「まぁまぁ、一華さん。蓮月家の嫁ならこのくらい準備をするのは当たり前でしょうに。ハァ⋯⋯。本当に貴女ってグズなんだから⋯⋯。ほとほと呆れてしまうわねぇ。きっと、総悟もそう思ってるのでしょう。世継ぎに恵まれないのもそのためかしらぁ」
あでやかな着物を身にまとった五十代くらいの女性は、フッと嫌味ったらしく大きなため息をついた。
その背後では使用人と思われる数名の女性たちがクスクスと小馬鹿にしたように笑っているのが見える。
そんな中、
「⋯⋯お義母様、申し訳ございません。こんな不出来な私では、やはり蓮月家には相応しくないですよね⋯⋯」
小さく顔を伏せ、反省の言葉を述べたのは、十代後半くらいの可憐な少女だ。
黒い艷やかな髪は背中より長く、色白の肌に綺麗な黒真珠のような瞳には儚げな印象を抱かせる。
フルフルと小さく肩をふるわせ、手で顔を覆う少女の瞳からはポロポロと涙がしたたり落ちていた。
そんな少女の様子を見て、満足げに微笑むあでやかな着物の女性は、ニタリと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あらあら、一華さん、貴女そういうところはよく分かってるのねぇ。それなら今後は蓮月家の嫁として、私の言うことを⋯⋯」
「えぇ! それはもう! 本当にそう思いますわ! というか、これ以上お義母様にご迷惑をかけたくないと常日頃思ってますの。だから、私、本日付けで蓮月家から離縁したいと思っていますのよ」
女性の言葉を遮って、バッと顔を上げた少女は先ほどまで泣いていたとは思えないほど満面の笑みでそう言い放つ。
「⋯⋯はい? い、一華さん、貴女、今なんと⋯⋯?」
ポカンと呆気に取られている女性とその後ろに控えている使用人たち。
儚げな少女から出るはずのない"離縁"という言葉に耳を疑っているのだろう。
「あら、お義母様ったら、お年のわりに耳が遠いんですのね? 私、離縁したいと思っておりますの。それが蓮月家にとっても総悟さんにとってもいいのではないかと」
「なっ!?」
もう一度その言葉を述べた瞬間、先ほどまで余裕綽々だった女性は血の気が引いたように真っ青になり、ワナワナと唇を震わせている。
そんな女性の表情を見つめ、可憐な少女は心の中でクスリとほくそ笑んだのだった――。
**
「た、大変だ⋯⋯! 二葉、こちらに来なさい!」
それは、夏の日差しが強くなってきた初夏になる頃のことだった。
父、篤郎の焦ったような声が、野木家の屋敷内に響き渡ったのは――。
「もうお父様ったら、そんなに大きな声を出してどうされたのです?」
父の部屋に出向いた二葉は、ソワソワと落ち着きがない父を嗜めるように声をかける。
「二葉! い、一華が⋯⋯、蓮月家からいなくなったと。野木家に出戻っていないかと先方から早馬が来たのだ」
「一華お姉様が⋯⋯?」
一華とは、昨年、蓮月家へ嫁にいった二葉の双子の姉の名前だ。
背中まである長い艷やかな黒髪に、白い肌。
大きな瞳はまるで黒真珠のようだと近所でも評判の美人だった。
可憐な一輪の花だと、男性陣から羨望のまなざしを受けていた姉は、見た目だけでなく、器量も良く、気遣いのできる女性で二葉の憧れでもあった。
かくいう二葉も一華と双子と言うことで顔立ちはよく似ていたが、性格はまるで正反対。
おしとやかで、やや体が弱く、繊細な一華。
勝ち気で負けず嫌い、腕っぷしの強い二葉。
数年前に亡くなった母、花恵からは「淑女はおしとやかになさい!」と二葉はよく怒られたものだ。
「私、お姉様が戻ったなんて聞いてないわ⋯⋯。いったいどこに行ってしまったのかしら」
「と、とにかく。蓮月家にはうちには戻ってないと伝えないと⋯⋯。一華はいったいどこに行ってしまったのだ」
「お父様、とにかく落ち着いてください。一華お姉様のことですもの、何か理由があったに違いないわ。もしかしたら、すれ違いでもう少ししたら戻ってくるかもしれないし、少し待ってみてはどうかしら?」
娘が消えたことで狼狽する父親を落ち着かせる二葉。
「そ、そうだな。一華のことだ、きっと便りがあるはず」
「えぇ、そうですわ」
しかし、そうは言いつつも、二葉自身、なんだか得も言えぬ不安を感じていた。
(責任感の強いお姉様が何も言わずに蓮月家を出てくるなんて⋯⋯。何があったのかしら?)
そんな疑問を抱え、自室に戻った二葉は文机の上に何かが置かれているのに気づく。
「あら、手紙?」
父に呼ばれて、部屋を出る前には置かれていなかった手紙に、二葉は小さく首をひねる。
しかも、差出人も宛名も書かれていない手紙だった。
訝しげに思いつつ、そっと手紙を開いてみて、一瞬、二葉は目を疑う。
「一華お姉様の字だわ⋯⋯」
それは間違いなく小さい頃から見知った双子の姉、一華の文字だったから。
【二葉へ 突然の手紙ごめんなさい。もうそろそろ蓮月家から連絡が来ている頃かと思います。私はこの一年蓮月家の嫁として懸命に責務を果たしてきましたが、もう疲れてしまいました⋯⋯。お父様や貴女に迷惑をかけることは重々承知しています。本当にごめんなさい。でも、これ以上あそこに居れば私が私でなくなってしまう。その前に勝手を承知で家を出ました。こんな姉でごめんなさい。許してね。一華】
そう綴られた手紙にはいくつもの涙の跡がはっきりと残っていて、一華の悲痛な想いが伝わってくる。
"私が私でなくなってしまう"
その文字を見つめ、二葉は小さく唇をかみしめた。
いっい姉をここまで追いつめた原因は何なのか。
蓮月家での一年間、姉の身に何が起こったというのだろうか。
半年前に里帰りをした時「毎日楽しく過ごしている」と話していた姉の顔を思い出すと、二葉は、自分の中に沸々と怒りが湧いてくるのを感じていた。
もしかしたらすでにあの時から、お姉様は一人で何か抱え込んでいたのかもしれない…⋯。
私は双子の妹なのにそんなことにも気づかないで⋯⋯っ!
気づけば、二葉は姉の手紙を握りしめ、父の部屋に向かっていた。
そして、
「お父様⋯⋯! 私がお姉様の代わりに、いいえ、お姉様として蓮月家に行きます! お姉様の身に何があったのか調べなくてはなりません」
驚いて目を丸くする父に対してそう強く言い放っていた。
