っ直ぐに見据えた。
「玲花ちゃんが、クラスの皆と仲良くしたいって心から願ったから……! だから私は、彼女の背中を押したんです。私は、玲花ちゃんにいつも笑っていてほしいから。神城様だって、同じでしょう!?」
冬美の叫ぶような訴えに、神城さんは弾かれたように目を見開いた。その瞳に一瞬、動揺が走る。
けれど、彼は依然として頑ななまま、消え入りそうなほど微かな、切実な声を漏らした。
「……だが、玲花に何かあってからでは遅いんだ。私は……もう二度と、彼女を失いたくない」
その声に含まれたあまりに深い孤独と恐怖に、私は息を呑んだ。
神城さんは、私が思っていた以上にずっと、私がいなくなることを、私という存在が壊れてしまうことを、何よりも恐れていたのだ。
私は、盾となってくれた冬美に「ありがとう」と瞳で精一杯の感謝を伝えると、震える脚で神城さんの隣へと歩み寄った。
そして、彼の手を、逃がさないように両手でぎゅっと握りしめる。
「神城さん、私の話を聞いてください……」
伝わる体温。私は自分の想いを、一言ずつ丁寧に彼へ紡ぎ始めた。
「神城さん……確かに私は、貴方ほど強くはありません。普通の女の子と同じで、弱くて、すぐに傷ついて、悲しい思いをすることだってたくさんあります」
私の言葉に、神城さんは「玲花……」と、胸を締め付けられるような切ない声を漏らした。 けれど、私は神城さんの手をさらに強く握り、言葉を重ねた。
「でも、神城さんが私のおかげで変わったと言ってくださったように、私も神城さんのおかげで変わることができたんです。無能で役立たずだと蔑まれ、誰からも疎まれていた私を……神城さんが見つけ出してくれたから、私の世界は色付いたんですよ」
「俺の……おかげ、だと?」
驚きに揺れる彼の瞳を、私は真っ直ぐに見つめ返した。
「はい! 全て神城さんのおかげです。神城さんが隣にいてくださるから、私は安心して今日という日を笑って過ごせる。幸せな毎日を噛み締めることができるんです。神子として覚醒して以来、周囲の目が変わり、神城さんも不安の中で必死に私を守ろうとしてくれていたんですよね……」
私は少し背伸びをして、子供をあやすように彼の頭を優しく撫でた。
「でも、今の私は貴方が思っている以上に成長しています。だから、どうか安心してください。私の周りには心強い護衛の方々もいますし、何より……世界で一番信頼できる神城さんが、側にいるんですから」
「玲花……」
神城さんの強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「あっ、でも! もし何か困ったことがあったら、すぐに神城さんを頼ります。だから、どうか信じてください。私は絶対に、神城さんの側を離れたりしません。私も……神城さん以外の方と人生を歩むなんて、考えられません」
最後の方は、自分でも顔が熱くなるのがわかるほど必死に伝えた。
私の言葉を最後まで静かに受け止めていた神城さんは、やがて、憑き物が落ちたような、いつもの穏やかで慈愛に満ちた笑みをその唇に浮かべた。
「あぁ、そうだな……すまない、玲花。君を守ることばかりに固執して、一番大切な君の気持ちを蔑ろにしていた」
「いいんですよ。これからは、もっとお互いに話し合っていきましょう? ……ふふっ、このお話、前にも一度しましたね」
「そうだったな。ははっ、本当に玲花らしい」
張り詰めていた空気がふわりと解け、私たちは顔を見合わせて笑い合った。そして、仲直りの証として、子供のように小指を絡め合う。
「神城さん、これからもよろしくお願いします」
「玲花……。あぁ、こちらこそよろしくな」
ようやく教室に、先ほどのような柔らかく温かな陽だまりが戻ってきた。
そんな私たちの様子を、少し離れた場所から「ごっほん!」と大仰な咳払いが遮る。
振り返ると、そこには聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべた冬美が、ゆっくりと近づいてくるところだった。
「玲花ちゃん、よく言ったわね。本当に頑張ったじゃない」
「冬美……ありがとう。冬美のおかげよ、本当に」
私の心からの感謝に、彼女は「全然いいってことよ!」と快活に笑い、指で綺麗なオッケーサインを作ってみせた。
神城さんも、バツが悪そうにしながらも、冬美に向かって真摯に頭を下げる。
「雪乃さん、先ほどは失礼なことを言った。すまなかったな。……君のおかげで、こうして玲花と向き合うことができた」
その言葉に、冬美は可笑しそうに肩を揺らして答えた。
「へへっ、全然いいですよ! これからも玲花ちゃんと仲良くしてあげてくださいね」
「っ、あぁ……! 本当に、ありがとう」
神城さんは照れくさそうに冬美へ深く感謝を伝えると、改めて私の方へと向き直った。 その瞳には、先ほどまでの刺々しさは微塵も残っていない。
「玲花……本当にすまなかった。これからは、クラスメイトの皆とも仲良くしていい。玲花の望む学園生活を、心から応援する」
「はい! ありがとうございますっ」
「だが……嫌なことをされたら、絶対に隠さず言うんだぞ? いいな」
「ふふ、分かりました。必ず、一番に神城さんに相談します」
ようやく得られた許しに胸を弾ませていると、神城さんは教室に残っていた生徒たちの方を向き、「これから、玲花をよろしく頼む」と、守護者として、そして一人の人間として、深く丁寧にお辞儀をした。
クラスメイトたちは、あの威厳ある神城さんからの思わぬ言葉に、「は、はいっ!」「こちらこそ!」と、慌てて背筋を伸ばして頭を下げた。
「じゃあ、問題も解決したことだし! ラストスパート、いくわよー!!」
冬美にぐいっと手を引かれ、私は再び黒板の前に立たされた。
神城さんは私の空いた席に腰を下ろすと、まるで宝物でも眺めるような、どこまでも温かな眼差しをこちらに向ける。
(……神城さん、見すぎです)
背中に突き刺さる熱烈な視線の気恥ずかしさに、顔が赤くなるのを必死に耐えながら、私はチョークを手に取った。
幸せな喧騒が戻った教室で、私は最高に誇らしい気持ちで、再び授業の続きを始めるのだった。
テストの喧騒が去ったばかりの教室に、再びペンが走る音と微かな熱気が戻っていた。
数週間前から始まった、Cクラス全員での勉強会。
私たちが早々にペンを握り直したのには理由がある。学園側から突如として、「クラス対抗実力テスト」の開催が告げられたからだ。
それは単なる個人の成績を競う定期試験とは一線を画す。クラス全員の平均点で順位が決まる、いわば「団結力」を測るための試練。 上位に食い込めば、学食の優先利用権や図書カードの支給、さらには『学年最優秀クラス』という至高の栄誉までもが手に入る、エトワール学園きっての一大イベントなのだ。
「……とはいえ、ね」
私は心の中で小さく溜息をついた。
かねてより「万年最下位」と揶揄されてきたこのCクラス。私の指導だけで、果たしてこの逆境を覆せるのだろうか。 そんな消えない不安を胸の端に追いやりながら、私は今日も教壇に立ち、仲間たちと共に机に向かい続けている。
一日の指導を終え、いつものように神城さんと共に帰路につく。
夕闇に包まれ始めた街並みを窓の外に眺めながら、高級車の柔らかなシートに身を委ねていた。
ふと思い立ち、車内の静寂を破って「クラス対抗実力テスト」の話題を切り出す。
「神城さんのクラスは、いつも何位くらいなんですか?」
私の問いかけに、隣に座る彼は迷うことなく即答した。
「一位だ。……認めがたいことだが、Aクラスの連中は確かに優秀な者が揃っているからな」
「そう、ですか……」
想定していた答えではあったが、あまりの格差に声が自然と沈んでしまう。 すると、私のわずかな変化を察した神城さんが、覗き込むように視線を向けてきた。
「どうした。何か心配事か?」
その鋭くも優しい洞察力に、胸の奥がじんわりと温かくなる。私の機微をすぐに見抜いてくれることが、今はたまらなく嬉しかった。
私はその温もりに背中を押されるように、今抱えている不安と、Cクラスの現状を静かに語り始めた。
「実は……Cクラスの皆さんに勉強を教えているんですけど、過去に一度も最優秀を取ったことがないと聞いて。私一人の指導で、本当に大丈夫なのかなって不安になっちゃって」
打ち明けた悩みに、神城さんは少しの間、思考を巡らせるように黙り込んだ。そして、静かに口を開く。
「そうだな……もし俺で良ければ、Cクラスの連中に勉強を教えてもいいが、どうだろうか?」
「えっ、いいんですか? 神城さん、お忙しいんじゃ……」
驚きに目を見開く私に、彼はふっと表情を和らげた。
「構わない。それに、玲花と一緒に勉強できるなんて、俺にとってはご褒美のようなものだからな」
「もう、神城さん……! 恥ずかしいこと言わないでください」
頬に熱が昇るのを感じて、私は照れ隠しに軽い文句を返した。 けれど、先ほどまで胸を占めていた霧は、いつの間にか綺麗に晴れ渡っている。
神城さんと一緒に、目標に向かって歩める。ただそれだけで、心は幸福感で満たされていくようだった。
彼と心強い約束を交わして帰宅した後も、私は机に向かった。 テストに出そうな要点をまとめた自作のプリントを、一枚一枚丁寧に作り上げていく。
ペンを走らせる音だけが響く夜。充実した自習の時間を終えた私は、明日に向けていつも通りの、けれどどこか心弾む夜を過ごした。
翌朝、私はいつもより数段早いアラームの音で目を覚ました。
昨日、クラスメイトたちから「朝学習をしよう」という提案があったからだ。彼らのやる気が消えないうちに、私もその熱に応えたい。
手早く支度を済ませてリビングへ向かうと、そこには既に端正に制服を着こなした神城さんの姿があった。
「神城さん、おはようございます」
「ああ、おはよう。今日は朝学習だろう? さあ、早く朝食を済ませて学園へ向かうぞ」
彼の言葉に促されるように、私は急いでテーブルについた。目の前に並んだ食事を口に運ぶけれど、向かい側に座る神城さんが、私の様子をどこか微笑ましそうに眺めている。その穏やかな視線が少しだけ面はゆくて、なんだかいつもより食事が喉を通りにくい。
そんな、こそばゆいほど幸せな朝のひとときを過ごした後、私たちは迎えの車に乗り込み、活気付き始めた学園へと向かった。
神城さんと共に教室の扉を開けると、そこには既に熱気が満ちていた。
クラスメイトたちはそれぞれの机に教科書や参考書を広げ、私たちの到着を今か今かと待ち構えている。
「すみません、皆さん! すぐに準備しますから!」
慌てて教壇へ向かおうとする私に、冬美が「大丈夫、そんなに急がなくても」と優しく声をかけてくれた。 周りのみんなも、その言葉に同意するように深く頷いてくれる。
けれど、冬美の視線が私の隣に立つ人物に留まった瞬間、彼女の表情が劇的に凍りついた。
「あ、あの……玲花ちゃん。なんで、神城様がここに……?」
冬美は信じられないものを見たというように、目を見開いて絶句している。 その問いに私が答えようとするよりも早く、隣から低く落ち着いた声が響いた。
「今日だけだが、お前のたちに勉強を教えに来た」
神城さんの淡々とした、けれど絶対的な存在感を放つ宣言。
その言葉が教室の隅々にまで届いた刹那、水を打ったように静まり返っていた空間が、地鳴りのような驚愕の声に包まれた。
「ええええええっ!?」
クラス全員の叫びが一つになり、朝の静かな校舎を激しく揺らした。
「えっ、本当にあの神城様が教えてくれるのか?」
「嘘だろ……夢でも見てるんじゃないか」
どよめきが収まらないクラスメイトたちを前に、神城さんは静かに、けれど明確な理由を口にした。
「玲花一人にすべてを任せすぎるわけにはいかないからな。一日限りの助力だが、彼女の負担を少しでも減らしたいと思っただけだ」
そう言って、彼は私にだけ柔らかな微笑みを向ける。
その眼差しに含まれた深い慈しみを感じて、私の心臓は跳ねるように脈打った。 胸のときめきが抑えられず、指先まで熱くなっていくのがわかる。
ところが、その甘い空気を切り裂くように冬美の茶化すような声が響いた。
「はいはい、お二人さん! イチャイチャするのは後にしてくださーい!」
「ふぇっ!? ち、違っ……!」
クラス中から飛んでくる温かな冷やかしに、私は顔を真っ赤にしながら慌てて教材を広げた。 こうして、熱気と少しの照れくささが混じった特別授業が幕を開ける。
授業が始まると、教室の空気は一変した。
今日はいつも以上に学習範囲が驚くほどの速さで進んでいく。クラスメイトたちの理解力も、目に見えて向上しているのが分かった。
(……やっぱり、神城さんのおかげだわ)
Aクラスの中でも随一の才覚を誇る神城さんの教え方は、驚くほど的確で無駄がない。 さっきまで難しい顔をしてペンを止めていた子たちが、魔法にかけられたかのように、次々と問題を解き進めていく。
彼の鮮やかな手腕と、それに応えようとするみんなの熱意。その光景を隣で見守りながら、私は確かな手応えを感じていた。
神城さんの鮮やかな手際を尊敬の眼差しで見つめながら、私も負けていられないと冬美や他の生徒たちの元を回る。 神城さんが全体を底上げし、私が細かな躓きをフォローする——。その連携は驚くほどスムーズだった。
「なるほど、そういうことか……!」
「あ、分かった! 玲花ちゃん、ありがとう!」
あちこちで理解の産声が上がる中、あっという間に朝学習の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
クラスメイトたちは、かつてないほどの達成感を顔に浮かべ、次々と神城さんの元へ歩み寄っていく。
「神城様、本当にありがとうございました!」
「すごく分かりやすかったです!」
口々に感謝を述べるみんなに、神城さんは傲ることなく静かに頷いていた。
その後始まった通常授業でも、教室に漂う集中力は途切れることがなかった。 朝の熱が冷めないまま時間は過ぎ、やがて放課後のチャイムが放課後の訪れを告げる。
放課後の勉強会も、引き続き神城さんが協力してくれた。
彼の存在は、荒波を導く灯台のように確固としていた。 おかげで、いつもなら説明に時間がかかる難問も驚くほど効率的に進み、私はかつてないほど楽に、そして深くみんなに教えることができたのだった。
神城さんとの特別授業を経て、瞬く間に日々は過ぎ去った。そして、ついに「クラス対抗実力テスト」の前日。
私たちは放課後の学園カフェに集まり、最後の大詰めとなる勉強会を開いていた。
カフェのテーブルは、広げられた教科書や使い込まれた参考書、書き込みで埋まったノートで埋め尽くされている。 柔らかな照明が灯る空間には、試験を目前に控えた独特の緊張感と、それを上回るほどの熱気が渦巻いていた。
私は、連日夜遅くまで机に向かって作り上げた「最終対策プリント」を全員に手渡した。
「玲花様、この問題の解き方をもう一度教えていただけますか?」
「ここは、この公式を当てはめてみてください。複雑に見えますけど、パズルのピースを嵌めるみたいに考えれば大丈夫ですよ!」
「玲花様! 次はこちらをお願いします!」
「はい、今行きますね!」
あちこちから上がる声に応え、私は一人ひとりの席を回っていく。
慌ただしく立ち働く中で、ふと気づいた。
最初は不安げにペンを動かしていたクラスメイトたちの瞳に、今は揺るぎない自信が宿っていることに。
私の言葉一つひとつを真剣に聞き入り、自力で正解に辿り着いた瞬間にパッと表情を輝かせる。 そんな彼らの姿を見て、私の中にあった「私だけの指導で大丈夫だろうか」という迷いは、いつの間にか消え去っていた。
「玲花ちゃん、ここの関係代名詞の書き換え、もう一回だけお願い!」
窓の外が完全に夜の帳に包まれても、誰一人として席を立つ者はいなかった。疲労の色が滲み始めたクラスメイトたち。けれど、その指先は一度も止まることなく、知識を吸収しようと貪欲に紙面を走っている。
彼らの限界を超えた熱量に、私も全身全霊の指導で応えた。
「もちろんです! ここを指で隠して、パズルみたいに当てはめてみて……。ほら、完璧です!」
「わっ、本当だ、できた! 玲花ちゃんに教わると、霧が晴れるみたいに仕組みがわかるよ」
目の前でパッと表情を明るくする仲間の姿に、胸が熱くなる。
そんな中、冬美が立ち上がり、疲れの見え始めた生徒たちの背中を力強く叩いた。
「さあ、あと一踏ん張りよ! 玲花ちゃんが夜な夜な作ってくれたこの予想問題。これさえ完璧にすれば、私たちは絶対に勝てるわ!」
冬美の凛とした、それでいて包容力のある鼓舞がカフェに響き渡る。その声に弾かれたように、生徒たちの瞳に再び闘志の火が灯った。
「そうだな、玲花様があれだけ頑張ってくれたんだ。俺たちが負けるわけにはいかない!」
再び一斉にペンが走り出す音。めくられる紙の音。
互いに励まし合い、高め合うその空間は、かつて「万年最下位」と揶揄されたCクラスの姿ではなかった。
冷たい夜風が窓を叩く中、カフェの中だけは確かな希望と絆に満たされていた。
それは間違いなく、Cクラスにとって過去最高の、そして最も熱い「決戦前夜」となった。
ついに迎えた、運命のテスト当日。
前回の定期テストの時に教室を覆っていた「どうせ俺たちなんて」という諦めの泥濘は、どこにもなかった。今の教室に満ちているのは、「絶対に最優秀クラスを獲るんだ」という、刃のように研ぎ澄まされた自信。それはこれまでの過酷な勉強会、そして何より私を信じてついてきてくれた、みんなの努力の結晶だった。
やがて、静寂を切り裂くように試験開始のチャイムが鳴り渡る。
一斉に答案を裏返す、乾いた音。
私も一呼吸置き、問題用紙に視線を落とした。
(……あ!)
視界に飛び込んできたのは、夜を徹してプリントにまとめ、みんなと繰り返し解いた数式、あの英単語、そして冬美と一緒に確認した文法事項。
そこには、私たちが積み上げてきた時間のすべてが刻まれていた。
ふと顔を上げると、クラスメイトたちも同じ手応えを感じているのが分かった。 「これ、知ってる!」「解ける!」という確信に満ちた表情で、迷いなくペンを走らせている。 かつては難問を前に止まっていた彼らの背中が、今はとても頼もしく、眩しく見えた。
(みんな……!)
胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、私は再びペンを握り直す。
一人じゃない。クラス全員の想いを乗せたペン先は、驚くほど軽やかだった。
試験から数日が過ぎ、ついに運命の瞬間が訪れた。
「クラス別対抗・実力テスト」の結果が掲示される昼休み。私たちCクラスは、祈るような心地で掲示板へと足を運んだ。 誰もが口を数センチ開けたまま、心臓の鼓動を聞きながら群衆の先を見つめる。
掲示板の前にたどり着いたその時だった。
「……えっ?」
誰かが掠れた声を漏らす。その困惑を含んだ響きに心臓を跳ねさせながら、私は慌てて順位表の最上段へ視線を走らせた。
『第一位 Cクラス』
目に飛び込んできたのは、力強く刻まれたその文字。
信じられずに平均点へ目を移すと、そこには二位のAクラスを大きく引き離す、圧倒的な数字が並んでいた。
「やったぁぁぁぁぁ!!」
刹那、静まり返っていた廊下に、鼓膜を震わせるほどの歓喜が爆発した。
「嘘だろ!? 本当に一位だ!」「やった、やったぞ!」
クラスメイトたちは掲示板を見上げながら、ある者は抱き合い、ある者は拳を突き上げ、弾けるような笑顔で勝利の味を噛み締めている。
「玲花ちゃん、私たち……本当に、やったんだね……っ」
隣を見ると、冬美が溢れる涙を拭いもせずに泣き笑っていた。
彼女の震える肩に触れながら、私もまた、視界が熱く滲むのを止められなかった。
ふと周囲に目を向ければ、そこには絶句して石像のように固まったAクラスやBクラスの生徒たちがいた。 万年最下位の逆襲という「事件」を前に、誰もが言葉を失っている。
その驚愕の視線を背に受けながら、私はかつてない達成感と、仲間たちへの誇らしさで胸をいっぱいに満たしていた。
狂喜乱舞する私たちの元へ、苛立ちを隠せない他クラスの生徒たちが詰め寄ってきた。
「Cクラスが一位だなんて、ありえないわ! 玲花様お一人が高得点ならまだしも、クラス全員がこんな数字を出すなんて……。何か不正でもしたんじゃないの!?」
心ない疑いの言葉。けれど、冬美はそれを鼻で笑い、毅然とした態度で一蹴した。
「不正? 冗談はやめて。この結果はね、玲花ちゃんが私たちを見捨てずに注ぎ続けてくれた努力と、私たちがそれに応えようと必死で食らいついた証よ! ね、玲花ちゃん?」
冬美に同意を求められ、私は少し照れくささを感じながらも、疑いの目を向ける他クラスの生徒たちを真っ直ぐに見据えた。
「これは、みんなが自分を信じて最後まで走り抜いた結果です。……他のクラスの皆さんも、私たちを疑うことに時間を使うより、次に向けてクラスメイト同士で切磋琢磨してみてはいかがでしょうか」
私の言葉には、もう以前のような迷いはなかった。 凛としたその一言に、詰め寄っていたA・Bクラスの生徒たちは気圧されたように言葉を失い、やがて渋々といった様子で自分たちの教室へと引き上げていった。
「玲花ちゃん、最高にかっこよかったよ! 本当に、本当にありがとうね!」
再びクラスのみんなに囲まれ、称賛と感謝の輪の中心に身を置く。私は今、これ以上ないほど幸せな笑みを浮かべていた。
学年一位という個人の栄冠よりも、クラス全員で泥臭く足掻き、共に掴み取ったこの勝利。
それは私にとって、どんな宝石よりも価値があり、何倍も誇らしいものだった。
放課後。教室には、神城さんの姿があった。
神城さんは集まったCクラスの面々を見渡し、満足そうに目を細めて告げた。
「よく頑張ったな。お前たちの努力は、この結果にふさわしいものだ」
学園の至宝とも称され雲の上の存在である彼からの真っ直ぐな称賛に、クラスメイトたちは顔を輝かせ、喜びを爆発させる。 そのまま教室は、勝利を祝う「最優秀おめでとうパーティー」の会場へと早変わりした。
「そういえば、今回の立役者! 玲花ちゃん、何か欲しいものはない? 私たちが叶えられる範囲なら、なんでも言っちゃって!」
いつも以上に上機嫌な冬美が、ジュースのコップを片手に問いかけてくる。 皆の視線が期待を込めて私に集まる中、私は少し考えてから、ずっと胸に秘めていた願いを口にした。
「……それじゃあ、一つだけ。皆さん、私の『様』付けをやめてほしいんです」
「ええっ、それだけでいいの!?」
冬美の驚愕の叫びが響く。けれど、私にとっては切実な願いだった。
「様付けだと、なんだか距離がある気がして……。これからはもっと気軽に『ちゃん』付けで呼んでほしいんです。どうしても抵抗がある人は『さん』付けでもいいので。……もっと、皆さんと近くなりたいんです」
私の控えめな、けれど精一杯のお願いに、クラスメイトたちは一瞬呆気に取られた後、温かな微笑みを浮かべて深く頷いてくれた。
「玲花ちゃんってば、どこまで謙虚なのよ」
冬美は可笑しそうに笑うけれど、私は本気だった。
今回の「クラス対抗実力テスト」が私たちにくれたのは、勝利の称号だけじゃない。 共に苦楽を乗り越えたことで、クラスの絆はかつてないほど強固に結ばれた。
呼び名が変わる。 ただそれだけのことが、新しく始まった私たちの関係を象徴しているようで、私は胸の奥が温かな幸福感で満たされるのを感じていた。
Cクラスが実力テストで学年首位を奪取したというニュースは、またたく間に学園全土へと波及し、激しい衝撃を与えた。
その立役者が学年トップの玲花であり、彼女の指導が「神がかっている」という噂は、もはや隠しきれるものではなくなっていた。
翌日の昼休み、Cクラスの教室前には異様な光景が広がっていた。 他クラスの生徒たちが、ノートや参考書を手に、まるで聖地巡礼でもするかのような長い列を作っていたのだ。
「あの……玲花さん、少しだけでいいので、この問題を教えてもらえませんか?」
「玲花さん、僕たちも次の小テストの範囲がわからなくて……! お願いします!」
窓際で静かに本を読んでいた私の元へ、次々と他クラスの生徒たちが押し寄せる。 突然の事態に目を白黒させながらも、持ち前の断れない性格が顔を出す。
「ええと、あ、はい。……ここなら、こう考えれば解けると思います」
困惑しつつも、私は結局ペンを手に取り、一人ひとりに丁寧に教え始めてしまった。
その様子を、Cクラスの面々は複雑な表情で見守っていた。
「私たちの玲花ちゃん」が、自分たちだけの特別な存在ではなくなっていくような、誇らしさと少しの独占欲。
教室には、熱狂的な他クラスの活気と、Cクラスの仲間たちの微妙な沈黙が、奇妙に混ざり合っていた。
「……なんだよ、あいつら。自分たちが今まで玲花ちゃんのこと『無能』扱いしてたくせにさ」
一人の男子生徒が、苦々しげに吐き捨てた。自分たちが頭を下げて謝罪し、カフェで共に汗を流してようやく勝ち取った「玲花先生の特別授業」。それを、喉元過ぎればと言わんばかりに横から掻きさらっていく他クラスの無遠慮さに、憤りを感じずにはいられなかった。
「そうだよ。玲花ちゃんは優しいから、困ってる人を放っておけないんだから……」
冬美は不機嫌そうに腕を組み、廊下まで伸びる列に鋭い視線を突き刺す。Cクラスにとって、玲花はただの成績優秀者ではない。 自分たちの過ちを許し、共に高みを目指してくれた、かけがえのない精神的支柱なのだ。
「ちょっと、そこまでになさい!」
ついに、冬美が動いた。玲花を守るように、他クラスの生徒たちとの間に毅然と割って入る。
「いい? 玲花ちゃんは私たちのクラスの『教育委員』なの。あんたたちに教える義理なんてないし、彼女にだって休む時間は必要でしょ? 質問なら、まずは自分たちのクラスの一位に聞きに行きなさいよ!」
冬美の放つ凄まじい迫力に、他クラスの生徒たちは一瞬たじろぎ、言葉を失う。しかし、彼らもまた必死だった。Cクラスの劇的な躍進を目の当たりにした今、その「奇跡の源」に縋りたいという切実な想いが、彼らを突き動かしていた。
「でも、Cクラスの平均点があんなに跳ね上がったのは、玲花さんのおかげだって聞いたんです……! 僕たちだって、今のままじゃいけない、変わりたいんです!」
必死に訴えかける他クラスの生徒。 その言葉が呼び水となったのか、教室内で静観していたCクラスの面々が、示し合わせたように一斉に立ち上がった。
「……変わりたいなら、まずは自分たちの足で立てよ。これ以上、玲花さんに甘えるな」
「そうだ。玲花ちゃんは、俺たちのために削らなくていい時間まで削ってくれたんだ。これ以上、彼女に負担をかけるのは俺たちが許さない!」
それは単なる独占欲などではなかった。 かつて自分たちが彼女に強いてしまった苦労を知っているからこそ抱く、切実な「守りたい」という保護者意識。
私は、自分の前に立ちはだかって盾となってくれるクラスメイトたちの背中を見つめ、そっと胸に手を当てた。 かつては私を疎み、遠ざけていたはずの彼らが、今は私のために声を荒らげ、矢面に立ってくれている。 その事実が、何よりも、どんな称賛の言葉よりも嬉しかった。
私はそっと冬美の肩に手を置き、彼女の隣へ並ぶ。 そして、期待と焦燥の入り混じった瞳でこちらを見つめる他クラスの生徒たちに向かって、穏やかに、けれど芯の通った声で語りかけた。
「皆さん、ありがとうございます。……でも、私はCクラスの皆さんと一緒に勉強する時間が、何よりも大切なんです。だから、お昼休みや放課後は、まずはクラスのみんなとの約束を優先させてください。……ごめんなさい」
きっぱりとした、けれど柔らかな拒絶。その言葉に、食い下がろうとしていた他クラスの生徒たちも、最後には肩を落として静かに去っていった。
「……玲花ちゃん、かっこいい! 言うようになったじゃない!」
冬美が茶化すように笑いかけると、周りのクラスメイトたちも「そうだよ、玲花ちゃんは俺たちの勝利の女神なんだから!」と口々に囃し立てる。
「もう……女神だなんて、大げさですよ。ほら、冷やかしはおしまい。次の単元の予習、始めちゃいますよ?」
私がいつものようにノートを広げると、Cクラスの生徒たちは「はーい!」と、かつてないほど元気な返事で応えた。
他クラスの生徒たちが遠巻きに眺めるその光景は、もはや羨望の的となる「聖域」のようだった。
玲花という温かな光を中心に、Cクラスの絆は、誰にも踏み込めないほど強固なものへと進化を遂げていた。

