【短編】冷遇されていた正妻ですが、武家当主様からの独占愛が止まりません

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 数日が経過し、久我山家の屋敷は表向きの平穏を取り戻していた。
 外壁の修復作業も終わっている。
 あの一件から変わったことといえば、屋敷中の者たちの私を見る目だった。
 私に対する態度が慎重になっている。
 私との接し方を推し測りかねている様子。
 そして、いつからか私は景継様のお声を探すようになっていた。
 控えの間で係の女中と帳簿を見ながら話し合った後で、自室に向けて渡り廊下を歩いていた時。
 前方に人影があることに気がつき、歩みを停める。
 ――景継様だった。
 何度も遠目ではお姿を拝見してきた。
 けれど、こうして行く手に立たれているのは結婚して三年経過するにも関わらず初めてに近い。
 私は丁寧に頭を下げた。

「景継様、お疲れさまでございます」
「――ああ」

 短い応答。
 それだけで立ち去ってしまうかと思ったのに、私の前に立ったまま、景継様は動かなかった。
 初めて景継様にお会いした時に驚いたほど、精巧で端正な造りをされているお顔立ちは何かを語りはしない。
 廊下には他に誰の姿も見えなかった。
 庭の木々が風に揺らされて、さざめく音だけが聞こえている。

「――怪我はなかったか?」

 景継様から質問を受ける。

「はい。皆様のおかげで……」
「――そうか」

 低く落ち着き払った景継様の声色。
 景継様に伝えたいことを探しているのに、適切な言葉が見つけられない。
 
「お気遣いいただき、誠にありがとうございました」

 結局、無難な言葉にたどり着いてしまう。
 再び会話は途切れる。
 それでも不思議と気づまりはなかった。
 普段は獲物を狩る狼のように鋭い目元から注がれる視線が、思いのほか優しいせいかもしれない。

「――筆は使っているか?」

 景継様からの問いかけに自然と瞬きが多くなる。
 
「はい。とても使い心地がよく、(はかど)っています」

 思わず口許が緩み、微笑んで答えると、景継さまは何かを言いかけた後に口を噤んだ。

「――無理はするな」
「……はい」

 そう告げると、景継様は歩き去った。
 私も振り向かずに前へと進む。
 胸の鼓動が速くなっている。
 景継様は久我山家の当主として私に声をかけただけかもしれない。
 そうだとしても、この高なる鼓動は止められそうになかった。

 その日も昼過ぎに控えの間へ向かう。
 確認を済ませ、自室へと廊下を歩いている途中、ひとつの部屋から女中たちの賑やかな声が聞こえてきた。

「筆頭様もついにお認めになったそうよ」
「まあ。ということは正式に決まるのね」

 筆頭様というのは大宮殿。
 正式に……?
 言葉の断片を気にしながらも、そのまま足を進める。
 庭先で弥生様が数名の女中に囲まれていた。
 新しい衣装用なのか弥生様は身体の寸法を測られていて、囲う皆が笑顔ではしゃいでいる。

「やはり弥生様には桃色がよく似合いますわ」

 まるで祝い事の準備のように見えた。
 祝福の空気が隠せていない。
 思い当たったのは一つの結論。
 弥生様が正式に景継様の側室になるのかしら……?
 それとも私は離縁されて弥生様が景継様の正妻に?
 足を止めずに自室へと戻って、机に向き直る。
 動揺……するほどのことではない。
 景継様との婚姻は政治的なもの。
 私は三年間で一度たりとも公の場に立たせてもらえなかった形だけの妻。
 成すべき形へと変化する。
 それは自然なことで、受け入れていたことで……。
 なのに……。
 いつもは筆を握れば落ち着けたのに、帳面に綴った線がやけに震えている。
 ――墨を多くつけすぎてしまったのかもしれない。
 私には書いた文字が滲んで映った。