離縁された水龍の妻は  黒き龍に求婚される

 正式に時春の妻となった紫陽花は、戒砂の人々に大いに歓迎された。祈祷師としての実力も申し分ない紫陽花の名は国中にとどろいているのである。
「感無量です……時春様がご結婚なさる日は永遠にこないものだと諦めておりました」
 月臣がそう言って目頭を押さえた。
「紫陽花様、時春様は向こう見ずなところがありますが、どうか見捨てずにいてくださいませ」
「もちろんです。私の方こそ、時春様に見捨てられないようにと思っております」
「それはあり得ない」
「それはあり得ません」
 時春と月臣の声が重なる。
「命を懸けても構いません」
 月臣が真剣な顔で付け加えるので、紫陽花は嬉しくなってほほ笑んだ。
「嬉しいです」
「それは俺のセリフだ。今でも夢なのではないかと疑っている」
「夢ではありませんよ」
 紫陽花は時春と見つめ合って顔を赤らめた。
「おふたりとも、そういうことはおふたりのときに存分になさってください。私がいるのをお忘れになられては困ります」 
「す、すみません。あの、月臣、準備ができ次第北の山麓に向かいたいと思います」
「えぇ、時春様からもうかがっております。穢れを祓い次第おふたりの婚礼準備も進めてまいります」
「あまり大仰なものはやめてください」
「それは困る。大仰なものにしてくれ」
「時春様!」
「俺は紫陽花を自慢したい」
「自慢にはなりませんよ」
 こほん、と月臣が咳払いをしたのでふたりは顔を見合わせて笑った。

 十と二つの月。山麓への遠征の準備が整った。紫陽花は時春と一緒に馬に乗る。後ろには月臣をはじめとした戒砂の兵士たちが付き添っている。途中で打ち捨てられた町を見た。穢れて滅んでしまったのかもしれない。紫陽花は心を痛めた。
「私がもっと早くこの地を浄化出来ていたら……」
「この国は亡ぶべくして滅んだのだ。穢れのせいだけではない」
「そう……ですか。でも、これ以上被害を広げないよう、穢れを祓います」
「そうだな。おまえがいたら、必ずなせる」
「尽力いたします」
 険しい山道を進むと、あたりが暗くなってくる。穢れがあたりに満ちているのが視覚的にも確認できる。
「この洞窟です」
 岩の間に人がひとり通れるくらいの穴が開いている。そこから、黒い瘴気が湧き出ていた。
「皆さんは危険かもしれません、私ひとりで向かいます」
 紫陽花がそう言うと、時春は紫陽花の手を握った。
「それは許さない。俺も一緒に行く」
「危険です」
「それはおまえも同じことだろう。共に行く。おまえをひとりにはしない」
 つないだ手から、確かな温かさを感じた。そこではじめて自分が震えていることに気が付く。経験したことのない穢れに、自然と体が震えていたのだ。
「ありがとうございます、心強いです」
「おふたりとも、なにか問題があったらすぐに出ていらしてください。おふたりの命よりも大事なものがありません。穢れについてはとりあえず物理的に穴をふさいでしまえばいいのですから、無理は禁物です」
 月臣が険しい声で警告してくる。ふたりを心配する気持ちが伝わってきた。
「ありがとう月臣、では、行ってまいります」
 時春と手をつないで、一歩足を踏み出す。暗いくらい穴の中では、距離の感覚が全くつかめない。小さな穴だと思っていたのに、穴の中は驚くほどに広い。
「この山は現世につながっていると聞いたことがある。もしかしたらこの先にあるのが現世かもしれない。おまえが泉に落ちてこちら世界に来たように、この洞窟を通って人の世から来た者もいたのだろう」
「この地と現し世は色々なところでつながっているのかもしれませんね。あ、時春様、水の音がしませんか?」
 耳を澄ませるとちょろちょろと水の流れる音がする。
「この水が穢れを載せて波都に流れ込んでいるのだろう。穢れの根源はここで間違いない」
 恐怖は不思議と感じなかった。隣に時春がいてくれるからだろう。今まで穢れをひとりで祓い続けてきた紫陽花にとって、一緒に来てくれた時春の存在はとても心強い。
「お久しぶり」
 洞窟の中に声が響く。暗闇にまだ目離れない。だが、その声には聞き覚えがある。だが、遠く離れた場所にいるはずのに、なぜこんなところにいるのか。
「あなたがここに向かったと知って、待っていたの」
「……志保さん」
 志保がいるところが、禍々しく青く揺れた。その手に、水晶が載っている。
「志保さん、それは透璃様の水晶ではありませんか、あなたに扱えるものではありません!」
 志保が洞窟にいる理由が分かった。水晶の力を使ったのだろう。だが、長年波都の国で暮らした紫陽花にも扱えない代物である。志保では当然扱えるわけがない。
「今すぐそれを置いてください! そうしないと……」
 魂を吸われて、自我を失ってしまう。
「私に指図をしないで! ちょっと早く透璃様の花嫁になったからって、偉そうなのがずっと気に入らなかったのよ! あんたがいなくなって清々したと思ったのに、透璃様ときたら紫陽花、紫陽花って、奥さんは私なのに!」
「志保さん!」
 志保に近づこうとすると全身にひどい痛みを感じた。水晶の力が暴走している。
「紫陽花、下がれ。俺が対処する」
「時春様、危険です!」
「これは穢れではなく水龍の力だろう? それなら俺の方が適任だ。そんな顔をするな、俺を信じろ、俺は強い」
「わかりました、時春様を信じます」
 時春は満足そうにうなずくと志保に対峙した。
「あなたは誰」
「俺のことを知らないとはな、俺もまだまだということか。悪いが、おまえに名乗る名はない」
 時春が両手を合わせると、金色に輝く光が生まれた。そこに強大な力が集まっていることが分かる。水晶に込められた力とは比べようもないほどの大きな力だ。
「なによ、私には透璃様の力があるの、あなたなんか……!」
「透璃よりも、俺の方が上だ」
 時春が生み出した光は洞窟中に広がる。あまりのまぶしさに紫陽花は目を閉じた。
「この娘、人の世から迷い込んだようだと月臣が言っていた。もとの世界に帰す」
「志保さんは透璃様の花嫁のはずですが……」
「ひとりの水龍に花嫁はひとり、例外はない。この娘は自らの意思でこの地に来たようだ」
「それでは志保さんは……」
「偽りを言っていたのだろう。俺としては、感謝するところもある。だから命までは取らない。現世に帰す」
「嫌よ、帰りたくない! だって、だって、みんな私を悪者にするの」
 泣きながら首を横に振る志保を時春は冷たい瞳で見た。
「嘘を吐かず、己の本分をわきまえ、真面目に生きろ。人の役に立て」
「嫌よ! どうしてそんな馬鹿みたいなことをしないといけないの!」
 志保の訴えに時春は深いため息をつく。
「心を入れ替えろ」
 光がはじけ、志保の姿が消えた。
「心配するな、あるべき場所に帰しただけだ」
「ありがとうございました」
「あれで少しは懲りてくれると良いのだが。先を急ぐぞ、穢れは消えていない」
「はい、今度は私が頑張る番ですね」
「そんなに意気込むな」
「いえ、穢れを祓うとなると意気込みもします」
「そういうものか」
 どのくらい進んだのだろうか。時間の感覚が分からない。暗闇に目が慣れてくる、遥か遠くに星のように小さな光が見えた。
「なにかいるな」
 時春が光を指さしたとき、すすり泣くような声が聞こえた。
 誰かいる……。
 目を凝らして暗闇を睨むと、もやもやとした黒い塊があるのが分かる。
「これが穢れの根源でしょうか」
 手を伸ばして触れようとすると、手のひらに激痛を感じた。それは黒い塊も同じようで、すすり泣く声が悲鳴に変わる。
「紫陽花の浄化の力と反発しているのだ、不用意に触れるな、怪我をしてはいけない」
「すみません、浄化を行っていきます」
 紫陽花は時春に見守られながら祈祷を始める。いくつもの手順を間違わずに行っていく。紫陽花の集中力を欠くように悲鳴が響く。
『どうして私を嘘つき呼ばわりするの! 私ばっかり悪者にして! みんなひどいわ』
 悲鳴の中に声が聞こえる。聞き覚えのある声に紫陽花は険しい顔をした。
『私は悪くないのに、みんなが悪いのに。もう村には戻れないわ』
 耳の奥にこびりついた志保の声と同じに聞こえる。
「どうして志保さんの声が……」
『ここは暗くて怖いわ。どこに逃げたらいいの、そうだわ! 水の底よ、水の底には水龍の都があって、泉に身を投げた女を妻にしてくれると言うじゃない。泉だわ!』
 志保の声は自分だけに聞こえているのかと思ったが、時春の耳にも聞こえているようだ。
「あの娘、泉に落ちる前にこの洞窟に来たのだろう。そこでありったけの怨念を落としていったようだな。厄介な娘だ」
『水龍の花嫁になって、幸せになってやるんだから! 私はいつも正しいの。今に見ていなさい、みんなを見返してやるわ』
 声は再び悲鳴に変わる。志保の声に混ざって、小さな悲鳴が聞こえる。
 この黒いもやは志保や、これまでに洞窟に恨みつらみを置いてきたものが作り出したものだ。だけど、その中にまだなにかいる。暗い塊の中に、小さな小さな光が見えた。それは、小さな木霊だった。木霊に黒いもやが絡みついている。
『過って恨みつらみを飲み込んでしまったんだわ』
 木霊はどんどん負の感情を飲み込み、何年もの時が経ってしまった。もう自分ではどうしようもなくなってしまって吐き出していたのだろう。それが、穢れとなって流れ出した。
『悲しいのでしょう、寂しいのでしょう。ですが、もう苦しむ必要はありません、もう、解放されていいのです』
 紫陽花は心の中で念じる。穢れに巻かれた木霊をいつくしむように、何度も何度も語り掛ける。
『これ以上苦しまないで、どうか』
 体を裂くような痛みを感じる。木霊の嘆きが、痛みに変わって紫陽花に襲い掛かる。
「あぁ……」
 思わず嗚咽を漏らすと、時春が強く体を抱きしめてくれる。
「苦しいのか、くそ! 俺がおまえの痛みを引き受けることが出来たらいいのに」
 時春が触れたところから痛みが霧散する。
「ありがとうございます、楽になりました。このまま浄化します。私に力を貸してください時春様」
「もちろんだ」
 紫陽花は祈りをささげた。何度も何度も、木霊に言葉をかける。すると、次第に黒いもやが小さくなりはじめた。穢れのもとは悲しみや、苦しみ、妬み、嫉み、ありとあらゆる負の感情が木霊に宿ったものだった。その根源ともなる負の質量は測りしてない。
 絶対に負けない。あなたを解放してあげるから……!
 祈祷を行うためには、その負の感情に打ち勝つほどの精神力を必要とする。紫陽花が祈るたびにもやは小さくなり、ついには消えた。
「浄化……したのか……」
「はい、どうにか……もうこれで大丈夫だと思います」
 時春は紫陽花を抱きしめてくる。
「よくやった」
「時春様が一緒にいてくださったから……私ひとりでは無理だったと思います」
「ひとりで背負う必要はない。俺も一緒に背負う」
「心強かったです、本当に……」
 ひとりではないということが、こんなにも心強いのだと時春と出会って初めて知った。
「あなたに出会えてよかった……」
「俺もだ、おまえに出会えてよかった。俺のもとに来てくれてありがとう」
「お礼を言うのは私の方です、私を連れ出してくださってありがとうございました。あの日、悲嘆にくれる私を助けてくださったのは、時春様です」
「女々しいことを尋ねるが許してほしい。おまえはまだ透璃のことを想っているか? いや、想っているところで帰してはやれないのだが、俺ももっと努力しなければいけないと思っている、だが、おまえがどう思っているのか……」
 暗がりで時春の顔が見えないことを、紫陽花は残念に思った。
 時春様は私のことを好いていてくれるのだろうか。私は……。
「透璃様と連れ添った時間は、私にとってかけがえのないものだったと思います」
「そうか……」
「ですが、その間に募った思いはすべて透璃様に渡してきました。私の中には、もう透璃様を思う気持ちはありません」
「ほん、とうか……」
「はい、私は今、時春様のことを愛しく思っております」
 答えると頬が熱くなる。愛しいという感情を、紫陽花は実感していた。
「おまえの顔が見えないのが惜しい……明るいところでもう一度聞きたい」
「そ、それは……!」
 恥ずかしがる紫陽花の頬に、あたたかな手が触れる。視線を上げると時春の顔が見えた。
「紫陽花、愛している」
「私もです、時春様」

 穢れの紫陽花と時春によって穢れの根源は絶たれ、戒砂と波都に流れ込む穢れはすっかり消えていった。
「もう、穢れを祓う必要はありません。それでも、私を必要をしてくれますか?」
 紫陽花が尋ねると、時春は大きくうなずいた。
「あたりまえだ。必ず幸せにする。だから、ずっと俺の隣にいてほしい」
「はい、よろこんで。私も、時春様を幸せにしたいです」
「おまえが隣にいてくれたらいい」
「私もです」
 穢れが祓われた戒砂の国では、国をとり囲む砂漠に少しずつ緑が戻りはじめた。これによって国はますます発展したのである。
 同様に波都の国からも穢れが消えた。透璃のもとに新しい花嫁が来ることはなく、透璃自身も新しい妻を求めなかった。親族の子を養子に迎え、治世に努めたという。
 現し世にもどった志保にはこれまでのような邪気はなく、魂の抜けた抜け殻のようになったそうだ。もとにいた村で慎ましやかに暮らしたそうである。
 緑が広がりつつある砂漠を、一頭の馬が駆ける。その背には、紫陽花と時春の姿があった。
「ずいぶんと緑が増えましたね」
「あぁ、大地が生き返りつつある」
「ずっとこの国を見守っていきましょうね」
「そうだな、ふたり一緒に」
 戒砂の国王夫婦の仲睦まじさは、時春の名声とともに大陸全土に広がっていった。