離縁された水龍の妻は  黒き龍に求婚される

 波都に穢れが溜まり始めた。人々は病に倒れ、国から活気が失われてきている。
 頭を悩ませる透璃のもとに、志保を診ている医師が面会を求めてきた。
 会うことを許すと、青ざめた顔の男が姿を見せた。
「志保様のことで、透璃様に申し上げたいことがございます」
「どうした」
 話を促すと、医師は深々と平伏した。
「申し訳ございません」
「もしや、志保の腹の子になにかあったのか!」
 医師の男は床に頭をこすりつけたまま、叫ぶように言った。
「志保様の御腹の中には、もとよりなにもおりません」
「なん、だと……! おまえは俺を謀ったというのか!」
「志保様に家族を人質に取られております。それで懐妊したと嘘を……いずれ紫陽花様からの叱責を負担に流産したと志保様は仰るつもりだったようです。ですが、時期を逃しまして、私の方も引くに引けなくなってしまいました。ですが、もう限界でございます。穢れを祓わなくてはこの国は終わりです」
「なんということだ……」
 積み上げてきたもののすべてが崩れ落ちるような感覚がした。耳の奥で何かが壊れる音がする。
「紫陽花を呼び戻せ」
「は……?」
「戒砂に使いを出したのだろう! 紫陽花はなぜ帰ってこない」
 答えに困る医師の代わりに、控えていた男が答える。
「透璃様、紫陽花はすでに戒砂の祈祷師となれております。簡単に連れ帰ることはできません」
「時春に脅されているのだ! 無理矢理戒砂に閉じ込められているに違いない! 救い出せ!」
「その可能性は低いと思います。透璃様も知らせをご覧になられたのでしょう。紫陽花様は戒砂の地で歓迎され、ご本人も精力的に浄化を行っておられます。透璃様がなさることは、志保様に穢れの浄化をしていただくことです」
「志保……志保だと、志保を呼べ。腹の子について問い出す」
 ほどなくしてやってきた志保はキョトンとした顔で透璃の隣に寄り添うとその腕に自分の腕を絡めた。
「透璃様、志保をお呼びですか?」
「志保、具合はどうだ?」
「お腹の子ですか? 順調だと医師に言っていただけました」
「なにもいないのにか」
「え?」
「その腹にはなにもいないのに、なにが順調なのだ。俺が聞いているのは浄化についてだ」
「な、なぜ、それを! あの薮医者……! そ、それは医師の虚言でございます! い、いえ、腹に何もいないのは本当でございます。流産してしまったのです。紫陽花様がお手紙をくださって……その中に、私への恨み辛いが書かれておりましたから……悲しくて悲しくて……嘘をついていたことは謝ります。透璃様をがっかりさせるのが怖くて……」
「紫陽花の手紙は祈祷の方法が事細かに書かれていたと聞いたが」
「そ、それは偽りでございます」
「手紙を見せろ」
「そんなものはもうありませんよ、悲しくて破り捨ててしまいました」
 透璃は深いため息をついた。
「もはや誰が嘘ををついていても構わない。そんなことは些細なことだ。問題なのは、紫陽花を離縁してしまったことだ。おまえが紫陽花と顔を合わせたくないなどと言い出さなければ、俺は紫陽花を離縁したりなどしなかった」
「そ、そんなこと私は頼んでおりません! 離縁したのは透璃様が勝手になさったことでしょう! おかけで私は祈祷師に文句を言われて迷惑をしております! あの女が出ていったりするから! はやくあの女を連れ戻して祈祷させてください!」
「祈祷はおまえの仕事だろう」
「嫌ですよ! どうして私があんな面倒くさいことをしないといけないの! なんのために泉の底に逃げてきたと思っているの!」
「どういうことだ、おまえは生贄ではないのか……」
「そ、それは……生贄にさせられたのですが……日照りで………」
「以前は洪水だと言っていたな。なぜ矛盾が生じる」
「そ、そんな前のこと、忘れてしまったのです。思い出したくないことですもの……」
「虚言はもういい。本当のことを話せ」
 透璃がそう言うと志保は眉を吊り上げた。
「どうしてみんな志保を嘘つき呼ばわりするの! 地上でもそう、水の底でもそう、みんなひどいわ! 大切にされたくて逃げてきたのに透璃様まで……」
「逃げてきたのか、地上から?」
「そうよ! みんな私のことを嘘つきだって罵るの! 村にいられなくなって、峠の洞窟に逃げ込んだの。だけど、中は真っ暗で怖くって、途方に暮れていた時に隣村の水龍の生贄の話を思い出したのよ! 泉に身を投げれば、水龍の奥さんになれて大切にされるって。それなのに、透璃様には紫陽花がいて、私のことを追い返そうとしたじゃない。私、悔しかったのよ! その上祈祷なんて面倒なことを教えられて、邪魔な紫陽花をやっと追い出したと思ったのに、あの女、私に面倒な祈祷を押し付けたのよ!」
「おまえ……よくもそんなことを……とんでもないことをしてくれたな」
「もとはと言えば、透璃様がいけないのよ! はじめから志保のことを大切にしてくれたらよかったのに! 事あるごとに紫陽花の名前を出すのだもの、だから私も子供ができたと嘘を吐くしか無かったのよ!」
 透璃はうなだれた。理解が追いつかない。自分はこんなもののために紫陽花の手を離してしまったのかと。
「本当に俺は愚かだった」
「ふん、ようやくわかったのね、それなら紫陽花を連れ戻してください!」
「その前に志保、おまえには南の離れに移ってもらう」
「南の離れですって! あそこは監獄ではありませんか」
「それ以外におまえにふさわしい場所があるのか?」
 透璃の暗い瞳を見て、志保子は一瞬言葉を失う。だが、透璃を責める言葉は消えない。
「透璃様……強い水龍だなんていっても、ただの役立たずではありませんか! こんなところに来て失敗しました! どうせ花嫁になるのなら、洞窟の向こうにいるという黒龍様のところにすればよかった!」
 喚く志保を連れて行かせると、透璃は頭を抱えた。
「紫陽花を、連れ戻してくれ。いくらでも頭を下げる。心から謝罪する、だから、紫陽花に俺のもとに帰ってきてくれと伝えてくれ」
「透璃様、大変申し上げにくいのですが……」
「なんだ」
「戒砂から手紙が届いております」
「紫陽花からか!」
「いえ、時春様からです。紫陽花様を正式に奥方にされたそうで……」
「なんだと……紫陽花は俺の妻だ」
 俺の妻だった。十年もの間ずっとそばにいたではないか。それが、どうして時春の妻になっているのか。
 失ったものの大きさを実感した。紫陽花と過ごした穏やかな日々はもう二度と戻らないのだ。それがほかでもない自分のせいだと思うと、やり場のない思いに苦しんだ。
「穢れに関しては紫陽花様と時春様が協力してその根源を絶ってくださると書いてあります。残っている穢れに関しましては、後日紫陽花様が浄化してくださるそうです。ですので、穢れの問題は今に解消されるかと」
「……そうか」
 穢れなどもうどうでもよかった。ただ、紫陽花とともにあった日々を恋しく思うばかりだ。
 緊張した面持ちで俺のもとに降りてきた紫陽花はとても可愛らしかった。その緊張をほぐしてやりたくて、兄のように接していたのを今でも覚えている。守ってやりたいと思った。
 年を重ね、次第に美しくなる紫陽花に気おくれした。母から教えられた浄化の祈祷を習得した紫陽花は波都を守る盾になった。もう、俺が守る必要はなくなってしまったと、寂しく思っていた時だ。志保が落ちてきた。不安そうにする志保のなかに幼い日の紫陽花を見て愛おしく思った。
 生贄になるべく降りてきた紫陽花がつらい修行に耐えるのは当たり前だと心の何処かで納得していたのかもしれない。同じことを志保がしなければいけないと知ったときは不憫に思ったのに。
 紫陽花と志保に、どんな違いがあったというのか。紫陽花の方が幼かった。なぜ、紫陽花は当たり前だと思ったのか。それは、彼女がつらそうなそぶりを見せなかったからだ。覚悟の仕方が志保とは違った。
「すまない紫陽花、本当に俺は愚かだった……」
 きっと、時春は紫陽花を手放したりはしないだろう。俺のもとに彼女がもどることはない。
「二度と……」
 つぶやいた言葉は嗚咽に変わった。

 南の離れに移した志保が水龍の力が宿った水晶をもって逃げ出したという知らせが透璃のもとに届くのは、雪のちらつく季節のことになる。