離縁された水龍の妻は  黒き龍に求婚される

 腕の中で眠っている紫陽花に視線を落とす。泣きつかれて眠ってしまったまつ毛の上にはまだうっすらと雫が載っていた。この小さな肩に、どれだけの責任を背負ってきたのだろうか。
「とうとう手に入れてしまった」
 水龍の花嫁を奪った。
 それが正しいことなのかどうか、時春にはわからない。波都からの使者は追い返した。紫陽花を祈祷のための道具だと思っている波都には帰したくない。紫陽花を幸せにするのは自分でありたいと思った。

 かつて、戒砂の国は砂漠に打ち捨てられた辺境の地であった。黒龍の治める地はもともと戒砂の北にそびえる山麓にあり、時春はそこで生まれた。純血を尊ぶ黒龍の一族の中で、唯一妾腹に生まれた時春の境遇は芳しいものではなかった。龍の年で十五を迎え、時春に与えられた領地は砂に埋もれた戒砂の国であった。一族から追い出されたも同然である。
 言葉通り砂をかむような思いをしていた時である、水路の相談をすべく訪れた波都の国で、透璃の妻になったばかりの紫陽花に出会った。人の世から生贄として連れてこられた幼い少女は、少しも悲壮な素振りを見せず、波都の繁栄に心を砕いでいるようだった。ただひとり故郷を離れ、見知らぬ土地に来た紫陽花の姿に自分を重ね、したたかに生きようとする姿に心を打たれた。
 以来紫陽花に心を奪われ、ただの一度も縁談も受けず、戒砂の国が大国に名を連ねると手のひらを返したかのように本国から送られてくる姫たちのことも袖にしてきた。
 欲しいのはただひとり、紫陽花だけであった。
 国政に努めるうちに国は大きくなり、代わりに山麓からの穢れで本国は瞬く間に衰退していった。生まれ故郷が亡くなってもう何年も経つ。
 戒砂が大陸一の大国になったころ、波都の透璃のもとに新しい生贄が来たという知らせが入ってきた。
 水龍は現世から生贄という名目で花嫁を迎えると噂には聞いていた。現に紫陽花も雨乞いのために遣わされた生贄だったと聞く。だが、ひとりの水龍に花嫁はひとりと決まっていたはずである。長い歴史を見ても、ひとりの水龍にふたりの花嫁などいたことはない。
 おかしなものだと思っていたが、時春にとっては幸運であったと言うしかない。
「だが、紫陽花はひどく傷ついたことだろう。弱ったところに付け込んだと言っても間違ってはいない。だが、帰りたいと言われたところで、俺はきっと紫陽花を透璃のもとへは帰せなかった」
 自分の価値を、他者に置いていた紫陽花の心を癒してやりたい。
「必ず幸せにする。だから、そばにいてくれ」
 軽やかな寝息を立てる紫陽花の額に、時春はそっと口づけた。